‐03‐ ピエロ
『妖精の隠れ家』……というのが、この店の名だ。
階段を降りると、店内には老若男女のお客さんがごった返していた。
それもそのはずで、朝方から開店しているのは、この町ではここぐらいしかない。
早朝は材料の仕入れや、売り物の仕込みなどをして、早くとも昼間から店を開くところばかりだった。そんな町の常識をひっくり返したのが、この『妖精の隠れ家』だった。奇をてらっていると開店当時は嘲笑されたものだが、今では大幅な黒字経営ができるようになった。
以前、参謀役として一役買っていたスカーレットだからこそ、そのような奇抜なアイディアが捻り出せたのだろう。スカーレットがそこらの料理長よりも、巧みな料理の腕があればこそだが。
パンの芳ばしい匂いが鼻腔を擽る。
また新しい商品を開発したのだろうか、ライオネルが見たこともないパンも視界に入る。
昨日だったか、牛の乳を発酵させたものをパンに載せた試作品を口にしたのだが、途轍もなく美味しかった。まさにほっぺが落ちそうなほどに。他にも具材が載せられているのがちらほら見えるので、恐らくは昨日の改良品なのだろう。
と、視線が絡み合ったスカーレットは、接客を一時中断すると、
「ライオネル様、おはようございます!」
ひと目も憚らない大声で胸に手を当てる。
軍仕込みの挙動は、いつまで経っても治ることのない悪癖だ。これさえなければ他人に気を配れる人間なのだが、融通が利かない時がある。
「もう。様づけじゃなくてもいいって言ってるでしょ、スカーレット。そんな堅苦しい敬語なんて使わないでいいってば」
「いいえ。ライオネル様は、私にとっては永遠の憧れです」
なにやら頭が痛くなってきた。
本意で言っているのが、なおタチが悪いと言ってもいい。
「……君は、昔から何も変わらないね」
「変わらないのではありません。私は変わりたくないのです」
「はいはい」
灼熱の炎のような髪は、豊満な胸元に乗っている。
真面目そうな印象を受けるフレームの眼鏡は、丸みを帯びた紅い瞳を囲っている。
店の制服の上からはエプロンドレスを着用していて、線の細い身体の線を強調している。彫像のような腰のくびれの描き方と、自己主張の激しい胸はアンバランス。容姿は抜群に綺麗なのだが、ライオネルのこととなると、愚直すぎる性格が足枷となっている。
こちらの指示がないと永遠に直立体制でいそうなスカーレットに、もう動いていいよと、疲れたように言うと、ようやく接客に戻る。キビキビとした動きは精錬されていて、売り子としては有能だ。
だが、七歳も年上であるスカーレットの態度に、どこか違和感を感じてしょうがない。いくら昔のことがあるといっても、人生の先輩から敬語を使われると足の裏辺りがムズムズする。
「ん?」
くいくいと、呼び出すように服の裾を引っ張られる。
店の中を騒がせてしまったせいで、客から苦情の声を浴びせられるのだろうか。一応この店の店主として威厳が出るように顔を引き締める。
だが、ライオネルが振り返ると、そこに立っていたのは穏やかな表情をしている女性だった。あ、あははとちょっと困っているように微苦笑している。すいません、と微笑を携えながら女性は頭を下げると、斜め下へと視線をスライドさせる。
ライオネルがどうしたのかと視線を落とすと、引っ張っていた当事者が誰なのかが割れる。
「お兄ちゃん、昨日はありがとう」
声は上擦っていて、やっと言えたといった感じ。
ぴょこんぴょこんと、忙しげに閉じたり開いたりする猫の耳。
恥ずかしそうに俯く幼女の視線に合わせるように膝を折ると、ポンポンと頭に手を軽く当てる。すると黒い尻尾が緊張しているかのようにピンと張ったので、警戒心が解けるよう心を込めて頭を撫でる。
誰だか一瞬分からなかったが、昨日出逢った『亜獣人』の親子だった。
「どういたしまして。小さいのにお礼ちゃんと言えて偉いね」
「あ、当たり前だよ。私だってお礼ぐらい言えるもん」
「うん、そうだね。ごめん、見くびってたよ。ミーアちゃんはもう立派な女の子だね」
「……う、うん。そ、そうだよ! 私は凄いんだから!」
幼女の顔と尻尾はふにゃふにゃと弛緩する。
含羞を帯びた顔になると、ギュッとライオネルの服の端を掴んで顔を俯かせる。喜びを噛み締めようにして、何も言葉が出せなくなっている様子は本当に子どもらしくて可愛い。
子どもの親は助け舟を出すようにして、半歩踏み出して頭を下げる。
「昨日は本当に、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。うちの商品を買っていただいたみたいで。……なんだか、悪いですね」
母親は手にパンの包みを持っていた。
「いいんです。この店の評判は聞いていますから。……ほんとは、ずっと来てみたかったんです。ここのパンは凄くおいしいてって、みんな言っているんですよ」
「そうなんですか。それは僕にとっても嬉しい誤算です」
かしこまった態度で話すと、目尻の辺りがヒクヒクしてくるのだが、なんとかボロがでないように気をつける。
「誤算……ですか?」
「ええ。その評判があったからこそ、僕の店の場所がお分かりになったんですよね?」
「は、はい」
こちらが、何が言いたいのか分からずに動転している顔。よくよく見れば、母親は童顔。少し天然でいて純朴そうだが、不審な目でこちらを見ている。
悪印象を払拭するためにも、まるで、舞台の上で劇団の人間が演技するかのように、ライオネルは台詞を述べる。勿論、棒読みになってしまわないよう、心を込めることを忘れない。
「良かったです。この店を経営しているお蔭で、こんなにも可愛いお子さんとまた会えることができたんですから。……それから、あなたと出逢えことも誤算の一つです」
一瞬キョトンとした母親だったが、すぐに冗談の類の言葉だと気がついてくれた。手を唇に当て、恥ずかしそうにしながら、ありがとうございますと言ってきた。
少しばかり目が泳いでいるのは、子どもを産むほどの年齢にも関わらず、青二才であるライオネルの歯の浮くような台詞を受けての反応だろうか。どこか紅潮しているようにも見えた。
それから一通りの話を他の客の迷惑にならないよう店の外で終えると、視界から完全に消えるまでいつまでも手を振っていた親子を見送る。何度も何度も振り返ってきたので、こちらも振っていたのだが、母親まで律儀に手を振っていたのが少しおかしくて微笑が零れた。
ガタン、と閉店の合図である看板をスカーレットが乱暴に外に出す。
店内のお客はもういないようだが、店のパンはまだ捌けていない。いつもならば全部売り切れるまで開店しているので、スカーレットに当然の疑問を投げかけた。
「なんだか今日、閉めるの早くない?」
「忘れてしまわれたんですか? 今日は仕入先に行く日です。それに……」
スカーレットは、話の続きを紡ぐのを躊躇う。
このままにしておくと続きが気になるので復唱する。
「それに?」
「これ以上、女性客が増えてもらっては困りますので」
「ダメだよ、スカーレット。少しは女性と接することもしていかないと」
スカーレットが、極度の女性嫌いであるということを思い出した。
接客をしている分には、何も問題はないようだが、時折こうして同性を忌避する傾向にある。軍隊にいた時は女性隊員というものが稀少だったので、その時に比べるとやはり反応が顕著だ。
「……嫌い、というわけではないのですが」
「そう?」
「……はい」
嗜めた程度に抑えて言ったのだが、ショックを受けたようにしゅんとしながら、早足で店内へ入っていく。
少しでも否定的な言葉を投げかけると、ああして拗ねたような態度をとることがあるのだが、決まって女性関連の会話の時だ。まるで、どこか劣等感とか負い目に感じることがあるようだった。
だが、あまり詮索しない方がいいだろう。
土足で踏み入れて欲しくなさそうではあった……というよりライオネルに打ち明けても、無駄だと言わんばかりの態度だった。ショックでないと言えば嘘になるが、親しき仲にも距離感というものが必要だ。
ライオネルは屋根の上を見上げながら、スカーレットの女性嫌いはどう克服できるのだろうかと考えていると、
空からピエロが降ってきた。
な、え、と信じがたい光景に慄いていたのだが、身体は反射的に動く。
関節が外れるのではないかという衝撃を腕に受けながらも、落ちてくるピエロをなんとか受け止めようとしたが、少し失敗した。
「……うっ!」
ドロップキック気味に、蹴りが心臓辺りに喰いこんできた。ギッと奥歯を噛み締めて耐える。ギュギュと靴が地面を擦れて土煙が立たせるが、やはり人一人分の体重を支えきれずにドシンと地面に尻餅をついてしまう。
ピエロは怪我がないのか、すぐに無言で立ち上がる。
いてて、とライオネルはウインクしているかのように片眼を閉じながら立ち上がる。
「怪我は……ない?」
「………………」
パッパッと、ライオネルは尻についた土を掃きながら、ピエロが返答するまで待っているが、今のところは口を開く気はなさそうだ。ゴホッゴホッ、と咳き込みながらピエロを見やると、何故だか唖然としていた。
化粧をしているため、どんな人相なのかは判別できない。
二つの角のような大きめの帽子を被っていて、まるでサーカスに登場する道化そのものの格好をしているのだが、近くで視認するとかなり怖い。遠目に見ている分には、お茶目なイメージなのだが。
不気味な顔をしているピエロは、逡巡するように、
「…………あ、り…………」
「え?」
「………………」
「ちょ、ちょっと!」
そのままピエロは物も言わずに、どこかに走り去ってしまった。何か言いたげではあったが、なにやらピエロにはピエロの事情があるらしい。
チラリと、上を見上げる。
屋根と屋根を飛び乗っている最中に足を滑らしたのだろうか。とにかく、屋根の上を走らないといけない何やら重要な事情がピエロにはあったらしかった。
……今のライオネルには全く想像もできなかったが。