‐01‐ 空に浮かぶ島
前日譚
少女は裸だった。
生まれたままの姿でいる少女の肢体は、太陽の燦々たる日光を帯びて艶めく。
つぅーと体のラインを水滴が滑り、ポタッポタッと湖面に落ちると波紋が広がる。煌めくブロンズヘアは、湖面に漂うように揺らめく。透き通るような水に腰元まで浸かっている少女は、果てのない景色に感嘆の声を上げる。
ここは、空に浮かぶ小島。
開けた景色には、視界全てを埋め尽くすほどの雲海が眼下に広がっている。
地上よりも遥か上空に浮遊するこの小島は、特殊浮上艇でしか上陸できない。抜けるような碧い空の上の秘境に、少女を含めて二つの人影があった。
「……な、なにを?」
少年はあんぐりと口を開く。
さらりとした長い髪によって、身体のほとんどは見えないとはいえ、相手は裸だ。
少女の吸い込まれそうな碧い瞳に静止していたが、肢体が見えそうになったので、慌てて目を逸らす。その拍子にグキッと首の骨が鳴る。少年は片眉を歪めさせながら、首元にまで伸びている黒髪をガシガシといわせながら後ろ首をさする。
王宮騎士団の白い制服を着込んでいる少年も、このような局面においての定石は学べていない。
にんまりと企むように笑った少女は、ザブザブと水面を切るように進んでいくと、
「えっへへ。充電、充電」
少年の背後に忍び寄ると、ギュッと後ろから抱きすくめる。
うわっ、ちょ、と頓狂な声を上げる少年を、少女は愉快げにそのまま湖に引きずり込む。水飛沫が盛大に舞うと、水面がザパーンと波打つ。
濡れ鼠になった少年が溺れるように水面から顔を出すと、ガハッゴホッと、水を飲んでしまったのか割と洒落にならないほどに咳き込む。
可及的速やかに湖から這い出ようとしたその時。
――少年の背中に、柔らかい双丘が押し付けられる。
服越しとはいえ、否が応にも伝わる感触。うわ、わ、と奇声を発して、密着状態から抜け出そうとするが、鎖骨の辺りに腕を回される。抵抗すればするほど、強情に絡みついてくる。少女がまた純情な自分をからかって遊んでいるのかと思った。
だが、気づく。
少女の回した腕が震えていることに。
「…………ッ」
咄嗟に言葉を失った。
きっと、怖いのだと少年は思った。
少女は誰に対しても弱音を吐こうとしない。
どれだけ凄惨な戦いが終わっても、笑顔を絶やすことがない少女のことを、能天気だと称する人もいる。心がないのだと蔑む人もいる。誤魔化しだと論う人もいる。
だが、それらは間違いだ。
そうしていなければ、きっと、恐怖が溢れてきてしまうからだった。いつだって必死に心に蓋をして、押さえつけている。
それも、たったの一人きりで感情を抑えこんでいた。
最強の魔操士。
その称号を持つものに、弱さを露呈させることは許されない。
最強は、完全無欠の最強でなければ士気に関わる。
だから、心に鎧を纏いながら生きていくことを義務付けられている。本人に拒絶の意思があろうとなかろうと、その生き方が最強の少女には宿命づけられている。
少年は、着ていた外套を少女の身に掛ける。
「大丈夫、きっと大丈夫だよ。僕が……ずっと君の傍にいるから。そして、どんなことがあったとしても君のことを護りきってみせるから」
一瞬、ハッとしたような表情を見せ、少女は唇を戦慄かせ、泣きそうになりながら目を眇めると、
「……ろくに魔法もつかないくせに、よく言うね」
「魔法が使えなくたって、きっと護りきってみせるよ。――この剣に誓って」
腰に帯刀している剣に、少年は手を当てる。
少女は魔纏石で造られた剣を見て、頼もしい限りです、と言った後にふふっと小馬鹿にしたように笑う。
「神霊の私を護るなんて……。そんな不遜なことを言うのは、きっと……ライぐらいなものなんだろうね」
前線に出れば一騎当千の力を見せつける戦鬼も、なんだか今はしおらしかった。
どれだけ強大な魔力が体のうちに内在していたとしても、少年にとってはやっぱり彼女はただの女の子に過ぎない。
だからこそ、誰かに頼るということも知って欲しかった。
「君だって、本当の意味で最強ってわけじゃない。たまに、苦しそうにしている……」
ああ、と少女は思い当たることがあるようで、
「私の得意魔法は、身体に負荷がかかっちゃうからね。多様すると、ちょっとキツいかも」
そうじゃない。
それだけじゃない。
体のことだけじゃなく、心もだ。
こちらの意図を分かっていながら、そういう言い方しかできない少女のことを、少年は責めることなどできない。
「だったら、僕に任せて欲しい。……君の全てを」
一大決心を告げるかのように少年は言ったのだが、
「そうだね。ライが私より強くなれたら考えてあげる」
揶揄うように少女は言う。
でもそれは、胸元にまで込み上げてくるものを、振り払うかのようにも見えた。なんだか、苦しそうだった。
真意を確かめるために、少年は少女に近づこうとするが、太陽の光が水面に反射して、ちょうど少年の目を眩ませる。
うっと目を背けて、もう一度少女の顔を見やるが、もうさっきまでの感情の残滓は見当たらない。だから、少女が何を考えていたのか、もう少年には窺い知ることは永久にできなかった。
なんだったのかが気になっていたのだが、少女は悪戯っぽく、
「ねえ、目を閉じて」
「……どうして?」
「いいから。早く閉じて」
「……わ、分かった」
有無を言わせない少女の口ぶりと顔つき。
少年は言われた通りに目蓋をギュッと合わせる。
すると、聴覚が鋭敏になって、ザブザブと水をかき分ける音がよく聴こえる。少女が近づいてくる気配を感じ取っていると、少年の両肩にポンと手を乗せられる。
何をされるのか見当がつかなかった少年だったが、何故かこのままでいいのかという不安だけが募る。
突き飛ばすことを脳裏に浮かんだし、ちょっとだけ目を見開こうとも思ったが、一騎士としてそのような行為を女性にすることなど、少年にはできなかった。
心臓の鼓動が早鐘を打つ。
プルプルと頬が攣りそうなぐらいに震える。
拳をギュッと握り締める。
そうして肌に熱を帯びながら、少年は観念するかのように静止していたのだが、
「あちゃー。もう、お姫様が嗅ぎつけてきちゃったかー」
少年の開いた瞳に映ったのは、女王のために作られた特注の特殊浮上艇だった。まるで女王の憤りを体現しているかのように、ヒュンヒュンとプロペラが高速回転している。太陽の逆光を浴びながら、物凄いスピードでこちらに向かってくる。
少女はザプンと、体を翻すと、
「あーあ。また続きは今度ね」
「続きって、一体君は何がやりたかったの?」
少女は呆れたような顔をしたが、すぐさま顔を綻ばせる。
「……言わなきゃ、分かんない?」
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