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拙作を閲覧いただきありがとうございます。
22時まで一時間一話、全五話ですが、どうぞお付き合いください。
昔々あるところに、心優しい青年がいました。
昼も夜も戦が絶えなかった国の現状を憂い、同様の考えを持つ仲間を集めていきました。
死に物狂いで努力して知識を身に付け、武術を修得し。
万全の準備を整えて、王様に戦を止めるよう求めたのです。
けれど王様は、言うことを聞きませんでした。
青年の仲間たちは優秀でしたが、数という力の前に一人、また一人と倒れてゆきます。
青年は嘆き悲しみました。
そして希いました。
――誰か助けて、と。
誰よりも強く優しい青年の願いは、何よりも貴い二柱の神に届きました。
昼を司る神と、夜を司る女神が降臨したのです。
命育む昼、命休める夜、生の昼、死の夜。
世界は回り、ひとの生も回り、そしてそれらの循環を司るのが昼の神と夜の女神なのです。
王様は、青年の前に屈しました。
青年は民に望まれ新たな王となりました。
昼の神と夜の女神は自らを降ろした青年に敬意を表し、力の一端を貸し与えました。
日の形をした白い石と、月の形をした黒い石。
青年は決してそれらを私欲に使うことなく、ひたすらに民のために尽くしました。
心優しい王様は、ちょっぴり不思議な力に助けられながら偉大な国を作り上げていきました。
こうして宵暁国は誕生したのです。
――――宵暁国史第一節『誕生』より抜粋
ぱたん、と本を閉じ、小さく伸びをした少女は淋しそうな微笑みを浮かべました。
その図書館に、人影はありません。
少女が読んでいた本はその国の建国史でしたが、書庫に仕舞われていてもう随分読まれた気配はありませんでした。
「良い男だったのにな……」
よいしょ、と本を持ち上げて、少女は席を立ちました。
元通り書庫に戻し、窓から空を見上げます。
青い空には煌々と太陽が輝いていました。
少女の微笑みが一層淋しげなものに変わりました。
「もう、夜中の十一時なのにな」
それなのにまだ、太陽は天にあり、地上を遍く照らしています。
少女は黙ってカーテンを閉め、図書館を後にしました。
誰も何も、彼女がそこにいたことを知りませんでした。
そう、太陽でさえも。
◆ ◆ ◆
「消えろ、クズ。お前が生きているだけで不愉快なんだよ」
その言葉を聞くのは、いったい何回目でしょうか。
もがくようにして池からはい上がった少年は、拳を握り締めて激しく咳込みました。
幸いそこは芝生だったので、濡れて用をなさなくなった服のまま寝転びます。
見上げた空は、今日も今日とて飽きることなく鮮やかな蒼を覗かせていました。
「これならすぐ乾くかな……」
溜息とともに服の水を切っていきます。
最後に少年は髪に手を伸ばしてぎゅっと絞りました。
ぽたぽたと水を滴らせる髪は、黄金色。
もう何年も見られたことのない、月の色です。
少年も、月を見たことはありませんでした。
少年が生まれる少し前に、この国から「夜」は失われてしまったのです。
それと関係があるのかはわかりませんが、城で唯一金の色彩を持つ末の王子は家族から、取り分け父である王様から疎まれていました。
この国の最高権力者に睨まれた少年に逃げ場はありません。
まだ十を数えたばかりの少年は本を読むのが好きなどちらかと言えば大人しい男の子でしたが、それゆえに自分が兄たちのストレス発散の道具にされていることも、なんとなくではありますが理解していました。
「兄上も、タオルくらい用意してくだされば良いのに……」
「珀! そなたまたやられたのか!」
珀、と呼ばれた黄金色の少年は、弾かれたように飛び起きました。
この国では少年以上に見かけなくなった色彩を持つ少女が、泣きそうな顔で駆けてきます。
条件反射で笑顔を浮かべた珀に、少女は手にしたタオルを投げつけました。
「ありがとう、朧」
「わらわの前では無理に笑うなと言っておろう!」
末とはいえ王子である珀を遠慮容赦なく叱り付けるこの少女、朧は、神殿に仕える巫女の見習いです。
「ごめん」
「……別に構わぬ。わらわはそなたの笑顔が嫌いなわけではないのじゃ」
珀はそっぽを向いた、自分より一つ年下の朧の頭に手を伸ばし、よしよしと撫でました。
綺麗に切り揃えられ、結われている朧の髪は、藍色がかった黒。
瞳は、吸い込まれそうなくらい透き通った漆黒。
珀は見たことがない、「夜空」。
彼女は失われた夜の色を持っているのです。珀よりも、ずっと明確に。
朧はされるがまま、気持ち良さそうに目を細めました。
すり、と伸びをするように少女は少年に寄り添い――
「! 朧っ!?」
くらり、と傾く華奢な身体。
咄嗟に手を伸ばし、朧を抱き寄せます。
拍子に巫女装束が肩から外れ、白い肌が露わになりました。
普段なら、赤面していたでしょう。
しかし朧の肩を目にした途端、珀の顔からは一切の表情が消えました。
「朧……どうしたの、これ」
眩しいほどの白い肌に浮かぶ、痛々しいあざ。
腕を掴み、袖を捲りあげると、そこにも疎らな模様が浮かんでいました。
何故。どうして。
神によって生まれたこの国では、神に仕える巫女は誰よりも安全なはずなのに。
「はく。……珀。痛い」
その声に我に返った珀は、次いで自分が朧の手首を強く握り締めていることに気付きました。
「ごめ……」
「いい。それとこの怪我はわらわの不注意が原因じゃ。驚くでない」
装束を整えながら微笑む朧。
それが嘘だと知っていて、それでも珀は何も言えませんでした。
彼女の身に何が起きたのか聞いたところで、珀には何もできないのです。
この城に、軽んじられている末の王子の味方はほとんどいませんでした。
俯いてしまった珀の袖を、小さな手が二度、引っ張りました。
「珀、すまぬが時間じゃ。神殿に戻らねばならぬ」
「……うん。タオルありがとう」
「どういたしまして。ではな」
大きく手を振って、駆け足で去っていく朧を見送りながら、珀は痛切に思っていました。
――力が欲しい、と。
あの小さな少女を守れるだけの力が。
それは、虐げられることに慣れ、抗うことを諦めていた珀が抱いた、最初にして最大の願いでした。
珀が探し人を見付けたのは、己れに与えられた申し訳程度の部屋の中でした。
蘇芳色の短髪、鍛え抜かれた身体、ともすれば睨まれていると感じる鋭さを宿す瞳は鮮やかな緋色。
炎のようで、それでいて冷静で冷徹なその男の名前は、苑。
珀が無条件に信じられる、数少ない大人の一人です。
「遅かったな、珀。……またやられたのか」
声もかけていないのに気付き、微かな笑みとともに振り返った苑の顔が陰りました。
そういえばまだ服が乾いていなかったと思い出します。朧がくれたタオルもまだ持ったままです。
返答に窮して立ち尽くしていると、苑は近付いてきて頭を撫でてくれました。
珀が無意識によく朧の頭を撫でてしまうのは、苑が原因かもしれません。
「今日は誰だ? 第一王子か?」
すぅっと低くなった苑の声があまりに恐ろしかったので、珀は束の間躊躇いましたが、もとより隠し事が不可能なことは承知していますから、素直に答えました。
「今日は朔兄上と陸兄上だった」
第一王子と第三王子のことです。
珀は五人兄弟で、上から順に、朔十九歳、拓十七歳、陸十六歳、岳十二歳、珀十歳。
全員母親が違い、彼ら兄弟は親族の思惑により王位を争うことになりました。
もしかしたら珀の兄たちは、自分の意志も含まれているのかもしれませんが。
珀は母が亡くなっていることや、生まれ持った容姿のこともあり、玉座から最も遠い場所にいました。珀自身、王位継承権にあまり興味がなかったというのもあります。
今のところ最有力候補は第一王子朔です。
珀からすれば性格最低な糞兄貴ですが、猫かぶりが上手なあの兄は世間受けがたいへん良いのです。
今日まで珀は、彼が国を治めることになんの意見も持っていませんでした。
賛成も、反対も。
「くそ、またか……。あいつらに国を任せるのは不安すぎる」
「うん、僕もそう思った」
苑が、驚いたように珀を見ました。
当然です。
幾度も幾度も漏らされた彼のそういった台詞に明確な答えを返したのは、これが初めてなのですから。
丸く見開かれた緋色の瞳を見詰め、慎重に言葉を紡ぎます。
「苑。僕は力が欲しい」
末とはいえ、珀は王子。
「大層なものじゃなくていい。大切なひとを守れる力だ」
発する言葉には責任が付きまとうのです。
「僕はちっぽけな人間だから、自分と自分の大切なひとたちが平穏に過ごせたらそれでいい」
それは紛れも無い本心で。
だからお前は駄目なんだと、四番目の兄は言うのでしょうか。
「でも力を得ても、兄上が王になることでそれが脅かされるなら」
珀は一端言葉を切り、緊張でかさついた唇を舐めました。
ただ一言を押し出すのに、とてつもない力が必要でした。
「僕は王になるよ」
それでも、自分の目指す未来への最善の方法だというのなら。
例えそれが茨の道だとしても、選ばない理由にはならないのです。
夜が失われた世界で、夜空に浮かぶ月を思わせる黄金の王子は、ようやく自らの道を定めました。
本当は、怖くてたまりませんでした。
心臓は早鐘を打つかのようでしたし、足だって震えていたけれど、目だけは逸らさずに、精一杯の思いを込めて赤の青年に手を伸ばします。
「ねぇ苑、苑は手伝ってくれる?」
「――よくぞ申されました珀様!!」
けたたましい音を立てて、部屋の扉が吹き飛びました。
何かを言いかけた苑が咄嗟に珀に覆いかぶさります。
無残にもひしゃげた扉は、今までの経験に基づく推測が間違っていなければ多分蹴破られたのでしょう。
がっしりとした苑の肩越しに粉塵の立ち込める入口の方を確認。
ショートカットの女性の影が見えた時点で、珀は力無く苑の肩を叩きました。
薄々とは気付いていたのか、あっさり離れた苑に庇ってくれたお礼を言うと、頷いた苑は大股で入口に歩み寄りました。
「遥! お前は何度扉を壊したら気が済むんだ!?」
「悪かったわよ! 嬉しかったんだから仕方ないじゃない!」
むんずと腕を掴まれて引っ張ってこられたのは、桜色の髪を肩につかないくらいのところでシャープに切り揃えた、新緑の瞳の女性。
その身にまとった侍女のお仕着せからもわかるように、ただ一人、珀の側付きになることを厭わなかった侍女です。
……侍女と言って良いのか、判断に困るところはありますが。
「ああ珀様、遥はこの日を心待ちにしておりました」
騎士である苑の腕を容易く振りほどくと、遥は珀の前に膝をつきました。
苑は諦めたように溜息をついて、遥の肩に手を置きました。
「そこの男が何と言おうと、私は」
「待て、遥。……まったく、お前はせっかちすぎる」
「何よ苑、邪魔する気? いいから――」
「――待て、と言っている」
低い、声。
興奮していた遥がぴくりと固まり、残されるのは静寂です。
皮膚が切れそうな沈黙を背負って、苑は珀の目を覗き込みました。
「お前が王になるのは、はっきり言えば難しい。能力云々以前に、何もしてこなかったからだ。わかるな?」
その通りです。
王になるための根回しを、珀はしてきませんでした。
「味方だって少ないだろう。お前自身、血の滲むような努力をしなければならない」
わかっています。
兄たちだって、王になるための努力は欠かしていない……はずです。
浪費してきた時間を、珀は初めて惜しいと思いました。
「茨の道どころではない。先の見えない、暗く冷たい道だ。光だってすぐに見失うだろう」
理解しています。
それがどんなに辛い道であるか、どんなに困難な道であるか。
皮肉にも、兄たちの王位争いを最も間近で見ていたのは珀なのですから。
「お前が想像しているよりもずっと、険しい道程になる。そのくらい大きなことだ」
その通りです。わかっています。理解しています。
懸命にもがいた先にあるものは、玉座ではないのかもしれないのです。
――それでも。
「それでもその道を歩み切る覚悟が、お前にあるか?」
緋色の瞳が、常にない鋭さを秘めて珀を射抜きました。
口の中がからからに乾いています。
それでも。それでも、珀は。
「――あるよ。だから苑、僕に力を貸してほしい」
王になると、決めたのですから。
たかが十歳の子供の決意なんて、信じられるものではないかもしれません。
現に、珀の声は震えていました。
それでも目を逸らすこと、後退ることだけは、しませんでした。
「ぼろぼろになっても、立ち上がれなくなっても、立ち止まったりはしない。這ってでもゴールまで辿り着く。そのために、僕はお前が欲しい」
隣に。
伝えるべきことは、それだけでした。
口を閉ざした珀を、揺るぎなく見詰める緋色の瞳。
永遠にも思える沈黙の果てに――
「参った。俺の予想を越える出来だ」
苑はふっと微笑みました。
張り詰めた空気が一気に弛緩します。
珀は安堵のあまり座り込んでしまいました。
「ちょっと珀様に何してんのよこの阿呆苑!!」
「試すようなことしたのは悪かった。だがそれくらい大事なことなんだ」
遥の平手を甘んじて受け、そして苑はいつも佩いている剣を外しました。
そうしなければいけない気がして、珀はよろよろと立ち上がりました。
それを見た苑が優しく笑います。
跪いた苑に促されるまま、鞘から剣を抜き取りました。
しっかりと握り締め、剣の腹を苑の左肩へ。
「誓え、苑。我が名のもとに」
「――宵暁国第五王子珀、貴方に我が生涯の忠誠を」
珀はようやく頬を緩めました。
「ありがとう、苑」
「お礼を言われるようなことじゃない」
剣を受け取った苑が、だが、と息をつきます。
「もしよければ後ろのあいつを何とかしてくれ」
「苑! あんた私より先に誓わせてもらったんだから言葉遣いくらい改めなさいよ!」
「……改めた方がいいか?」
珀は苦笑して首を横に振ると、ぷんすかしながらもずっと黙って見ていてくれた遥に向き直りました。
「拗ねないで。遥は何も言わなくても力になってくれると思ったんだ」
「もちろんですけど! なんか苑ばっかりカッコイイって言うか……」
「苑は騎士だからね」
「私だって誓います!」
「ありがとう、遥」
そう言って、ふわりと笑い。
極度の緊張で疲れきっていた珀は、ふらりと体勢を崩しました。
「! おっと……」
素早く反応した苑の腕の中に倒れ込んだ珀は、その少し低めの体温に安心して目を閉じました。
◆ ◆ ◆
「……なんであんなことを言ったの?」
ベッドに寝かされた珀は穏やかな寝息を立てています。
遥はその黄金色の髪を梳きながら、傍らの赤の男を見上げました。
「珀様が誰よりも王に相応しいことは、あんたもよく知ってるでしょ?」
「あぁ。経験や駆け引きなんかはまだまだだが、知識や作法はお前が、武術は俺が、遊びと称して教え込んだんだからな。生まれ持った分も含めて、才能という点においては珀に勝る者はいない」
「珀様、実は朔様よりも頭が回るのよ」
「武術もそうだ。俺と剣でまともに戦える奴が、この城に何人いると思っている?」
「あら、もう戦えるの?」
「将来的には俺と互角まで持ってこれるかもしれないな。瞬殺されないだけで大したものだ」
愛おしむように目を細めて、苑は珀を見下ろします。
実は苑がこの国最強と言われる騎士団長を凌ぐ腕を持つこと、遥が鬼才と呼ばれる宰相と張り合える頭脳を持つこと。
知っているのは本人たちと騎士団長、宰相、そして国王陛下だけです。
それは最重要機密であり、密命でもありました。
――珀を守り、育てよ。いつか王として立つために
「ようやくその気になってくれたな」
「ええ。これで表立って動けるわ」
二人は命を受けたとは言え、王になることを強制するつもりはありませんでした。
けれど本人が望むというのなら。
珀を王にするために、二人は動くでしょう。
取りこぼしなく完璧に。
そしてきっと、騎士団長や宰相や国王が手を貸すのです。
ではどうして、珀は国王に嫌われていることになっているのでしょうか。
それを語るには、まず先代の国王の話をしなければなりません。
醜い欲に溺れ夜を手放した、愚かで憐れな男の話を。