‐21‐ 決着
「その拾った命。棄てるに足る理由があるのか? 私には……到底理解し難い蛮行だな……」
「そうだね、それは僕もだよ。もしかしたら……ここにいることは、この僕が一番驚いているのかもしれない。もう少し、現実的な考えを持っていると自負していたからね」
血なまぐさい過去は、とっくの昔に脳内の片隅に葬り去った。
だが、そうすると、胸がポッカリと開いたような気持ちになった。それからすぐに、体全体を蝕むような痛みに襲われた。
眠っていると、見殺しにしてしまった仲間が、ライオネルを底なし沼へと足を引っ張る悪夢を見たこともあった。
だが、それが過ぎると、驚く程に平穏な生活がライオネルを待っていた。
スカーレットの提案によってパン屋を経営していく中で、自分なりの楽しみを見つけることができた。売れていくパンを眺めていると、それだけで頬が緩んだ。日々お客と接していく内に、パンの失敗作を作ったこともあったが、それもいい思い出となった。いつからか、常連客ができて、おためごかしなしに味を褒められるようになった。
そんな幸福めいた輝かしい毎日。
ライオネルのセピア色の記憶の中では、誰もが笑っていた。
まるで、全てが夢幻のような、光に包まれた日々だった。
だがそれでも、何か胸につっかえるものがあった。それが何であるか長年ぼやけていたが、クロエと言葉を重ね合わせることによって、ようやく晴らすことができた。
「さて、と」
膝に力を入れると、反動をつけて浮上艇の甲板に跳躍して飛び乗る。
驚異的な脚力だが、ライオネルの戦歴を知っているハンスマンの顔に驚愕の色はない。そして、ヒュンヒュンというプロペラの回転音とともに、浮上艇が機動する。ババババ、とサーカスのテントがはためくと、強烈な風に負けて吹き飛ばされる。
全てが取り払われ、闇の天蓋。
月の雫が照らす。
星々達が踊りだす。
ゆっくりと浮上していく浮上艇の上で、ライオネルとハンスマンの両名は視殺線を飛ばす。互いの魔法戦闘スタイルは割れた。二人の攻撃は、恐らく一瞬のもとで決着が着くだけに、互いに動きは慎重なものになる。
「クロエはお前を救済するために、自らの意思でここに来たのだ。……だが、お前はその想いを踏みにじるというのか?」
「僕はお前に殺されない。クロエはお前に渡さない。そうするために……ただここで、僕がお前に勝てばいい。それだけだよ」
ライオネルは、ずっと自らを偽っていた。
過去という鎖に縛られ、今の自分さえ見失っていた。いつも人形のように、作り物の笑顔をばかりで、本心を隠していた。そうして澱んだ生ぬるい日常を送っていると、自分でさえ自身の本心が不透明になっていった。
きっと、そうなってしまったのは、周囲の目があったからだ。
大戦が終結した後、《大戦の英雄騎士》と呼ばれる声が大きくなった。だから、騎士として振舞うことにした。満足に他人を救えることができなかったライオネルに、できることといったらそれぐらいしかなかった。大衆が望んでいるような人物像を、勝手に演じていたことに、違和感を覚えていた。辟易していた。
だが、本当は、英雄と呼ばれるほどに強くはない。
ライオネルが弱いと知れば軍の士気が下がる。そうなればまた犠牲者がでる。そのことを恐れ、演じることしかできなかった。
軍をやめ、学院に通うことになっても、《ライトニング・ウォーカー》という最強の称号で呼ばれた。その名で呼ばれるべきなのは、神霊であったはずだと声を大にして主張したかったが、そんなことは誰も望んでいなかった。
そして、スカーレットとエアリーと一緒にパン屋を経営することになっても、今度は店主として店を潰さないよう、他人にとって理想の人間であることを追い求めた。
いつだって、そうやって周囲の声を気にしてきた。
演技すればするほどに、自らの心が削られていく音が聴こえていても、ズブズブと沼にはまっていくような感覚に身を任せた。抵抗する気力なんてなかった。心がなくとも幸せだった。何も考えないで済む、安穏とした生き方は心地よかった。
足元から腐敗していく匂いが立ち込めていたが、それでも知らぬ存ぜぬを貫き通していた時、何故だか空からピエロが降ってきた。
『…………あ、り…………』
初めは、鳥かなにかとも思っていた。
そして、列車の中で再会し、話している内に男であるかと勘違いした。だが、接していくうちに、ちょっとした旅をしていく中でわかったことがある。それは、クロエは戦闘の素人であり、ただの女の子だったってこと。
『そう……なんだ。サーカスにいた時は、そんなこと言われなかったから』
谷底に落ちた時に、気がついたら二人とも裸でいた。
激流の川で流されていたライオネルを、助けてくれたという事情をあとから聞いた。だがクロエは、その事実をただ述べただけだった。川の中から引きずりあけたことが当たり前のことのように、ライオネルに誇ることなどしなかった。
『……だから、だから私もミラへ行く』
引き裂かれそうな心を抱えながらも、自分の仲間と戦う覚悟を決めた。それは、うぬぼれではなかったら、きっとライオネルのためでもあった。
『そう……なんだ。でも、今の方が私はいい……って思う』
嬉しかった。
自分が自分でいてもいいと認められて、本当に。
誰かが必要とするライオネルではなく、ただ純粋に素のままでいてもいいと笑ってくれたのは、大戦終結後クロエだけだった。
だから、なのだろうか。
クロエの前だけは自然体でいられた。屈託なく笑うことができた。型にはまることなく、ライオネルの言葉で流麗に話すことができた。
それはライオネルにとって、ほんとうに嬉しいことだった。
だけど――
『じゃあね、ライ』
救うことができなかった。
護るべきクロエに、逆に護られてしまった。
今までの二人の積み上げたもの全てが無駄になってしまった。
それが、それだけが本当に心残りだった。
「混沌の世界を救済するためには、クロエの持つ《纏神装器》が必要不可欠なのだ。……《ライトニング・ウォーカー》、戦争を経験した貴様なら分からないわけでもあるまい?」
「僕はクロエを救い出す。世界がどうかなんてッ――関係ッ――ない」
「……愚者はただ飛び込んでくるのみか。だがそれでも、『神の右手』から逃れる術はない」
ライオネルは矢のように突進する。
ハンスマンは、また待ち構えるかのように手を添えるようにつき出すだけだった。まるで、何度も同じ運命をなぞろうとしているライオネルは、確かにハンスマンから見れば、ただの愚者だろう。
だが、それでも突き進む。
目にも映らぬ速度で接敵したライオネルの蹴り足は、板床の一部を粉々に破壊する。蹴り足だけで、甲板全体を揺るがすような衝撃波が起こる。腕と腕が数瞬の間隙に交差し、そして――
ギリギリ、とハンスマンの掌に、ライオネルの拳が収まっていた。
ハンスマンは瞠目する。
一撃必倒の攻撃を相殺された、心の衝撃はでかかったらしい。確かにハンスマンは強力な魔操士であることには間違いない。だが、口ぶりからすれば、この魔法を身につけたのは、そう昔のことではないらしい。なるほど、当たり前のことだ。これだけの力を持っていたのなら早く戦争を引き起こしていたに違いない。
だから、自らの魔法の攻略点に気づかなかった。
ハンスマンは心臓しか狙わない。いや、魔法の特性上そこをピンポイントで当てることしかできない。それさえ分かってしまえば、この攻撃を見切ることはそこまで難しくはない。
一撃で命を刈り取る魔法は、きっとそれだけで最強だった。
今まで幾多の敵を葬り去ったに違いない。だが、ライオネルのタフネスぶりと、クロエが戦いを一時中断してくれたことによって嗅ぎつけることができた、ハンスマンの魔法の急所。頭を冷やして熟考する時間さえあれば、返し方の一つぐらい思いつける。
他の誰かなら看破できたわけではない。一撃で昏倒しなかったライオネルだからこそ、たどり着くことができた戦術の終着点だ。
「――これで終わりだ、ハンスマン」
頬をごっそりと削ぐような右拳を零距離で振るう。
まさか受け止められると想定していなかったのか、超高速のライオネルの拳に対応できなかったハンスマンは紙クズのように吹き飛ばされる。甲板の端に置いてあった木箱を大破させながら壁に激突し、土煙が舞う。
沈黙。
もう少し歯ごたえのある敵だと思っていたが、異様に打たれ弱い。ライオネルの一撃を衝撃を殺すことなく受けたのだから、当然とはいえば当然なのだが、背筋を襲う悪寒が離れてはくれない。ジリッ、と様子を確かめようと、足を――
「『神の左手』は生命を芽吹かせる」
一面の煙を切り裂くように、銀色に光る刃が投射される。グッ……と、呻くライオネルの肩口が、ザクリと斬られる。致命傷にはなり得なかったが、休む暇もなく、銃弾が雨のように次々と発射される。咄嗟に回避するが、膝下を数発掠った。
瞳に映り込むのは、弾幕のような武器の嵐。
飛来してくる剣と、乱射される銃弾がようやく止むと、ガクッとライオネルは膝をつく。ポタポタと血の流れる足を押さえていると、
「……正直、君の力を侮っていたようだな。腐っても英雄騎士といったところか。だが、ここからは油断も慢心もない。今度こそ間違いのないよう、君に神の鉄槌を浴びせよう」
無数の銃と剣が宙に浮いていた。
銃口と剣先は、ひとつ残らずライオネルに照準を合わせている。あれだけの武器を一斉に投擲されたらひとたまりもない。
「私の魔法は生命なきものに、生命を与えることができるものだよ。……つまり、ここにある武器は、一時的とは言え私の意思で動かせるのだ。思うがままに、な」
空に逃げ場はない。
もう、地上の町並みが米粒程度にしか見えない。
「今貴様が相手にしているのは、神の軍勢に等しきものなど知るがいい」
虚をついたからこそ、ライオネルの拳は届いた。だが、ここまで構えさせられてしまったら、打つ手がない。ほんのわずかな、希望の光たる勝機もない。
「今も本当は後悔しているのだろう? どうして自分がこんなところで死にかけているのだろうと。本当は戦いたくはないはずなのに、どうしてこうして意地を張ってしまったのだろうと」
今のままでは、確実に死んでしまうだろう。
「こんなことなら、最初からクロエに出会わなければ良かったのだと思っているのではないのか」
「……そんなことは、ない」
だったら……どうせこのまま死ぬのなら、命を賭けるしかない。
「出逢えて……良かったよ」
容赦ない猛攻が押し寄せる。視界の全てが武器で占められ、まさに軍隊を一人で相手にしているようなものだ。
ライオネルは全身に滝のような汗を掻きながら、自らの魔法を展開する。全身は傷だらけであり、動くだけでも心臓が破裂しそうだった。
ここに来るのですら限界を超えていた。
ハンスマンの魔法に、それから、自らの魔法に体の自由を奪われながらも、それでもライオネルは奇跡というものに縋る。
ライオネルの魔道は、『限界を限界でなくす』こと。
それを体現するために、光の速度で走る。走る。どんなものよりも疾く。残像の動きすら見切らせることはしない。
「――クロエだけじゃない」
近づくほどに武器の猛攻が激しくなっていく。
避けきることができない。
全身に裂傷が刻まれていく。
歯噛みしながらも、踏ん張る。
ここで退いてしまえば、それこそ終わりだ。
だが、それでもライオネルの攻撃は届かない。どうしても、あと一歩というところまで近づくことができな――
ドゴォオン、と砲弾が浮上艇の横っ面に命中する。
なっ、とハンスマンはバランスを崩す。そして、集中していた魔力操作を怠る。その一瞬出来た隙をライオネルは逃さなかった。夜の闇を斬るような、閃光の速度で、甲板を走り抜く。
「……みんながいたから、僕はここにいる。まだ立っていられることができる。戦うことができる」
どんなことがあっても、変わらずに接してくる人がいた。
『変わらないのではありません。私は変わりたくないのです』
ライオネルのことを、ずっと待ってくれている人がいた。
『そうやって、一人でいつも何かを抱えこもうとしないでよっ……』
自分のことを顧みず、身を挺して助けてくれる人がいた。
『私は……人間じゃなかったけど、ライと一緒にいれて幸せだったよ』
あまりの速度にライオネルの体は悲鳴をあげる。
肋骨が折れる感触がする。
全身から血が溢れる。
それでも、閃光の拳を振り抜く。
「――後悔することなんて、何一つないんだ」
雄叫びを上げながらハンスマンの頬を叩く。
バキバキッと、ライオネルの拳の骨ごと、ハンスマンを激打する。
何も目視できなかったであろうハンスマンは、そのまま壁に激突する。ビキビキと、浮上艇に亀裂が入る。
ライオネルは口の端から血の糸をだすと、疲弊したように床に座りこむ。
もう今度こそ、戦う余力など残っていない。
――ライオネルとハンスマンの戦いは、そうして決着した。




