‐25‐ 灼熱の翼
急速に地面が押し迫ってくる。
空へと放り出されたクロエには、体全体に圧力がかかる。地面に激突するまでに、骨が喚きを上げる。
時間が停止してしまったかのように、妙にゆっくりと落下しているように感じる。全身の毛穴が開ききり、涙は上空へ置き去りにしながら、命の終わりを肌で受けていた。
雲の裂け目から、太陽の光が射し込む。
世界が闇から光に包まれていくその景色は綺麗すぎて、涙を堰止めることができなかった。
クロエのせいでライオネルが死んだと指摘された時、何も言い返せなかった。何故なら、その通りだったから。興味本位で外の世界を眺めてみようと思わなければよかった。誰かを救いたいなんて、ただの口実に過ぎなかったのに。
行動すれば、停滞していた何かが変わると思い込んでいただけだった。それはきっと、思い違いでしかなかったのだろうけれど。変わったものなんて何もなかっただろうけれど。
視界の隅に、影が映る。
死ぬ前の幻覚だろうか。
二枚の羽を雄々しく広げる、大きな鳥だった。
そして、クロエは思う。
自分はまるで、籠の鳥のようだったと。
飼い慣らされた状態のまま、適度に餌を与えられていたが、それだけでは満足できなかった。ルーティン化する生活を打破するために、外の世界がどんなものかを知るために籠から逃げ出した。
だが、その先にあったのは一体なんだったのだろうか。
サーカス団『パラダイス・ロスト』にいた頃は、確かに退屈だった。旅をしていく内に、盗賊に襲われることもあったが、ずっと神の如き魔法を持っていたハンスマンに護られていた。だから、何も感じなかった。自分が護られているということに、気がついていなかった。
そして、自らの意思で自由に世界を見てみたいと思い、飛び出した結果、何を得られたのだろうか。
ただ、無力な自分を、現実を突きつけられただけだった。
鳥は空を飛べる。例え、地面に落ちたところで、また飛べばいい。何度だって飛んで、傷だらけになっても、ゆっくりと飛び方を覚えていけばいい。
だが、クロエは道化そのものだった。
少女のように夢を見て、枷を外した。大空を飛び回ろうとして、追っ手と攻防して、そんな時に出逢ったライオネル。
それは、クロエの理想そのものだった。そんなちょっとした危険と隣り合わせになりながらも、その状況に酔っていた。このままこの旅がずっと続けばいいとさえ思った。
だが、その代償。
その末路は――大切な者の死だった。
地に落ちた時に、ようやく気がついた。
クロエに翼なんてない。
空を自由に飛びまわることのできる鳥にはなれなかった。
そして、人ですらなかった。ただの人形に過ぎない。ここで朽ち果ててしまっても、きっと誰も悲しまない。生きているだけで、誰かを傷つけるだけの存在でしかないのだから。
そのことに気がつかずに、踊り狂っていた。どうしてこんなことになったのだろう。どうせ死ぬのなら、ライオネルを道連れなどせずに、一人で死んだほうがよかった。
いまさらライオネルにどれだけ謝っても遅い。もう、この世にはいないのだ。だが、せめて……せめて彼と同じところにいけることだけが救いなのかもしれない。
そうして、涙に目を眇めていると、
「………………?」
鳥がぐんぐんと上昇気流を掴んだかのように、飛翔する。こちらに近づいてくる。
まるで、クロエを目標としているように、落ちる速度に負けない勢いで、どんどん距離を縮めてくる。その姿は後光があるかのように、あまりに眩しかった。
いいや、朝日だけじゃない、翼のせいでもあった。
その鳥の羽は、灼熱の翼だった。
目一杯に広げた大きな紅い翼は轟々と、大空を焦がすかのように燃えていた。どこまでも広がり、どんな空気でさえも切り裂くような翼は、渾身の力を持って羽ばたく。
そして、鳥に捕獲されているかのようなまぬけな人間がいた。輝かしいばかりの黄金色の髪をしているその人間は、全身から血が流れている。激痛に苦笑しながらも、それでもその姿はクロエの体を射抜いた。
水滴が頬を伝う。
喜びのあまり咳き込み、嗚咽をしながら、枯れる喉でその名前を叫ぶ。
「ライ!!」
急速に落下していたクロエを、ライオネルは力強く抱きしめる。その匂いも、温もりも、表情も、何もかもが心に突き刺される。
こんなの、まるで騎士に救い出された、お姫様のようだ。
重力といったものを無視し、そのまま遊覧飛行のように優雅に飛ぶ。
「ライ。どうして? 死んだんじゃなかったの?」
「死んだって死にきれないよ。……クロエを助けるまでは」
ああ。
このどんなことだって不可能を可能にしてくれると思わせてくれる笑い方は、ライオネルそのものだ。この抱擁の温もりも決して夢なんかじゃない。
「ライ。どうして? ここが分かったの?」
「クロエの仲間だった人から聞いてね。それから、君の偽物がいたことも、その人から聞いたんだ」
何のことなのか分からなかった。
だが、そのままクロエは最も知りたかったことをライオネルに訊く。
「ライ。どうして? 傷だらけになってまで私を助けてくれたの?」
「言わなきゃ、分かんない?」
子どものように顔をクシャクシャにしながら、ライオネルは明快に答える。
クロエは落涙しながら、その表情に見惚れていた。
「ライオネル様。そろそろ地上に――」
ふてくされたように、紅い瞳をした女性が炎の翼をはためかせる。ブンッと空気を切り裂く音は、どこか怒り狂っているようにも聴こえる。
背中から服を貫くようにして紅い翼は生えているように視える。クロエと違って、本当に空を飛べる人間だ。
きっと、スカーレットという人だと思った。
ただの直感だが、きっと間違いじゃない。その人の同じような顔で、クロエもライオネルをきっと視ているのだと思ったから。
「……そうだね。でも、まだ、もうちょっとだけこの景色を見ていたいかな」
ライオネルの視線を追うと、そこには無限の空が広がっていた。
どこまでも続いていく。
ばらばらの世界を繋げる、たった一つしかない空。
自分の苦悩がちっぽけだと思えるほどに、あまりにも雄大だった。
それを照らし、色をつける朝日が、底抜けの闇を消し去るように――どこまでも光を放っていた。




