‐10‐ クロエ
翌朝。
眩しい朝日が眼球を灼く。
頂辺まで見上げようとすると、首が折れそうなぐらいの高い崖。
逆立つ波のように、標高が高くなるほどにゴツゴツとした岩肌が聳え立っている。指を岩の間に引っかけることぐらいはできるが、このままこの崖を直接登っていくのは至難の業だ。ここにスカーレットがいれば、こんな崖の一つや二つ関係ないだろうが。
ライオネルはスカーレットの安否が心配になった。何しろ列車が爆破したのだから。だが、すぐにそんな心配は杞憂とばかりに霧散した。
スカーレットの謙るような態度をライオネルにとるのは、ライオネルが元騎士であったから。だが、剣を扱うことができなくなった今となっては、魔法戦闘においてスカーレットの方が遥かに実力は上だ。格下のライオネルが気を揉んでも仕方がない。
「……これを登るのは無理だよね」
「うん。やっぱりあの坂道を登っていくしかないと思う」
クロエが指し示す細道は、急な上り坂になっているが、崖を登るよりは遥かにましだ。どこに行くにしても、まずはこの谷底から脱することが先決。近くにあるのは激流の川で、そこを渡るのも、泳いで遡っていくのも不可能だろう。
昨晩。
川の水浴びをしていたために裸体だったクロエは、道化の格好ではなく、普通の格好をしている。
こうして見ると、かなり印象が変わる。どことなく純真な町娘に視える。それに、見た目の年齢が十三か、十四ぐらいなので、どこからどう見ても普通の女の子として見えてしまう。どこから服を取り出しかというと、あの影の中から取り出したらしい。随分便利な魔法だ。
「……これからどうするの?」
「まずは、ミラに戻ってみるよ。僕と女王は知り合いなんだ。クロエから聞いたことがほんとうなら、そのままにしておくわけにもいかない」
女王に事情を全て話してみよう。
信じてくれるとは思うが、問題は子どものような癇癪持ちであるということ。今まで音沙汰なしだったことで、半殺しにされかねない。
「ほんとう。団長は、まずは東の大国の女王を浮上艇で砲撃するって言っていたから。城の城砦を落城させるのは困難。……だけど、何故か女王がミラにサーカスを見に来るっていう情報を手に入れたから、この好機を逃す手はないって言ってた」
「なるほど。つまり僕のせいでもあるってことか」
肩を落としながら、トボトボと歩く。
団長の目的は戦争を起こすということだったが、何故辺境の町であるミラに来たのか疑問だった。だが目的は女王と聴いて納得した。女王を暗殺すれば、いきなり国のトップが空位になれば国は大混乱になる。クロエのサーカス団である『パラダイス・ロスト』やらの団長を粛清すれば、それでおしまい。……というようなことにはならない。
まず、確実に次の女王争いによって国に内乱が起きる。国の混乱をついて他の外国諸国が攻め入る隙を与えることにもなる。まず、領土拡大のチャンスを見逃さないだろう。
意気消沈しているライオネルに、心配したような顔をしたクロエは、
「……ライのせいって?」
「こっちの話だよ。……っていうか、ライって……?」
「ライオネルって言いにくいから、ライ。……だめ?」
ますます子どもっぽい言い方に、ライオネルは微苦笑する。
「だめってわけじゃないよ。そんな呼び方されたのは久々だったから、ね……」
ライオネルは終始無言のまま歩き続ける。すると、クロエも気まずげに口を閉ざしてしまい、壁のようなものができてしまった。
どうしても、過去の幻影がつきまとう。ライオネルの中で生き続ける。大切な人を忘れないことは、悪いことではないだろうけど、目の前のまだ生きている人間との会話をないがしろにしていいわけがない。どちらの人間に対しても失礼だ。
何事もなかったかのように、ライオネルは明るい語調で言葉を投げかける。
「――それで、クロエはどうするの?」
「どうするって?」
「これからだよ。まさかむざむざまたミラに戻って、捕縛される訳にはいかないだろ? クロエはどこか行く宛とかあるの?」
「……ない。元々私は、女王襲撃が耐えられなかったから飛び出しただけで、逃げるのならどこでも良かったから。……目的地があるとするのなら、私のことを知っている人間がいる。……故郷に帰りたい」
「故郷?」
「私には、記憶が――ない」
一瞬、頭が空白になる。
「記憶がないって言っても、団長に拾われたからの記憶はちゃんとある。……けど、それ以前の記憶がぽっかり抜け落ちている」
「……記憶、喪失か」
「そう。私の記憶の最初は、紅蓮の炎が舞う小さな町の中だった。……怖かった。誰も助けてくれない。誰が敵も味方かも分からなくて、軍の人間に銃を向けられて、もう死ぬかも知れないっていう時に、どこからともなく団長が現れて助けてくれた。ジェラート副団長も、ゴーゴンも……そう。団長に拾われて、こうして死なずに済んでいる」
「戦災孤児か……」
親や友達を目の前で殺されて記憶を失うなんて事例は、戦争の中においては珍しくもない。
戦災孤児が兵士として戦場へと赴いたり、罪がなくとも無残な死を余儀なくされたりもそうだ。
「でも、だからといって、私は軍や国に復讐しようとは思わない。戦争の怖さは、団長が誰より分かっているはずなのに。だけど、団員の中でこんなのおかしいって思ったのは私だけ。どれだけ間違ってるって言っても、聞き入れてくれなかった。団長の言うことなら正しいはずだって。……でも、どんなに団長がいい人だとしても、間違える時だってある」
「……そっか」
一体どれだけ辛い決断だったのだろう。
救ってくれた団長を裏切り、サーカス団を脱退するだけの決意は並大抵のものではなかったに違いない。味方が誰ひとりいない中、仲間だった人間に傷を負わされる気持ちはいったいどれだけ苦しかったのだろうか。戦いを挑むその心はどれだけ削れていったのだろうか。
「……だから、だから私もミラへ行く」
「それはだめだよ。クロエを危ない場所に行かせるわけにはいかない」
「団長のやろうとしていることを私だって止めたい。……ううん。きっと、私が止めないといけなかったのに、そんな勇気が私にはなかった。だから、逃げ出した。……だけど、だけど! ライが一緒にいるなら、きっと私にだってできることがあると思うから」
クロエの瞳に迷いはなかった。
育ての親である団長と決裂を決意した人間に、一体どんな説得が聞くのだというのだろう。出会ったばかりのライオネルが、一体どれだけの言葉をかけられるのだというのだろう。
「止めても、無駄みたいだね」
だけど、そんなライオネルにだってできることがある。
それは、全身全霊をかけて、クロエを護り通すことだ。
命だけじゃない、その洗練された覚悟を決めた心もだ。
「だったら僕から言うことは一つだ。……僕と一緒に戦ってくれるかな?」
ライオネルの言葉に、クロエは、うん、とまたもや子どもっぽい顔で無邪気に笑顔を弾けさせた。