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六日目はまだ辺りが暗いうちから神官たちが城内を歩き回り神儀の準備を行っていた。
『禊の洗礼』
穢れを払い、郷里の匂いを払い、血の業を払い、完全に無垢なる存在へと戻る儀式。
帝国風に言えば、花嫁衣装は純白で、といったところか。
よほど大事な儀式なのか、今日は入国した聖都の神官全員、更に帝国の神官も大半が城に来ている。巫女姫はその真っ白な神官服に埋もれながら移動していた。
一応鴉も神官の中に混じっているが、これではよほど、上から見ている方が効果的である。そう、影からはよく見えた。その集団も、姫も、それに――
――禊の洗礼は厳かに行われていく。列をなす神官が大勢並び、讃美歌が大気を震わす。帝都からも教皇まで立ち合った。強烈な白、それでいて無個性な神官服を纏う人間が一人くらい列から外れても、特別気にする者はいなかった。
人のいない道を一人の神官服が歩く。
ゆったりとした足取りで、今にも鼻歌を歌いかねないほどリラックスしている。歩調はそのまま、酷薄な笑みに歪んだ口が開いた。
「殺気をそれだけ当てといて無言はないでしょう。ここは近衛隊の警護が来ませんし……出てきたらどうです?」
「……近衛には、ここの巡回も指示してあるはずだ」
神官服の青年……アノニマスは、突然現れた影にも動じず笑みを崩さなかった。
「聖なる大義を理解する同志は大勢いるのですよ」
それは素晴らしいことで。
影も影で特に動じない。厳格が服を着たような近衛隊長を思い出す。裏切りを予想していたわけではないが、だからといって影の心を波立たせるほどの価値があの男になかっただけである。
「……久しぶりに拝見できましたが、女神さまは相変わらずお美しい。この汚れきった帝国にあっても、あの御方の周りの空気は清らかで」
「女神?」
「ええ、あなたには見えないのですか? あの神々しさ。どこまでも澄んだ天上の青。歴代の巫女姫らとは一線を画した奇跡の御力……女神の、再来を」
青年が道化のように大げさに腕を広げた。
「時が来たのですよ! この汚れきった帝国を、世界を、混沌を今一度正す時が! あの御方は女神が再び地に降り立つための依り代です。この世で最も女神に近しい存在。禊は終わった。もう少しだ。もう少しで聖都と巫女姫は完全に分離するぞ。その時こそ我らの――」
突然熱に浮かされた目で捲し立てていた青年だが、これまた突然言葉を切った。だらりと腕を下げたその姿は、糸の切れたマリオネットを想起させる。
「それなのに、あなたが、邪魔するんですよねえ」
やれやれと首を振った青年はにこやかに言葉を続ける。
「あなた一人、聖なる大義の前に支障はありませんが――」
ひやり、と殺気が頬を撫でた。影は無言で小太刀を構える。青年も優雅に剣を抜く。
「せっかくです、死んでもらいましょう」
*
影が距離を詰めるために投げた針、それを事も無げに青年が剣で弾く、微かな金属音が始まりだった。
影は身を屈めて滑り込むように間合いに入る。それを迎えるように青年が振るった剣を受けずに、後ろに下がって避けてみた。同時に、ほとんど無駄がない影の衣服に一線走る。
鴉ならば誰でも、敵の間合いは相対すれば分かる。青年の緩く弧を描く剣を含めた間合いも、当然目測できた。それでも危険を冒して直接間合いを測ったのは青年があのアノニマスだからに他ならない。
アノニマス――名無し。
アノニマスに関する全ては明かされていない。ただそれが親衛隊トップに座する者に与えられる呼び名であることのみ。もともと親衛隊の一員であるはずなのに、彼の、アノニマスである前後の情報すら不明。
存在しない者。そこにいない者。
それはそのあまりにもアンノウンな実態を指し、同時に能力の高さを指す。情報が少ないのは、アノニマスと戦った者から情報を得られないからだ。彼と対峙して生きて帰ってきた者はいない。
「………………」
絶対に避けきったはずの裂けた衣服。影は一瞬考える素振りをし、今度は互いが一歩踏み出せば近間に入る距離を維持しながら睨み合う。
そんな影の対応を見て青年は笑った。そしてその距離を維持したまま、全身を捻って踏み込みながら剣を繰り出す。届くわけがない……本来なら。
「ちっ」
下段から斜め上に斬りかかってくる軌道を、たしかに見極めていたはずなのに、それは推測をはるかに上回る伸びをした。軌道を読みきれないものを弾くことは難しく、影はまた下がるしかなかった。
けれど追撃は止まらない。
思った以上に運歩が大きい。読みきれない。全身を使う体術を取り込んだ動きは振りも大きく明らかな隙があるが、どうにも推測を上回る剣筋のせいで反撃の一手が出せない。
しかも大振りであっても軸が崩れないのだろう、ありえないほど続く連撃は態勢を立て直すことを許さなかった。
しかし三撃目以降はただ下がって避けるだけという愚行を犯さない。
ギリギリまで剣筋を追い、重心の移動で薄皮一枚切られながら避けては手首を狙って小太刀で傷つけていく。その一方で青年の剣の正体を探る。
仮に素人が見たら、演武と思うかもしれない。
一切の無駄を排除し、効率的に相手を斬り伏せるためだけの剣術は洗練された演武にも似ている。しかしそれはつまり、ひどく危うい均衡状態であることを示す。張り巡らした感覚を、振るう剣を、反射的に行われる判断を。一つでも誤った瞬間に訪れる死。
一方で、その均衡を崩さなければ命のやり取りでは勝てない。
ひゅっと鋭く息を吸い込んで止めた次瞬。影は伏せ床に手をつけて、青年の足を横から思い切り蹴る。そして体勢を崩した青年の持つ剣目掛け、伏せた状態のまま足を蹴り上げた。
さすがに剣を手放せるまではいかなくとも握られた状態には程遠い。そして、握り直す時間を影が与えるわけがなく。
「ぐ、ぅ」
影が立ち上がる途中で見舞わした側刀蹴りは、青年が咄嗟に身体を捻ったことで急所には届かなかった。それでも重い一撃を食らった青年は顔を歪めて距離をとる。
まだだ。
駆け寄りながら毒針を飛ばすが、それは誰もいない柱に当たっただけだった。
「――っ、なるほど少し甘く見ていました」
声の方を向くと回廊の手すりに立つ青年が朗らかに笑う。
「あなたを殺すのは簡単にはいかないみたいです。禊の日に血は好ましくありませんし、このへんで失礼しますね」
「……私から逃げられるとでも?」
「ええ、そうですよ?」
白と黒。夕陽が射し込む回廊に二つが佇む。風が吹き、木の葉が舞って回廊に落ちたときには、もうそこには何もいなかった。
*
耳が風を切る音を捉える。それに混じって弓が引かれるわずかな軋み、ハンマーが鉄を叩く音、あらゆる迎撃を影の耳は聞き取り何の苦もなく避けていく。
だからそれらは言い訳にならない。だが青年との距離は縮まらなかった。一度鴉が逃がしてしまったのも、純然たる速さ故かもしれない。
このままでは体力勝負か。そう思った次の瞬間、建物の上を跳んで駆けていた二人の間に色とりどりの風船が割って入ってきた。帝都のあちこちで開かれている大道芸のパフォーマンスである。
青年の姿が風船の向こうに隠れて見えなくなった。
それは一瞬のことで、けれど決定的な一瞬だった。
視界が開けた時には青年の姿はどこにもなく、影は仕方なくそのまま城に帰ることになった。
わずかでも主に報告することがあるのが、せめてもの救いだった。
***
「――そうか、わかった」
夜。姫の部屋に訪れた王太子に親衛隊の意図を説明した。と言っても影も理解出来たわけではないので、ほとんどアノニマスの言葉を借りてだが。
「それなら予定通り、奴らに巫女姫暗殺をやっていただくことにしよう」
「しかし、いつ動くかは」
「その点なら問題ない」
姫を見つめる視線はそのまま、王太子は言い切った。
「今日が、禊。姫につく聖都の匂いがそそがれた。そして誓いの儀。姫御自ら聖都を離れて帝国の花嫁となることを宣誓する」
滑らかに滑らかに。それこそ水が流れ行くように。
「言葉は言霊。言霊は力。姫が聖都と『分離する』ならば、この時だろう」
それだけ分かれば十分だ。王太子は話をそこで終わらせ、おもむろに立ち上がると影に歩み寄った。影はただそこに立って主の動きを目で追う。
「お前とそこまでやりあえるなら、そいつが使える。おそらくそいつが来るだろう」
「はい」
「怪我は」
「特には。不備がありましたら明日技術局で『修復』させますが」
もう腕を上げれるだけで触れ合う距離まで王太子は近寄り、ようやく足を止める。
意図を察した影が顔を覆う布に手をかけるよりも早く、王太子の手が影の後頭部に伸ばされる。留め具を器用に外してから、丁寧に目隠し布を巻き取っていった。
まずは、一巻き。そしてうなじに現れる補助の留め具を王太子の指が辿って見つけ、これも外す。布を持つ方の腕がまた頭の後ろに伸ばされ、手前に戻って。
それを二度繰り返し、完全に影の顔を覆うものがなくなった。目隠し布はただの布となり二人の間に落とされ、月明かりだけが薄く露になった肌を照らす。
王太子の指があごにかかり、そのまま確かめるように輪郭をなぞっていく。芸術品を検分するように。
実際、それに近いだろうと影は思考を巡らせる。じっと鷹の目に至近距離で見つめられ、深い青は逸らすこと叶わず真っ直ぐに視線を返すしかなかった。
――己の顔は巫女姫の顔。何よりも美しく、大切に保管すべきもの。お役目に最も必要な道具。
「ふむ……まぁ問題ないな」
すいと指が離れ、合わせるように影は従者として不敬にならない距離まで下がった。顔を隠し、ちょうど交代の時間になったので退出する。
頬を這う熱い感覚は、夜の空気に触れて自室に着く前に消え失せていた。