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その日、城下はただ一つの話題で持ち切りでした。
「第一王子朔と第五王子珀が、継承ノ儀を行うらしい」
継承ノ儀の成功のために必要なのは、王としての能力、太陽と月の石がそのひとの言葉に応えること。
今は月の石はありませんから、太陽の石が応えれば継承ノ儀は成功となります。
候補となる者は立候補ではなく、貴族含む官吏たちの推薦によって決まります。
五年前までは候補は朔一人だと思われていたのですが、継承ノ儀を行うと発表された際、非常に多くの官吏が朔ではなく珀を王にと推したのです。
裏の権力者たる祥に、逆らってまで。
そして候補が二人以上いる場合、継承ノ儀の前に決闘が行われることになっていました。
「応援のために何かしよう」
誰かが言い出しました。
それは寄せる波のように、瞬く間に広がっていきます。
人々は疑っていませんでした。
彼らの希望たる月の王子が、第一王子朔に打ち勝ち王になることを。
◆ ◆ ◆
「その決闘でお前に降伏を迫るために、兄は朧をさらったのでしょう」
珀は信じられない気持ちで、自分に語りかけるそのひとを見ていました。
「朧を守りきれなかったのは私のミスです。すみませんでした」
ずっと、会いたくて。
でも嫌われていて、会えるはずもなかった、遠い遠いひと。
「父……上…?」
「そうですよ。大きくなりましたね、珀」
この国で最も貴い地位におわす男は、目を細めて珀を手招きしました。
目の前の光景に頭がついていかない珀の背を、誰かがそっと押します。
振り返ると苑が、大丈夫だという風に頷きました。
その瞬間、珀の中で何かが音を立ててひび割れました。
腕を広げる男に向かって走り、その胸に飛び込みます。
「父上、父上……!」
「はい、はい。ここにいますよ」
珀だって、本当は淋しかったのです。
兄たちは皆好きな時に父に会えるのに、自分だけは会えなくて。
堰を切ったように泣き出した珀を、舜はしばらくの間黙って抱きしめていました。
こうして親子は、十数年ぶりの対面を果たしたのです。
しかし湿った空気に浸れたのも束の間、白い男が飛び込んできたのは、その直後でした。
白い髪、灰色の瞳、銀が散った白い制服。
一斉に突き刺さった視線をものともせずに、舜に向かって大股で歩み寄ります。
「蕾!」
叫んだのは、湊でした。
片手を上げてそれに応えた男は、しかし足を止めません。
自分を見上げてくる瞳をしっかり見据えて、彼は言いました。
「祥様と、朔王子から。連名でお手紙が届いております――珀様」
それを聞いて、珀はすぐに舜から離れ、理知的ないつもの表情を張り付けました。
朧の行方は、十中八九その中に書いてあるのでしょう。
「……読み上げてください。騎士団長様」
「――『ご機嫌よう、月の王子』」
しばし躊躇いを見せた蕾は、やがて目を伏せて折り畳まれた紙を開きました。
静かな声が、謁見の間にこだまします。
『ご機嫌よう、月の王子。
単刀直入に言おう。
黒の少女は我が手の内にある。
明日の継承ノ儀を辞退しなさい。
王位継承権を返上する旨を書面にして、明日正午までに公表してくれたまえ』
そこで一旦、蕾は言葉を切りました。
誰も、何も言いません。
蕾は重苦しい沈黙から逃げるように再び手紙に目を落とすと、最後の数行を読み上げました。
「『追伸。なぁ珀、いい女じゃないか、お前のお気に入りは。実に俺好みだよ』」
刹那、珀の右手が予備動作なしに閃きました。
どす、と何かが突き刺さる音が響きます。
何かを投擲した姿勢の珀の視線の先にあるのは、短剣。
過たず頸動脈を捉えた短剣は、湊に忍び寄っていた兇手の命を間際で刈り取っていました。
ぴくりとも動かない珀を舜が咄嗟に抱き寄せ、苑が湊の手を引きます。
どうと崩れ落ちる兇手の装束は噴き出した血潮に濡れ、けれど赤くは染まりませんでした。
あぁ、と珀は思いました。
「朧の色だな……」
他の何色にも染まることない、夜闇の色。
「珀様。このようなものが」
封筒を覗き込んだ蕾が、顔を歪めて何かを取り出しました。
装束よりなお深い夜色のそれは、珀の目がおかしくなっていなければ、間違いなく朧の髪でした。
それを脳が認識した瞬間、胸が引き絞られるように痛みました。
いても立ってもいられなくて、叫び出してしまいそうで。
頭が真っ白になって、まるで借り物みたいに身体が言うことを聞きません。
「珀、しっかりなさい!」
舜の叱咤の後、珀の世界からふつりと音が消えました。
『そんなところで何をしておるのじゃ?』
『珀は凄いな』
『珀、そなたまたやられたのか!?』
『わらわが空で、そなたが月じゃな』
『珀は良い王になる』
『わらわの前では無理に笑うなと言っておろう!』
次々と浮かんでは消えていく朧の言葉。
同時に脳裏を過ぎるのは、その時の光景です。
胡乱げな顔、しかめっ面、不満げな顔、笑顔。
泣き顔だけは見たことがなかったな、とぼんやりと思った珀は、いつだったか交わした会話を思い出しました。
『城の空気は重いんだ。皆ぴりぴりして、明るかったことなんて一度もない』
そう零した珀に、朧は遠くを見ながら呟くように言いました。
どうしてだか、ひどく悲しそうな顔で。
『この国は停滞している。昼と夜、生と死という大きな循環が止まって、連鎖的にいろんなものが循環しなくなっておる。だから空気が淀んで、ひとは笑うことを忘れてしまったのじゃ』
だからそなたのしていることは正しい、と朧は笑いました。
いつだって珀の背中を押すのは朧なのです。
長いように思えた一瞬を経て、音が戻ってきます。
『わらわは何があっても大丈夫じゃ。だから――』
「珀?」
戸惑う舜の腕の中で、珀は静かに微笑みました。
あれほど荒れ狂っていた心は、今はもう凪いでいました。
「そうだね、朧」
珀は不思議なほど穏やかに宣言しました。
「兄上の要求は飲まない。だから決闘の準備をしよう」
『――そなたはそなたが成すべきことを成せ』
驚く大人たちを尻目に、少年はそこに少女がいるかのように特別な笑顔を浮かべました。
――信じてる、朧。
僕は僕のやり方で夜を取り戻すよ。
だからそれまで待っててね。
珀の目にもう迷いはありませんでした。
◆ ◆ ◆
「なぁ、兄さん。兄さんはどうするんだ?」
城の一角、広さの割に物が少ない部屋に、二人の男がいました。
傍らを見上げ尋ねたのは、小さい方――弟。
「オレ、当然お兄サマが王位を継ぐんだって思ってたんだ。疑問に思ったこともなかった」
弟の独白を、兄は黙ったまま聞いています。
「でもあいつは違った。そりゃあ最初は馬鹿じゃないかと思ったよ。昔は馬鹿にしたこともいじめたこともあったし、オレの方が優れてるって思ってたから。だけど五年だよ? あいつは五年も、陰険な嫌がらせに耐えて努力してきた」
灯のついていない暗い部屋。
窓の外、どこまでも広がる空にはさっきまで太陽が我が物顔で居座っていたのに、今はしとしとと雨が降っていました。天気雨。
「オレ、一番下で父さんからも放っておかれてたから、よく城下に行ってたんだけど。最近久々に行ってみたら、皆にこにこしながらあいつの話をするんだよ」
だから、と弟は言いました。途方に暮れたように。
「わからなくなっちゃったんだ」
「私は」
言い差して、ふと口をつぐむ兄。
ややおいて、常にない強い口調で、彼は言いました。
「私はあの子が嫌いだった。何をされても文句一つ言わないところ。泣きもせずに淡々と受け入れるところ。諦めたような、それでいて私たちへの悪感情が見当たらないあの瞳!」
弟が、ぴくりと身を跳ねさせました。
「気味が悪かった。弟だなんて思えなかった。でも後で、後悔した」
束の間の激情が嘘だったかのように、静かな調子を取り戻した声音が、低く空気を震わせます。
「あの子はどうしようもなく愚かで……どうしようもなく優しかった」
愚かしいほどひたむきで、優しすぎるくらい誠実で。
「初めてあの子の笑顔を見た時、あの時手を伸ばしていれば――と思ってしまったんだ。
あの子は、私に笑い方を教えてくれただろうか、と」
あの日、第一王子信者にぶつかられてぶちまけてしまった荷物を拾ってあげたのは偶然でした。
ほんの気まぐれだったのに、とても嬉しそうに笑って『ありがとうございます』と言ったのです。
その瞬間、彼は悟りました。自分が間違っていたのだと。
淀んだ空気が漂う城の中で、屈託なく笑えるのは家族の中で彼だけでした。
「ちゃんと目を見て、話してみればよかったんだ。……もう遅いがな」
沈黙が落ち、やりきれない空気が漂います。
二人は黙って、雨が上がるまでずっと窓の外を眺めていました。
雨がやったら自分が進むべき道が見える、そんな気がして。
◆ ◆ ◆
珀は一人で最後の準備を整えました。
王族の正装に着替え髪を梳き、剣を佩いて鏡の前に立ちます。
今日の服は、特別でした。
継承ノ儀をやると聞いた城下の人々が、珀のために作ってくれた服。
「応援の気持ちです。頑張れ!」のメッセージカードと共に今朝届けられていました。
その、艶やかな漆黒の服は、珀にとてもよく似合いました。
兄たちに嫌われた金の髪は、まるで夜空に浮かぶ月のよう。
鏡の中の自分に向けて、珀は笑みを浮かべてみせました。
「朧が一緒にいるみたい……」
珀にとって黒はどこまでも朧の色なのです。
これほど心強い応援はありません。
左胸を二度叩き、珀は振り返らずに告げました。
「さぁ、始めようか。兄上たちへの反逆を」
いつの間にか控えていた苑と遥が、深く頭を垂れます。
月の王子は顔を上げ背筋を伸ばし、確かな足取りで部屋を出ました。
◆ ◆ ◆
「とうとう書面は届きませンでしたネェ。さすがクズ。あなたモそう思うでしょウ?」
くすくすと、笑声が聖堂にこだまします。
吹き抜けになった中央部、継承ノ儀が行われる部屋の隣の部屋。
座り込んだ男が小刻みに肩を震わせているのです。
「あーァ、ほんとクズですネェ。兄上に敵うわけがないノニ」
男が話し掛けているのは、ぐったりと床に横たわる少女でした。
見るも無残なまでにぐしゃぐしゃになってなお美しさを失わない黒髪を引っつかみ、無理矢理顔を上げさせて、男は嗤いました。
「何せ舜は継承ノ儀ヲやってませんカラね。太陽の石の持ち主ハ、今でも父上なのデスよ」
目を閉じた少女は気を失っているらしく、何も答えません。
やつれてぼろぼろになって、それでも微かに上下する胸だけが彼女が生きている証でした。
「くくく……お前を目の前で殺しタラ、あのクズはどうするでしょうネェ? それとも犯しテみましょうカ?」
言ってみてから、良い思い付きだと、男は何度か頷きました。
「兄貴に教えテあげましょウ。あのクズを効果的に痛めつけル方法デス」
「おい陸、早くしろ!」
「ハイハイ、わかりマシタよ」
外から聞こえた声に、男は叫び返しました。
横たわる黒髪の少女を見下ろし、少しだけ……と唇を歪めます。
誘われるように伸ばされた手が、その白い頬に届く――――その時。
「朧に触れるな」
あまりにも鮮烈で、厳かな声が。
男の下卑た笑いを鋭く切り裂きました。
男は縫い付けられてしまったかのように、ぴくりとも動けませんでした。
「朧に触れて良いのは、わたしが許した者のみ。そなたごときが朧を望もうなど千年先でもまだ早い」
いつの間にか立ち上がっていた、気を失っていたはずの少女。
さして大きくない身体は後ろ手に縛られているにも関わらず異様なまでのプレッシャーを滲ませ、漆黒の瞳が無表情に男を見下ろします。
その、威圧的ですらないただの視線の前では、社会的地位はそこそこある男ですらも「その他大勢」の一人でした。
ふいに少女の瞼が下り、底冷えするような夜色の瞳が隠されます。
「ん? あぁ、コレは第三王子か。なら適当に黙らせればいいだろう」
あたかも誰かと話しているかのような、呟くような声と同時、縛られていたはずの少女の右手が動き、人差し指が男の額を突きます。
男は突然襲ってきた「何か」によって落ちる瞼に逆らえず、力を失って床に倒れ込みました。
「そなたは知らぬか。それが睡魔、あるいは眠気というものだ」
聖母のように優しく、神のように厳かに。
少女の澄んだ声が、「寝入って」しまった男に降ります。
ボサボサだったはずの黒髪を美しくなびかせて、少女はうっそりと笑いました。
「――しばしお休み」
◆ ◆ ◆
藤色の髪に紫紺の瞳、纏う服は豪奢に飾り立てられた紫色。
王のみに着ることが許された色を当然のごとく身に付けた男が祥だと、会ったことのない珀ですらすぐにわかりました。
「せっかく最後のチャンスをやったのに、のこのこやって来るとはな」
傲慢さが滲み出た声音が珀を嘲笑います。
「身の程を弁えるくらいには賢いと読んでいたが、買い被りだったようだ」
馬鹿にしたように鼻で笑い、祥は聖堂の中央、吹き抜けになったホールへ珀を促しました。
「まぁいい。どちらにせよ朔に勝てるわけがないのだからな。さっさと行け、決闘を始める」
「朧は無事なんですね?」
詰め寄った珀をものともせず、大袈裟に肩をすくめる祥。
「さぁ、知らん。陸に任せてあるが……出て来ないってことはよろしくやってるかもしれないな」
それは、あからさまな挑発でした。
だけど不思議と、珀は笑みを浮かべることができました。
朧を下卑た想像に巻き込んだことは許し難い。
けれど、わかっていたから。
根拠も証拠もないけれど、朧は大丈夫だと確信していたから。
くるりと踵を返し朔のもとに向かう珀に、苛立ったように祥が舌打ちをします。
「生意気な……。朔!」
「わかってますよ」
第一王子朔。容姿も趣向も思考も何もかもが祥にそっくりな、祥の後継者。夜を厭い、不死を願う者。
鞘のついたままの剣先が床を叩き、誘うように音を立てます。
余裕綽綽とした祥と同じ色の朔の瞳には、己れの勝利しか見えていないようでした。
「さて、珀。言い訳くらいは聞いてやろう。何故決闘を望んだ?」
珀が立ち止まったのは、対面の朔から十歩の距離を置いた位置。
珀と一緒に来た苑と遥が、先に来ていた舜と湊と蕾か、励ますようにあたたかく珀を見守っています。
それを全身で感じながら、珀は腰から長剣を鞘ごと外し、「簡単な話です」と答えました。
「夜を排し不死を望むあなたに、国は任せられない」
「俺たちの高尚な望みを理解せず夜を望むお前にこそ、国は任せられないというのに」
朔は呆れたように見下すように笑いました。
顔の前で水平に掲げた剣の鯉口を切り、珀もまた笑います。
己れの中に確とした芯を持つ者の、力強い笑みでした。
「えぇ兄上。僕たちはどこまでも対極で、どこまでも交わることはないのです。昼と夜が絶対に同時に存在しないように」
すらりと抜き取った剣を構え、珀は言いました。
「ですから兄上、僕は決闘を望んだのです」
「無駄な足掻きだ」
ばっさり切り捨てた朔は、柄に手をかけ、そして驚愕に目を瞠りました。
「なれば兄上、珀。審判は私たちが務めよう」
「この場で中立だと宣言できるのはオレたちくらいだからね」
現れた人影に、響いた声に。
もしかしたら朔は、珀よりも驚いたかもしれません。
珀ですら、彼らは朔の味方をするものだと思っていましたから。
「拓兄上、岳兄上、どうして……」
「さてな。だがまぁ安心しろ。天秤のように機械的に公平な判断をしてやる」
「間違って殺しちゃった、なんてことにはさせないよ」
拓はにやりと笑い、岳がひらひらと手を振ります。
嬉しくなる珀とは対照的に、朔の表情は忌ま忌ましげでした。
「堕ちたか、馬鹿共が」
笑みが消え、ぎらついた紫紺の瞳が珀を睨みつけます。
「ちょっとは遊んでやろうと思ったが、気が変わった。瞬殺してやる」
そして鞘の払われた白銀の刃が、真っ直ぐに珀に据えられました。