‐14‐ かけがえのないもの
温かい。
まるで揺り篭に乗せられているかのように体は揺られていた。それから、まるで全身を包み込むかのような、日だまりのような安堵感が身を包んでいた。
もしかしたら、親とか、家族といったものはこういうものなのかもしれない。ただ傍にいるだけで、救われるもの。そんなものいた試しがなかかったので、全ては想像の範疇であったが、そうであったらいいなって思った。
クロエには記憶というものがなかった。親や兄弟や、姉妹や友達に恋人。そういった繋がりというものがあったかも知れないが、そういった大切なものは一切霧消していた。
だから、怖かった。
まるで、この世界に見放されてしまったような、そんな気持ちになった。不要な人間だと烙印を押されたようだった。消えてしまったほうがいいのではないかと、暗鬱とした気分で落ち込むことなんてしょっちゅうだった。
それから、いつだって独りぼっちだった。
折れそうになった時に、黙って傍にいてくれる人間はいない。思う存分、暗い気持ちを晴らすための口喧嘩をしてくれる人間はいない。喜びを分かち合える人間すらいない。
記憶がないせいで、自分以外の誰も信用できなくて、心を曝け出せることができなかった。いいや、記憶のない伽藍洞な自分でさえも信じることなんてできなかった。この世界の全てが敵とさえ思えた。
だけど、ある男が手をさし伸ばしてくれた。
『怪我は……ない?』
かつては仲間だった人間たちに追われていたあの時。
息を切らしながら屋根の上を遁走している時に足を滑らせてしまった。あの時、本当に自分は死んでしまうのだとさえ覚悟した。
『そう思ったら体が勝手に動いた。――それだけだよ』
列車の上でジェラートに剣先を突きつけられた絶体絶命の場面。それから、クロエの不注意のせいで《マチュラ》の大群と相対しなければならなかった時。それからクロエが発熱して倒れ附した時も助けてくれた。
もしかしたらそれは、ライオネルにとっては当然の行為だったのかもしれないけれど、クロエにとってはかけがえのない思い出だった。
ようやく積み上げていくことのできた、宝物のような記憶。
いつまでも胸にしまっておきたかった。ライオネルと出逢って、築き上げた想いは、クロエに力を宿す。大切な記憶があるというだけで、今よりももっと強くなれる。
それを、ライオネルは教えてくれた。
誰かと絆という糸が繋がっているだけで、想いは伝わる。例え最初に邂逅した時に、敵同士だったとしても、こうして寄り添うことができる。どんなことがあってもいつか分かり合う時がくる。
きっと、そうだ。
赤面必至。恥ずかしくて、そんなこと口には出せない。だけど、ライオネルだってそう思ってくれている。そうだといいな。そうだったら、どれだけ――
「起きた?」
「……え?」
クロエの意識が覚醒する。まず、瞳に映ったのは優しく微笑んでいるライオネルだった。そして、抱えられていることに気がつく。
これ、は、と頭の中で混乱の嵐が吹き荒れる。
お姫様だっこというやつだった。
すると、ライオネルが顔をずいっと近づけてくる。えっ、ええ、と何度も目蓋を開閉するが、クロエの視線は唇にしっかりとクギ付けになる。
まさか。
まさか、と思っていると、ピタリと額と額をくっつけられる。うっと声に出さずに当惑する。うわー、うわーと体を縮こませて悶えていた。苦しかった。途方もなく、胸が。どうしてだが分からなかったが、ギュッと締め付けられるようだった。
「まだ、熱はあるみたいだね」
「も、もう大丈夫だから、下ろして。というか、下ろして……ください」
「だめだよ。まだ下ろしてあげない。クロエのことだから、きっとまた無茶しちゃうからね」
山を切り崩してできたような坂道。いつも遥か上空から照りつけるはずの夕日が、なんだか今日はとても近く見える。とても近くて、温かくて、涙がでそうになった。
涙もろいのには理由がある。
クロエにとってこの世界は全てが斬新なのだ。
記憶がないからこそ、どんな平凡なことだって劇的に感じる。非凡であると思い込んでしまう。そう、きっとこの感情の芽生えもそれだけのはずだ。
ただの刷り込みに過ぎない。
雛鳥が初めて目にしたものを親鳥だと錯覚するように、その場に偶然居合わせた人間に運命的なものを感じたに過ぎない。依存できる相手なら誰でも良かった。救ってくれるのなら、どんな手だろうと縋りついたはずだ。
だから、こんな気持ちは虚ろそのもの。過度な期待なんてしちゃいけない。ライオネルは元騎士だから……こうやって条件反射的に女に優しくしてくれるだけだ。
そう考えることが、暴走しそうな自分の心を抑える唯一の手段だった。
「……ここは?」
「もうすぐ谷の頂上だよ。君が寝込んでいたから、起こさないようにしてここまで連れてきたんだ」
「そう……なんだ」
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
そうしたら、ずっとこうやってライオネルが傍にいてくれる。もしもミラの町についたら、かつての仲間と戦わなければいけない。
本当は嫌だった。
逃げ出したかった。
全てを放り投げ出したかった。
だけど、傍らにはこうしてライオネルがいる。抱え込んでくれている。
どんなことがあろうと、ライオネルがまた救ってくれると信じることができるからこそ、クロエは決して背を向けることはしない。たとえ、裏切り者だと罵られようとも立ち向かうことができる。
「……頂上だ」
ライオネルの呟きに、瞑っていた眼蓋をクロエはこじ開ける。
ライオネルと一緒に作ってきた過去を思い出しながら。もう、あと少ししかないこの貴重な今を噛み締めながら。これから来るであろう輝かしい未来に想いを馳せた。
夢のような時間。
それはきっと、儚くて。
ほんとうに――泡沫のようなものだった。
そこには絶望が立ち塞がっていた。
あまりにも圧倒的な存在感を誇るその男からは、全身から黒い瘴気のようなものが溢れているような幻視すら見えた。
あらゆる生物にとって、絶対的な絶望。
それが、――『死』。
その予感が、クロエの背筋に迸る。
どう足掻いたところで勝てるわけがない。なんで、こんな相手と戦えるなどと錯覚してしまったのだろうかと震え上がる。
最早、勝負をしようという考えそのものこそが陳腐。だが、膨れ上がる殺気は逃亡するという最終手段すら許してはくれそうにない。
開けた場所に佇んでいたのは、生殺与奪の権利を持つ死神そのものだった。
「――ハンスマン団長……」




