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――まるで、空気に色がついているようだ。
そうつぶやいた王太子は、己のつぶやきに対して片頬を歪めるように口角をあげて笑った。帝都を、城を、己を取り巻く空気も、作り物のようで。そしてその感想はあながち間違ってもいなくて。彼にとってはすべてが台本に書かれた作り物にすぎない。今つぶやいた感想すら、きっと己のものではないのだ。
フルコートドレスと呼ばれる正装だが大綬は掛けられていない。代わりに左肋には星章が輝いていた。その星章を無意識にいじりながら静かに物思いにふけっていた王太子を現実に戻したのは、かたいノックの音だった。
「殿下。巫女姫さまのご準備が整いました」
「わかった、すぐに向かうと伝えろ」
机に置きっぱなしにしていた懐中時計をベストに突っ込み、手袋をはめて、鏡に映る姿を確認する。懐中時計の鎖の位置を整えなおしたのち、部屋を出た。細かい服の規定を煩わしく思いながらも、手を抜くことも他人に任せることも彼は己に許さなかった。許せなかった。
***
色とりどりの紙吹雪が舞いあがり、その色に合わせるように陽気な音楽が奏でられる。そしてそれを打ち消しかねない民衆の大歓声。バルコニーに出た王太子と巫女姫を出迎えたのは非常に騒々しい景色であった。
今日は巫女姫入国三日目、帝国民たちが待ちに待ったお披露目の日である。入国パレードとは異なり巫女姫の顔を隠すのは半分以上透けるベールのみ。そのベールすらやわらかな風に煽られて、時折そのご尊顔が直接民たちに笑いかけた。
下にまで降りてくることはなかったが民衆は大喜びである。ほらご覧、あのすべてを包み込むような笑顔を。今こっちをご覧になられたぞ。ああ本当に巫女姫さまが、我が国に――
けれど何よりも話題にあがったのは、王太子と二人並んだ姿であろう。王太子の愛想のなさなど帝国民は承知の上なので、このような場で自分たちに手を振ったり顔を向けたりしないことは別段問題ではない。むしろやられるとどう反応していいのか悩む。
予想通りほとんど表情も変えず、威風堂々という言葉そのままに巫女姫の隣に立っていた王太子だが、その視線が何度も巫女姫に注がれていたこと。ふっと頬が緩められていたこと。まだいくぶんか冷たい風の盾になるよう位置を変えたこと。あまりにもささやかな、けれどずっとこの国にいて王太子を見てきた帝国民にしてみれば衝撃的とも言えるそれは、彼らを大いに盛り上がらせた。
皆、殿下におかれましては不器用なことでと笑いあった。噂違わぬ美しい巫女姫さまに、さすがの鷹の王子も骨抜きだと。
*
「殿下」
「何だ」
「二時の方向に狙撃手がいます、もう二歩こちらに」
一方バルコニーでは、下とは真逆の乾いた会話がなされていた。
巫女姫に扮した影は、自然体のように振舞いながらも警戒心を最大にまで引き上げて気を配っていた。今の影に課された役目は巫女姫の身代わりと、同時に王太子の護衛もある。しかし巫女姫として立っている以上、いざというとき影は動けない。だからこそあらゆる危険を事前に察知し、鴉の邪魔にならないよう動き、主を避難させなければならないのだ。よほど要人暗殺のほうが気楽であろう役目を、影は柔らかく民衆に笑いかけながら果たした。
――己を構築する何もかもが偽りで、作り物。たとえ聖都の者であろうと見抜けない『巫女姫の微笑み』をすることに、影はもはや「作っている」という意識さえなかった。
様々な思惑や感情飛び交う中、お披露目は終わった。熱狂しすぎた民衆の一部が倒れたり小さな暴動を起こしたりと事件はあったが、鴉が警戒するようなことはなかった。
***
その夜、まだ昼の熱が冷めない時分。大広間では帝国国王と聖都の女王、そして王太子に巫女姫、下に両国の要人が集まり明日の細かな打ち合わせが行われていた。
打ち合わせと言っても聖都側が一方的に『入国の儀』に関して告げるのみである。とうとう結婚という段階になってでさえ聖都はあくまで秘密と神聖を貫き通すつもりであり、帝国は儀式の内容を直前まで知らされることはなく、詳細にいたっては知らされもしない。これに関して反発したのは王太子と鴉のみであった。しかしそれが聞き入られることはなかった。
さて時同じくして城の地下でも密やかに話し合いを進める集団がいた。装束の型は様々であるが一様に纏う色は闇よりも暗い漆黒。鴉である。
「昨日の侵入者ですが、牢で死んでいたそうです。原因は服毒」
瞬間、空気が緊張する。さしもの鴉と言えども不満を隠しきれないのだろう。何せ。
「見張りの近衛は何をやっていた」
「こちらも毒ですね、皆さん仲良く寝ていました」
「寝てしまうまで根詰めるとは、ずいぶん仕事熱心なことで」
侵入者を捕えたのは鴉。けれど拷問以外の城における任務は近衛に優先権がある。向こうが名乗り出れば侵入者を引き渡さざるをえないのだ、鴉は。
そのこと自体に不満などない。まず鴉の存在自体近衛の中でも上位の者しか知らないが、縄張り争いでもしているつもりか対抗心を燃やしているのはその一部の近衛兵だけだ。鴉はただ、与えられた任務を確実にこなすことだけがすべてなのだから。だからこそ出しゃばった挙句に失敗を犯すなど許せるものではない。
「……昨日の侵入者は『彼ら』ではありません。死んだところで何も惜しくはありませんが、問題は意図と経路です」
「内通者の可能性は」
見張りにも毒が盛られていたのだから、食事に入れられたと考えるのが妥当である。そうでなくても牢まで自力でたどり着けるとは思えない。
「そこなのですよ」
リーダー格の鴉がため息をついた。
「私は『彼ら』が関わっていると考えていますが、怪しいのは監視を制限されている聖都の神官たちです。私たちがうかつに探れば聖都側の心証を悪くしてしまう。もし陛下にまで非難の目を向けられたら……」
『彼ら』こそ、鴉が最も警戒するグループである。『彼ら』――すなわち、聖都の巫女姫親衛隊。聖都ではなく巫女姫本人を信望し、過剰な崇拝のもと結成された私団である。戦力は不明ながら『計画』に使える最有力候補として名が挙がった。
しかし聖都側も把握しきれていないとかで、まともな情報はもらえずじまいだったのだ。
鴉が日夜駆け回っているのはこの集団の情報収集のためである。ほぼ完璧に把握できたのだが、そうして明らかになってみるとずいぶん厄介なところにまで潜り込んでいた。神聖の合言葉のもと秘密主義を貫く聖都の、奥深くまで。
聖都が帝国と手を結ぶのは、あくまでも利害の一致。決して親睦のためではない。藪をつついて蛇を出す事態は避けるに越したことはないのだ。
「……近衛の指揮権を我々が握れさえすれば」
突如まとまらない話し合いともざわめきとも言えるそこに、一石投じられた。それは鴉全員が思っていることだ。くだらない内輪もめをなくし、意思決定権を一つにする。それだけでずいぶん動きやすくなる。
「そうですね、できるならばそれがいいでしょう」
あまりにもシンプルな解決策は、けれど権力関係と人の心が絡み合う事情の前に難しいものになる。
近衛隊は重要である任務ほど鴉に任せられることに不満を抱いている。
帝国の誇りをまとう近衛隊は民衆の憧れの的になる。隊士の中には有力貴族の者もいる。
国王は近衛隊をないがしろにできない。
「………………私が」
他にもあれこれ案が出される中、影は口を開いた。
黄金の眼差しを思う。あのまっすぐな光に隠された葛藤を影は知っている。それでも他に手段がなかった。
「私が、殿下に頼んでみる。殿下ならば不可能ではない」
そうして話し合いは、王太子を通して近衛の全指揮権移譲をかけあうという結論に着いた。あとは各自が気づかれない程度に聖都の人間を警戒するしかない、と。