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その男は、十七代目の国王でした。
彼の時代、世界は宵暁国の天下でした。
そして彼は、野心家でした。
生まれながらの王であった彼は、欲しいものを全て手にすることができました。
金も、物も、女も、国も。
世界は全て、彼の意のままでした。
故に彼がそれを望んだのは、当然の帰結だったのかもしれません。
いつの時代も誰かが望み、追い求め、そして身を滅ぼしていく、そんな野望。
現在を掌握した彼は、未来を望みました。
すなわち、――永遠の生を、と。
普通ならば、彼もまた淘汰されるだけで、この物語は終わりだったのでしょう。
けれど幸か不幸か、彼の目にはそれに至る道が視えてしまいました。
永久に続く命を得るためには、死を断てば良い。
死を司るのは死神、夜の女神の眷属。
なれば夜の女神の加護を失えば、永遠がもたらされる――――。
世界を統べていた彼を止められる者はいませんでした。
それでも、と己が命をかけて異を唱えた臣下たちは、一人残らず首を刎ねられました。
『命をかけたなら、殺されても良いのだろう?』
その顔に、ただ絶望を張り付けて。
彼は嗤いました。
彼の思い通りにならないものなど、この世存在していてはならなかったのです。
――そしてある日、彼は召喚に応じた夜の女神に切り掛かりました。
召喚されたからには危急の要件なのだろう、と思っていた女神は、その刃を避ける暇がありませんでした。
何事も起こらないはずでした。
この世で最も貴い神の片割れたる女神を傷付けられるのは、女神と対をなす存在である昼の神だけなのですから。
ただ一人、彼でさえなければ。
初代より受け継がれる太陽の石を持つ、彼でさえなければ。
己れの身体から舞った鮮血を呆然と見詰めた女神は、無傷でいられたはずなのです。
救いだったのは、力の差が大きかったことでした。
神は不老不死ではありますが、無敵ではありません。ひとと同じように傷付き、苦しみます。
癒しを得るために、眠りにつかなければならないこともあります。
けれど太陽の石は昼の神の力のほんの一部。通常なら致命傷のはずの怪我は切り傷で済み、神の治癒力は瞬く間にその傷を治していきました。
そして彼が動けたのはそれまででした。
圧倒的な力が場を支配し、女神が右手を掲げます。
その手に吸い込まれるように飛んでいくのは、王が所持していた月の石。
女神は回収した己れの力を握り締め、彼を睥睨しました。
『それほどまでに永遠の命が欲しいならくれてやろう。今日を限りにこの国から夜は失われる』
それだけを宣言し、女神は姿を消しました。
そうして宵暁国からは夜が、そして国を守護していた加護の半分が失われたのです。
それらを代償に、宵暁国からは死が失われました。
彼は永遠の命を手にし、狂喜しました。
代わりに失ったものがどれだけ必要なものだったのかにすら、気付かずに。
夜の女神の加護を失ったと知り、同盟国の幾つかは宵暁国に反旗を翻しました。
それらの国にはすぐに夜が訪れるようになりました。
けれど宵暁国では、一日中空に太陽がある日が続きました。
そして、死に至るひとが消えました。
彼だけではなく、国中が不死となったのです。
夜という概念が消え、休息を必要としなくなった人々は一日中動いても平気になりました。
素晴らしいと、彼がしたことを知らない人々は彼を褒めたたえました。
ふざけるなと、彼がしたことを知る人々は彼を罵りました。
その筆頭だった神官や巫女たちを粛正し、彼は哄笑を響かせました。
己れは全てを手に入れた、と。
しかし彼は不死を手に入れたのではないのです。
ただ、死を失っただけなのです。
彼はそのことに気付けませんでした。
加護の半分を失った国は、やがて緩やかに狂い始めました。
人生から休息を失った人々が穏やかに笑うことは減り、国中にひとに害なす獣が跋扈するようになり。
死を失った国に獣を始末する術はなく、次第に国は荒れてゆきます。
重い病を得たひとは死ぬこともできぬまま永遠にもがき苦しみ、治らない怪我を負ったひとは激しい痛苦に絶えることなく襲われて。
生き物の命を頂いて生きてきた人々は、食料がないことに愕然とし。
ようやく、自らが失ったものに気付いたのです。
それからは国の至る所でデモが発生しました。
彼は野心家ではありましたが、王でした。これ以上自分がその地位にあることは自分にとっても良くないと悟り、後継者を指名しました。
それが、彼の弟である現国王、舜です。
実は舜は兄が永遠の命を望んだ時、裏で阻止しようと動いていたのですが、表立っては何もしていなかったために兄から信頼されていたのです。
彼は自分と同じように心から不死を望んだはずの弟に後を託したのでした。
故に舜は、兄の思う弟を演じ続けなくてはなりませんでした。
自分の思い通りにならないと知れば、彼が何をしでかすかわからなかったからです。
舜は彼の手駒として、その牙を隠して王になりました。
そして彼の言うがままに四人の妃を譲り受けました。
妃たちは国王の妻であることを望み、兄は妃たちとの間にできた四人の王子の誰かを王にすることを望んだのです。
舜には愛する妻がおりましたが、兄に逆らうわけにはいきません。
妻は舜の心を全て理解して、共に受け入れてくれました。
様々なものを犠牲にして舜は兄に従いながらも、裏では彼を排し、夜を取り戻す術を探っていました。
けれどなまじ能力があった兄の力は強く、不死への執念は深く、舜は思うように動けませんでした。
舜に従い、密かに動いていた苑も遥も、騎士団長も宰相も同様です。
そんな中、妻との間に生まれた五人目の王子の存在が、彼らに希望を示しました。
第五王子が生まれたその時、昼の神が降臨されたのです。
『この子は夜を愛するだろう。我が片割れの寵を得られる王となるのはこの子だけだ』
少なくてもわかる、月のような黄金の髪を一撫でし、神は去りました。
『私は……が作ったこの国を失いたくないのだよ』
最後にそう、初代の名前を呟いて。
珀と名付けられた黄金の王子は、すくすくと成長し、その才を明らかにしていきました。
珀が二歳になった頃、舜は宰相と相談して、珀を隠すことに決めました。
舜の兄は彼とよく似た第一王子朔を次の王にと望んでいたからです。
絶対に、珀の存在を――ひいてはその才を知られるわけにはいきませんでした。
舜は信頼できる臣下である苑と遥に珀を託し、自らは全ての感情を封じ込めて、珀と接するようになりました。
表面上は嫌っている風を装って、けれど苑や遥からの報告で珀の様子を聞いては愛おしそうに相好を崩しています。
いつの日か、初代と同じように心優しい青年に成長した珀に後を継がせることを夢見て、舜は今日も兄の駒として玉座に座るのです。
◆ ◆ ◆
そうですか、と。
吐息のように、舜は言いました。
疲れきった青白い頬に微笑みが浮かびます。
珀が王になると決意した、と報告にきた遥は、それを見て妙に悲しくなりました。
「では本格的に動くとしましょう。味方にしやすそうな人間はこちらで調べてありますから、まずそのひとたちから落としてください。湊」
「はいはい、リストはできてますよっと」
立ち上がったのは、蒼色の髪に銀色の瞳、空色の服を着た男です。
遥は彼を見るたびに苑のことを思い出します。
赤い苑と、青い湊。彼らが親友だというのは、なかなか面白いと思うのです。
今は宰相という地位にいる湊は、身軽に歩いてくるとひょいと紙束を差し出しました。
受け取って、ざっと目を通します。
載っている名前の中で一番影響力のあるひとを最初に落とすつもりで、それが誰なのかを探すためでした。
そしてすぐに、必要ないと悟りました。
遥と湊は考えることや立てる策が似ていて、だから渡されたリストには遥がそう思うだろう通りの順番に名前が並んでいたのです。
「相変わらずね」
「お褒めに与り恐悦至極。君も相変わらずだけどね」
「あら光栄。ちなみにどこが?」
「すぐ気付いただろ? 陛下は説明するまでどういう意図で名前が並んでいるのか気付かなかったからな。ほんと笑えるくらい似てるよ、俺たち」
「似るのは頭の出来だけでいいのにね。まぁいいわ、じゃあ私が訊きたいこともわかるわね?」
「あぁ、朧って嬢ちゃんのことだろ。言われると思って調べてあるよ」
一応主君である舜を放って、口論という名のコミュニケーションを始めた二人を舜が笑いながら見ていることを、幸いにも二人は知りません。
湊は持っていたファイルを開きながらも、それを見ることなく口を開きました。
「朧ちゃんの出自は不明だ。捨てられていた彼女を神官の一人が連れてきて巫女見習いにしたらしい。ただ神殿は祥……様の粛正の後は完全に祥様の犬。不幸にも彼女を拾った良識的な神官は先日亡くなってしまっていてね。あれだけ明確に夜を体言している朧ちゃんは、神殿で疎まれているというわけさ。パシリから暴力までやりたい放題」
腐ってる、と吐き捨てた湊に、遥は心の底から同意しました。
護衛も兼ねて、珀には常に遥か苑のどちらかが付いていました。もちろんバレないようにです。
だから珀が言わない、小さな巫女見習いのことも知っていました。
始めは警戒していたのですが、彼女が純粋に珀を案じていることはすぐにわかったので、二人は見守ることにしたのです。
珀が王になると決めた理由にも、きっと彼女がいるのでしょう。
珀の大事なひとならば、遥にとっても大事なひとです。
それに、性根の腐りきった王子たちと違いひとを思いやる心を持つ彼女を、遥は気に入っているのでした。
「思ってたより酷いわね……」
「お前たちが直接動くわけにはいかないからな。大丈夫、こっちで手を打っておく」
「そう? じゃあお願いするわ。必ず守りなさいよ」
これから珀は兄たちと戦うことになります。
どんなに気をつけても、いずれ珀の存在は舜の兄、祥に知られてしまうでしょう。
その時に、彼女を祥の手駒とされてはならないのです。
湊に任せておけば大丈夫だろうと遥は思いました。
「遥」
用事が済んで立ち去ろうとした遥を、舜が呼び止めました。
「私の分も、珀の力になってやってくださいね」
私は、あの子を抱きしめてやれませんからね……と、虚空を見据えて自嘲気味な笑みを刷いた国王に、遥は深く頭を下げました。
心からの敬愛と、ごく少数に許される親愛を乗せて。
「――御意のままに」
◆ ◆ ◆
それからの珀の日々は、目が回るような忙しさでした。
兄の鬱憤晴らしの道具にならざるを得ない、無能な王子を演じながらも、裏では要職に就く貴族を落としていき、密やかに、けれど着実に、兄に対抗するための力を付けていきました。
味方を増やすにあたっては、もちろん苑や遥の手腕も大きかったのですが、何よりも役に立ったのは珀の持つカリスマ性でした。
ただの子供でいる間は誰も知らなかった、その才。
その明晰さに驚嘆し、その剣の腕を賛嘆し、何よりその心に感嘆し。
心ある者たちは珀の前に膝をついていきます。
そして民もまた、月の王子に王の夢を見ました。
死を失った宵暁国では、毎年毎年人口が増えていき、反対に食料は減っていきました。
先王と共に不死を望んだ権力者たちは当然のように民を顧みることなく、秩序は崩壊寸前、かつて栄えた国の面影などなく、頽廃とした空気が漂い。
明日もわからぬ暮らしの中で、夜を取り戻すと表明した珀だけが、民の希望となりました。
所詮無能な王子、今更王位を求めたところで何ができるわけでもない、と嗤っていた兄たちは、気付かぬうちに民からの支持を失ったのです。
「珀、そなたは凄いな」
そんな目まぐるしい日々に在っても、珀は朧と会う時間を設けるようにしていました。
朧の顔を見ると、胸がほんわかとあたたかくなって、頑張ろうと思えるのです。
毎日午後に訪れるその時間が、危うい均衡の上を爪先立ちで歩いている珀の安らぎの時でした。
「凄い? どうして?」
「誰かを守ろうとするのは凄いことじゃ。珀は兄君に睨まれても意地悪をされても、前を向くであろう? きっと珀の国は優しく強い国になると思う」
五年が経ち、とうに巫女見習いから巫女となった朧は、美しい顔に優しい笑顔を浮かべてそう言います。
珀は照れ臭くなって、買い被りだよと早口に答えました。
「そんなことはない。自分のことばかりのお偉いさんよりもずっと偉いぞ。できる限り城下におりて民を励まし、落ち着かせておることも知っておる。孤児院の体制を見直したり――」
「そんなことないよ。だって僕は彼らを利用するつもりなんだから」
「それでもいいと思うから、民はそなたを慕うのであろう?」
「……………」
「納得できぬのなら、そなたはそなたの意を遂げれば良い。絶対に失敗せずに、利用する民にそなたという結果を返す。需要と供給が一致するであろう?」
珀は朧に、王になろうと思ったきっかけも、それから自分が何をしているのかも、詳しく話したことはありません。
けれど朧は何も知らなくても、珀を叱り、励まし、前に進めてくれます。
珀が凄いと言うのなら、それは間違いなく朧のおかげなのです。
「ねぇ、朧」
珀は、巫女装束に零れる夜色の髪を眺めながら、ぽつりと呟きました。
「朧は、もし僕が王になりたいのは自分が好きなひとのためだって言ったら、どう思う?」
「どうも思わん」
珀はびっくりして朧を見ました。
そなたそんなことを気にしていたのか? と呆れたように溜息をつく朧。
「いいか? たとえきっかけがそうだったとしても、そなたの今までの努力はそれだけのためにできることではない。そなたを見ていれば誰でもわかる」
力強く言い切り、そして朧は誇らしげに笑いました。
「珀は良い王になる」
「……そっか。ありがとう、朧」
珀の口許が綻びます。
敵と味方がひしめき、探り合い潰し合いが繰り広げられている城とはちがって、朧の傍では楽に息ができました。
傍にいるだけで鼓動が速くなって、世界がきらきらして見えて、だけどちょっとだけ切なくなる。
珀にとって朧はそういうひと。
「礼には及ばぬ。わらわも嬉しかったからの」
「嬉しい?」
「いつも一人ぼっちみたいな顔をしていたであろう? 王になってまで守りたいと思えるひとがいたことにほっとしたのじゃ。……と、すまぬ。時間じゃ」
並んで座っていたベンチからさっと立ち上がっていつかのように駆け足で神殿に戻りかけ、朧は一度だけこちらを振り返りました。
「珀。そなたは優しい。優しいからこそ、傷付くことも多いはずじゃ」
慈悲深い微笑は、まるで女神のよう。
「だけどどんなに傷付いても、絶望しても、その優しさを見失ってはならぬ。どん底からはい上がるために差し出される手があることを忘れてはならぬ。そうすれば、そなたは誰よりも強くあれるじゃろう」
「ちょっと待って、どういう……」
「良いか、わらわは何があっても大丈夫じゃ。だから余計なことを考えずに、そなたはそなたが成すべきことを成せ」
呼び止める間もなく、朧は身を翻してしまいました。
珀は渋面で首を捻ります。
朧が言ったことの意味が、意図がわかりませんでした。
しばらくしてただの激励だったのだろうと結論付け、珀は部屋に戻ったのですが――――。
「朧………?」
次の日、どれだけ待っても朧は現れませんでした。
胸騒ぎを覚えながらも偶然だと言い聞かせた次の日も、その次の日も。
四日目、約束の場所に朧の姿がないのを確認した珀は、取って返すといつになく険しい面持ちで苑と遥を呼び付けました。
「朧が消えた。探してくれ」
その頃には、さすがに珀も朧のことは話してありました。
やってきた二人は珀以上に険しい顔をしていて、珀の中の嫌な予感が膨れ上がります。
「苑、遥、何か良くないことでも」
「良くないどころか、これ以上ないほどに悪い」
苑が悔しそうに唇を噛み締めます。
その隣で、遥が沈痛な面差しのまま、低い声で告げました。
「――朧様は、祥様にさらわれたようです」
音を立てて凍り付く珀の瞳。
微動だにしない二人の様子から、それが冗談なんかではないことはわかります。
珀は喘ぐように一言だけ言いました。
嘘、と。
「祥様が動かれたということは、恐らくすべてバレているでしょう。どちらが勝とうと、近日中に決着がつきます」
「お前にはまだ、この国の王位継承に必要な儀式の話をしていなかったな」
あえて事務的に話を進めているのだとわかって、それでも珀はその声をどこか遠くで聞いていました。
代わりに朧の最後の言葉が、繰り返し耳元で響いていました。