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剣を合わせた直後に、珀は何かがおかしいと気付きました。
(こんなっ、強いはず、は……っ!)
一撃一撃が重く、また的確に繰り出されています。スピードだってあります。
珀は冷静に計算して、完全に朔の腕を見切って、勝てると踏んでいたはずなのです。
朔と珀、両者の腕を知る苑と蕾も、太鼓判を押してくれました。
多少の誤差なら、仕方ありません。だけど。
(いくらなんでも、これはおかしい……っ!)
何とか全てを捌き切ってはいますが、かすり傷が増えていきます。
防戦一方の珀を見守る人々の内、騎士である苑と蕾も、おかしいと気付いていました。
率直に言うなら、朔がこんなに強いはずがない。
絶対に何かが起こっているのです。
けれどこの決闘は継承ノ儀と同じく神聖な儀式。
確たる理由がわからぬ内に手出しをするわけにはいきません。
「くそ、このままじゃ……」
「珀様が負けるはずはない。絶対イカサマなのに阻止できないなんて」
苑と蕾が拳を握り締めたちょうどその時、珀が朔の切り込みを受け損ねて剣を弾き飛ばされました。
「珀!」
悲鳴のように、誰かが叫びました。
誰もが、だったかもしれません。
一瞬にして空気が緊迫します。
手が上がり、大きく開いた身体は絶好の的なのです。
苑が朔を睨みつけ、
遥が両手で顔を覆い、
舜が珀の名を叫び、
湊が苦虫を噛み潰したような顔をし、
蕾が両の拳を握り締め、
岳が目を見開いて絶句し、
陸が制止のために声を上げかけ、
祥が高笑いを響かせ、
朔が剣を振りかぶり、
「愚かな」
――そして階上で無表情に右手が払われました。
誰にも聞かれない淡々とした呟きと、朔が体勢を崩すのは同時。
その隙を見逃すほど珀も甘くはありません。
傍らに転がった剣に手を伸ばし、拾い上げ様刃を返して床を蹴り、朔の手首を打ち付けました。
朔はあっさりと剣を取り落とします。
間髪入れずに突き付けられた珀の剣は、ぴたりと朔の首筋に当てられていました。
「……っ、それまで!」
一瞬呆気に取られていた拓が、珀の勝利を宣言します。
珀は黙って剣を下ろし、兄をじっと見詰めました。
呆然と掌を見下ろす朔を。
何が起きていたのか、そして何が起きたのか。
誰もわからず、故に誰も何も言いません。
いえ、ただ一人、彼だけは、何かを知っているようでした。
「馬鹿な。私の力が相殺されただと……!?」
訳のわからないことを愕然と叫んで、祥が朔に駆け寄ります。
「そんなことは誰にもできないはずだ! もとより気付かれるはずがない。朔、何があった?」
不穏な台詞への返答は、遥か高く頭上から降ってきました。
「愚かだな、本当に。他の誰を誤魔化せても、朧の目を誤魔化せるわけがないだろう」
珀ははっと顔を上げました。
知らない喋り方の、知っている声。
「譲位したと聞いていたからてっきり舜が持っているのだと思っていたが、まさかまだそなたが持っていたとはな。祥」
「誰だ!? 何を言っている!」
「朧?」
ふと、視線の先、天井付近に小柄な人影が浮かびます。
みるみる内に大きくなる姿は、そのひとが落下してきていることを示していました。
誰一人動けないでいる中、ふわりと重力を感じさせない動きで着地したのは、小柄な少女。
風を含んでまるで翼のように広がった髪の色は夜色。
ゆっくりと顔を上げた少女に、珀の心臓がどくんと一つ音を立てました。
「――何故だ! 何故貴様がここにいる!?」
「お前のことは陸に預けたはずだ」
珀と同じく少女を認めた祥と朔の追及にも表情一つ変えず、少女は肩をすくめてホールに続く一室を指差しました。
「確認しなかったのか。第三王子ならばそこで眠っている」
誰よりも大切な少女が、聞きたくてたまらなかった声で、別人のような喋り方をします。
放つ雰囲気までもが違う存在のようで。
それでも確かに、その少女は朧でした。
珀の全てが、彼女が朧であると叫んでいました。
「眠っている、だと?」
「朧を傷付けようとしたから、わたしが直々に眠らせてやった。よくわからないという顔をしていたよ。さもありなん、この国では今は誰も寝ないのだからな」
「……まさか私の力を相殺したのも」
「もちろん朧だ。わたしは三階から飛び下りるのに手を貸しただけ」
無表情にそう言って、やおら少女は皮肉げな笑みを浮かべました。
「そなたが自分の力だと言う力は、太陽の石の力だな。……持っているのだろう? まさか継承ノ儀を邪魔するために使われるとは、あやつも思ってはいなかっただろう」
くい、と何かを引っ張るような仕種に釣られるように、祥の胸元から白い石が飛び出してきます。
それを右手に受け止めた朧は、大事そうにそれを握り込みました。
それが祥の限界だったようでした。
「それは私のものだ! どう使おうと私の勝手だろう、返せ!」
目にも留まらぬ速さで祥の手が伸び、朧の胸元を掴み上げます。
珀は咄嗟に駆け出しました。
こんな時でも無表情な朧をがくがくと揺さぶって、祥が絶叫します。
「貴様のせいで朔が負けたんだ! どうしてくれる!!」
「祥、止めてください!」
「黙れ舜! 貴様も私を裏切ったな!? お前が唆したのか? おい娘、聞いてるのか!」
怒鳴り付けた祥が、直後ひっと息をのみました。
「――離せ」
すとんと落とされた朧が、優雅に立ち上がって襟元を正します。
一睨み。ただそれだけで、祥をすくませたのです。
唇を震わせて、祥は尋ねました。
「君は……誰だ?」
「朧は」
朧はそこで一度目を閉じ、両手を広げて答えました。
「わらわは女神に遣われし巫女。夜の裁定者なり」
◆ ◆ ◆
城の前に、人だかりができていました。
祈るように手を組み合わせるひと、励ますように拳を突き上げるひと、集まった誰もがただ一方、聖堂の方を見詰めています。
『――私が見込んだ子供に間違いはなかったようだ』
誰かが、そう言って微笑みを浮かべました。
『そろそろ時間かな……』
居並ぶ人々の一番後ろに立つ彼に、何故か誰も気付きません。
そして気付かれぬままに、彼は忽然と消えてしまいました。
雨が止んだ空には、太陽が煌々と輝いていました。
◆ ◆ ◆
「朧!」
「珀、心配させたか? でも大丈夫だったろう?」
「大丈夫だって信じてたよ。だけどそれでも心配した」
「そうか、すまぬな」
あぁ、いつもの朧だなと思いました。
駆け寄った珀に、朧はいつものように微笑みます。
珀が動いたことで金縛りが解けたように、その場にいた人々は二人の周りに集まり始めました。
その中ではっと気付いたように蕾が先程朧に示された部屋に走っていきました。
そしてすぐに、何かを背負って戻ってきました。
背負われていたのは、第三王子陸。
横たえられた陸に拓が血相を変えて近寄りましたが、意識がないにしては穏やかな顔に首を傾げます。
「心配はいらぬ。寝ておるだけじゃ」
朧が言いました。
拓と、そして珀以外の全てのひとが朧を一斉に振り返ります。
朧はその中から朔を選び出しじっと見詰め、薄い笑みを刷きました。
「そなたはわらわを美しいと言ったな」
「……………」
「当たり前じゃ。何故ならわらわは女神の娘。女神の現し身だからな」
そんなことを、今日の夕食の話をするみたいにあっさりと言い放ち、そしてふと気付いたように頭上を見上げました。
「珀、全ての決着がつく。決闘はそなたの勝利じゃ。――継承ノ儀を始めよう」
朧が右手を振りかぶりました。
その手の中から、白い石が飛び出します。
誰もいない宙に飛んでいった石は、いつの間にか現れた誰かに受け止められました。
朧の隣に降り立った彼を見て、舜が呆然と呟きます。
「昼の神様……」
『久しいな、舜。よく珀を守り抜いた』
「ありがとう、存じます」
感極まったように頭を下げた舜に、神はゆるりと笑いました。
一転、厳しい顔で祥を、そして朔を見ます。
『私が国のために預けた力をこんなことに使うとはな』
受け取った太陽の石を弄び、神は抗うことなどできぬ声音で宣告しました。
『お前たちに王たる資格はない』
朔ははっきりと刺された顔をし、祥はいつも傲慢に上げられていた顔を俯かせ、肩を震わせました。
てっきり珀は、さすがに神に逆らうことはできないのだろう、と思っていたのですが、すぐにそれが誤りだと気付きました。
「ふふ……くくく」
小さく漏れる笑声。
それはやがて堪え切れないというように爆笑に変わっていきます。
その源たる祥に、珀は白い目を向けました。
朔ですら、訳がわからないような顔で祥を見ています。
全員の困惑を一身に受けても、祥は狂ったように笑い続け。
「そうか、ならば城中にしかけた爆弾を爆発させるとしよう」
珀はぱちくりと目を瞬かせました。
今、祥は何と言ったのでしょうか。
何だかとんでもないことを言ったような。
「今スイッチを入れた。タイマーは十分に設定していたはずだ。私が逃げ出すための時間だがな」
「爆弾じゃと!? そなた何を考えておる!」
真っ先に我に返ったのは、朧でした。
「城にはまだひとがたくさんおるのじゃぞ? 殺す気か!」
『門のところにも城下のひとがたくさんいる。彼らも危ないだろうな』
神が悩ましげにそう言い添えます。
「それが何だ?」
しかしその糾弾も、祥には無意味でした。
「爆弾をしかけた場所を知っているのは私だけだ。タイマーを止めるスイッチの在り処を知っているのも私だけ。爆発させたくないのなら朔に継承ノ儀をやらせることだ」
「ふざっけるな! 貴様……っ」
「待って苑、落ち着いて!」
激昂した苑が祥に駆け寄りますが、遥が腕を抱きしめて制止します。
「朔、お前はそれでいいのか?」
「……知らない。俺は知らなかった!」
「だろうな」
激しく頭を振る朔と、頷く湊。
「兄さん……」
「まさかこんなのが父親だったとはな」
汚らわしいものを見るような目をする岳と拓。
「こんなことを頼むのは筋違いだとわかっています。ですが」
そして舜が倒れるように神の前に跪きました。
「どうかお助けを……!」
『……ならぬ』
「何故ですか!」
悲鳴のように舜が叫びました。
神は眉を寄せて首を振るだけで、代わりに答えたのは朧です。
「今この国には神と女神を従えるべき王がおらぬ。手助けをしたくてもできぬのじゃ」
早口に、朧は語ります。
継承ノ儀というものが、何なのかについて。
「そもそも継承ノ儀は、神と女神と初代国王が、石に相応しい者だけに国を継がせようと整えた儀式じゃ」
石の力は神のほんの一欠片とはいえ、ひとの身には過ぎたもの。
だからこそ正しく使える者だけが宵暁国の王たる器を持つ。
どうも祥はただの儀式として継承ノ儀を行い石を受け継いだようだが、それは継いだとは言わない。
証拠に祥は、石の力の一割も引き出せていない。
朔の身体能力を上げるのが精一杯なんて、そんな代物ではない。
本来なら三日かけて行われる儀式。
石に付いているリミッターを外し、その力を御し従えなければならない。
それができた者は世界が「巡る」様を感じられるようになる。
代々の王はその力と石の力でもって、国を治めてきたのだ。
「何事もなければ今から珀にそれをやってもらうところじゃったのだが、時間がない」
『爆弾のためとはいえ、私は第一王子には王になってほしくないからね。……の国を滅ぼされては敵わない』
「そして何より――」
つと、朧の表情が変わりました。
冷たく美しい無表情と、近付くのも躊躇われるような存在感。
これはそう、最初に彼女が飛び降りてきた時と同じ――。
「そう、わたしは珀でなければ認めない」
がらりと口調が変わります。
二度目になれば、さすがに今の彼女が朧ではないことくらいわかりました。
そして誰なのかも、なんとなく。
「夜を望み、朧が認めた。珀、そなたならばわたしは再び夜をこの国にもたらそう」
朧は言いました。自分は『女神に遣われし巫女』だと。
同じ結論に辿り着いたらしい苑が、まさかと唇を震わせます。
「夜の女神様……?」
「そうだ。なんだ、朧は言っていなかったのか?」
考えてなかった、と驚いてみせた朧――女神は、問い掛けた苑の奥を見据えて美しい微笑を浮かべました。
「久しいな、舜」
珀はびっくりして舜を振り向きました。
祥が刃を向けてから、女神はこの国に来たことはないはずです。
苑が蕾を、遥が湊を、訝しげに見詰めます。
近寄ってきた岳に「知ってるか?」と訊かれたので、珀は力一杯首を横に振りました。
「お久しゅう、ございます。女神様……」
「そなたが王になってから煩いのなんの。一体わたしに何回謝罪を聞かせる気だったんだ」
女神はまるで人間のように肩をすくめ、自らの胸に手を置きました。
「あんまり煩いからこの子を遣わせてみたが……良い後継を育てたな、舜。褒めてつかわす」
舜は盛んに瞬き震える唇を引き結び、凛とした姿で女神に応じました。
「ありがとう存じます。ですが女神様、恐れながら時間がございませぬ」
「承知している。晄」
何がおかしかったのか女神はくすくすと笑いながら、珀には聞き覚えのない名前を呼びました。
『なんだい?』
「わたしの権限において継承ノ儀の過程を省略する」
『問題ないよ。君の娘がしっかり見極めていたようだからね』
神が応え、女神が珀を手招きます。
舜が真っ先に足を引き、続いて湊と蕾、拓と岳、遥が茫然自失とした朔を引っ張り、苑がまだ笑い続ける祥を無理矢理引きずりました。
珀と、神と女神が向き合います。
「珀、本来三日かかるものを一瞬で終えるのだ。それなりの力が要る」
『私は私を降ろせる巫女や神官がいないから、あまり強大な力は使えない』
「わたしは朧がいるから問題ないが、晄の分まで賄うにはぎりぎりまで力を使わねばならぬ」
『それは、宿体たる巫女に多大な負担をかける』
「そしてその力を受け取るそなたもな」
粛々と紡がれる言葉には優しさも親しみもありません。
あるのはただ突き放すような冷酷さだけ。
『それだけの覚悟が、君にあるかい?』
「己れの命とわた――朧の命。大切なものを犠牲にするかもしれなくても賭けて挑む、その覚悟が」
珀はすぐには答えず、周りで見守ってくれているひとたちを順番に見回しました。
ずっと一緒にいてくれた苑。
変わらぬ敬愛をくれた遥。
珀が知らなくても愛してくれていた舜。
陰で守ってくれていた湊、蕾。
最後の最後、中立の立場をとってくれた拓、岳。
誰よりも何よりも不死に固執した祥。
その祥を信じていた朔、陸。
珀はそっと目を閉じました。
――珀は良い王になる
色褪せることなく残る声。
「――あります」
静かに笑って、珀は答えました。
「僕は何かのために何かを犠牲にするような、そんな治め方をしたくない」
神に、女神に、自分を王にと望んでくれる人々に。
「綺麗事だってことは、わかってる。いつかは何かを犠牲にしなきゃいけない時がきっと来る」
誰よりも、朧に伝わるように。
「でも迷わずに犠牲にしてしまえるような王にはなりたくないんだ。足掻いて、足掻いて、それでも駄目なら仕方ないけど」
だって王だからね、と付け足します。
王には、何を置いても自らが治める国と民を守る義務があるのですから。
「それでもできる限り、切り捨てて治めるんじゃなくて、掬い上げて治めたい」
朧は。
珀の大切な、黒髪の少女は。
「何があっても大丈夫だと言いました。僕も、僕が成すべきことを成すと約束しました」
どんなに見詰めても一切の表情が見当たらない神と女神が何を思っているのか、珀にはわかりません。
珀にわかっているのは、一つだけです。
「犠牲になんて、なりませんよ」
決意を固めて、珀は振り向きました。
儀式の前に、やるべきことはやっておかねばなりません。
残り時間は、あと四分。
「苑、遥、門のところにいるっていうひとたちを今すぐ避難させろ」
「御意」
「了解しました!」
「父上、湊さん、蕾さん、お城の中のひとたちの避難誘導をお願いします」
「わかりました」
「頑張れ」
「こちらは心配せずに」
「拓兄上、岳兄上、朔兄上と陸兄上をお願いします」
「わかった。一応、父上も連れていく」
「陸兄上には寝るってどんな感じなのか聞きたいね」
聖堂にいたひとたちは珀の指示に異を唱えることもなく、即座に飛び出していきます。
数秒もしない間に閑散となったホールを満足げに眺め、珀は神と女神を振り仰ぎました。
「時間がありません。どうか継承ノ儀を始めてください」
跪き頭を垂れその時を待つ珀の耳に、しばらくして慈愛に満ちた声が飛び込んできました。
『文句なしに合格だよ』
「当然だ。朧が見込んだ男なのだから」
驚いて顔を上げれば、さっきまでは完全なる無表情だった神と女神が微笑んでいます。
珀の何かが、彼らを満足させたようでした。
神の左手と女神の右手が伸び、珀の額の上で重ねられます。
『じゃあ始めるよ』
「何か言っておきたいことはあるか」
「ん…と、じゃあ、女神様、この騒ぎが収まったら」
珀はちょっとだけ調子に乗って、女神に頼み事をしてみることにしました。
言葉を紡ぐ間にも、額に置かれた二つの手に熱、ひいては力が集まっていくのがわかります。
目も開けられないようなまばゆい光に反射的に瞼を落とし、予想もつかない衝撃に備え。
「あなたの娘を、僕にください」
言い終わると同時に体内で弾けた猛烈な熱に、珀の意識は途切れました。