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東の空が白く色づいていく。巫女姫入国の翌朝、幾分か冷え込む空気は帝都全体を薄く包む霧を生み出していた。その霧を引き裂くように街を駆ける三つの影。ひたすら逃げる二つを深海を宿す黒い追撃者は鋭く追い詰めていく。
距離をある一定にまで詰めた瞬間、すかさず仕込み針を飛ばす。前を走る二つのうち一つは崩れ落ちるが、片方は次の建物に跳び移った。しかし一呼吸置いて再び腕を振るえば逃亡者はその場に伏した。
指一本動かすこともままならない強力な痺れ薬に苦しむそれを追いついた追撃者は無感動に眺め、胸元から笛を取り出す。特殊な訓練を積まない人間には聞き取れない高音を出すそれは、鴉たちの連絡笛だ。音に呼ばれて二人の鴉が霧の向こうから現れた。確認するように一人が頷き、それぞれ地に倒れる逃亡者を気絶させてから肩に担いで再び霧の中に飛び込む。影も息一つ乱さず己を待つ主の元へ向かった。
***
「姫様の部屋を襲撃した賊は捕らえました。後のことは鴉が」
最低限の、それでいて最高級の調度品が置かれた一室。王太子の自室で影は膝をついていた。
日も昇りきらない早朝だというのに隙一つない装いで報告を聞いていた王太子は、腕を組んで影を見下ろしていた。完璧な無表情で、ただその鷹の目だけが冷たい怒りに燃えていた。
「それで」
低く平淡な問いかけは、それゆえに主の怒りをよく表していた。声を荒げるわけでも常より低いわけでもない。しかし王者たる素質はただ在るだけで全てを圧倒する。放つ一言は相手をひれ伏させる。それこそが影の主、彼女が唯一地に頭をつける相手。
「お前は私の姫を護衛する立場でありながら、不安で怯える姫に迫る危険と恐怖を目前に突きつけた、と?」
巫女姫は鴉が警護している。これに関しては近衛隊とひと悶着あったのだが王太子の一喝で半ば強引に決まったことだ。そして襲撃があった朝方、部屋に最も近い位置で警護についていたのが影だった。巫女姫にけがなど負わせはしなかったが、窓が割られて危うく侵入するところまで許してしまったのが事実である。
弁明を許さない追及に影は頭を下げるしか出来なかった。そもそも弁明する余地などない。
「……申し訳ございません」
「謝れば済む問題か。舌の根も乾かぬうちに失態を犯すとは。父上に誉められて付け上がったか? お前の主は誰だ」
「アウスレーゼ殿下です」
問いかけに影は間髪入れず返した。項垂れる顔を上げて主に向けた。睥睨するような眼差しをくれる鷹の目を、深海の青が挑むように見つめ返す。
「……ならば、私の名に恥じない働きをしてみせろ。次はない」
すいと視線をそらされる。王太子はゆるく首を振り怒気を完全に静めた後、改めて影と向き合う。影は再び顔を下に戻した。それからようやく報告の続きへと入る。
「賊の正体は」
侵入など当然考えられることで、それ自体はさしたる問題ではないのだ。王太子や鴉が警戒しているのは賊の目的だ。宗派ごとに信条が異なるので賊だからと一括して切り捨てることは出来ない。『計画』の妨げになるのか、あるいは利用できるのか。それこそが本題である。
「砂漠の民でした、永久楽土の……」
「『とこしえの楽園、女神の涙は奇跡のオアシス』か。巫女姫の死を求めていない以上、不要な一味だな。事が終るまで牢に転がしておけ……それにしても」
影がいくら待っても切れた言葉の先はなく、ひらりと手で下がるように命じられた。鷹の目はすでに思案の先を見つめており、頭を下げ音もなく退出する影を追ってはいなかった。
**
巫女姫の部屋に向かう影の深海の瞳は暗い色を落としていた。先ほどのやり取りを思い出すだけで自分の喉を掻っ切ってしまいたくなる。主の期待に応えられなかった、裏切ってしまった。この世で最も大切な人を。
力不足な自分に苛立ちが増す。表層に出すほど愚かではなかったが、瞳の青はどんどん彩度を無くしていった。
目的の部屋の前まで辿り着き、一度深呼吸をする。帝都を駆け巡っても乱れなかった息は、少しだけ荒くなっていた。控え目にノックをし、鴉の識別番号を口にする。出迎えた鴉と入れ替わって部屋に入った。
部屋で待っていた姫の表情は、元より白かった顔から更に血の気を無くして真っ青だった。目の前に置かれた、気持ちを落ち着かせるスイートオレンジの紅茶に口をつけた様子もない。それを見て、ようやく影は彼女に対して罪の意識を持った。
――何たることか。失態を犯したことばかりに目を向け、それまで一度もこの姫を案じなかった。守るべき御方よりも自分の気持ちを優先していたのだ。瞳から、一段と彩度が失われた。
姫が自分を認めて立ち上がろうとするより前にその場に平伏し、不手際を詫びた。僅かな衣擦れの音から姫の動きを把握しつつ、ただ静かに咎めを受ける心の準備をして待った。
そっと姫は影の前に膝をつく。ほっそりとした指が影の顔に触れても影は身動ぎ一つしない。
「……顔を。顔を上げてください」
鈴を転がすような軽やかな声が耳朶を打つ。影が顔を上げれば近距離で同じ顔が互いに向き合った。
けれど、全く違う。
影はそう思った。自身を映す、恐怖を滲ませながらも慈愛に満ちた蒼天が輝く。その美しさは、どんな穢れも寄せ付けないほど眩しかった。
「……けがをしていますね」
白い指が床についた手の甲をなぞる。何てことはない。賊を追っている最中、木の枝で軽く切っただけだ。お披露目の当日までにごまかせる程度には治る。最終手段として技術局に言えばどうにでもしてくれるだろう。影にとって自分の身体は巫女姫のかたちを成す部品でしかない……皮膚は「貼りかえられるもの」だ。
「いえ、大したことでは。姫の代わりを務めるのに支障はありません」
安心させようとそう告げたのに、姫は痛ましげに眉を寄せた。影は理解出来なかった。本当に問題ないと言葉を重ねる。けれど姫は一層顔を歪ませた。
「…………ごめんなさい」
小さな口から零れた謝罪は泣き声に近かった。突然のことに、影は表情こそ完璧なポーカーフェイスを保っていたが珍しく狼狽した。本当に訳が分からなかった。そして次の瞬間、今度こそ影は驚きに目を見張る。
姫の手が傷口に翳されたかと思うとその部分が熱を帯び、瞬きの間に傷が完治していた。痕も全くない。
女神の生まれ変わり、奇跡の御力。
言葉が出なかった。話には聞いていたが実際に目の当たりにするのでは事情が違う。お礼の言葉を忘れて影は己の手をまじまじと見つめてしまった。
そして驚愕と困惑を処理しきれない影を、姫の細い腕が包み込んだ。清廉なフリージアの香りに、影は抱き締められていると知る。
「ほんとうに、ごめんなさい。わたくし……わたくしのせいで、貴女は……」
久しぶりに触れる人の温もりはひどく懐かしかった。胸が熱くなる。何故だろう。情など、もう思い出せないほど遠い昔に捨てたはずなのに。
あの日自分は教皇ではなく王太子を主と定め、鷹の人に全てを捧げた。かつての信仰心などもう残っていない。巫女姫だって、王太子から命じられたお役目だから守るに過ぎなかった。
……それでも。今はただ、この優しすぎる姫に笑っていてほしいと、心から思った。
陽の光が部屋に入り込み始め城内も帝都も活気づいていく中、その部屋だけは穏やかな静寂に満たされていた。