<1>
雪は峻嶺に残すだけの、暖かな春の陽気に包まれた帝都は賑やかだった。あちこちに露店が並び、活気に満ちた人々の声が飛び交う。ふらりと通りに出れば「おめでたい」「聖都」「神の怒りが」など様々な、けれどある一つの話題に関する単語が耳に飛び込んでくるだろう。
冬明けを待たずして全世界に発表されたオスティマとミュレイヒェの結婚。それは当事国のみならず世界中に衝撃を与えた。
帝国オスティマと言えば、今では圧倒的な権威を誇る大国である。世界の経済事情・政治事情にまで及ぶその影響力は計り知れない。しかし、人々が注目したのは帝国だからではなかった。
聖都ミュレイヒェ。女神信仰の総本山である。
この世界に宗教は数多くあれど、女神信仰は全世界共通のものだった。数ある他宗教の全ても、元を辿ればこの信仰の解釈が枝分かれしただけの話とされている。各宗教がそれぞれ自身こそ正統と主張しても聖都が元祖であることに反論する声はない。
誰でも知っている、女神と世界創生の話は要約すれば次のようなものだ。
『この世界が混沌に沈んでいた頃、一人の女性が地に降り立ち今の世界を形成した。その女性は強大な霊力と、神々に特別に愛でられて造られた美貌の持ち主だった。彼女は神から遣わされた地上の女神であり、土の民、つまりこの世界で生きる人間全ての始祖である』
そして彼女が最初に降り立ち、眠りについた地がミュレイヒェ。今もなお彼女の力は彼の国で息づき、絶対的な神聖を保ち続ける。
これだけならば科学が発展し、魔法も不可思議な存在も夢物語となった現代では一つの信仰で終わっただろう。しかし聖都には、女神の存在を裏付けるような事実があった。
聖都を統べる一族は女神の直系とされているが、数世代に一人は手の甲に紋様を宿して産まれる女児がいた。そして何かしらの超常現象……主には癒しの能力だが……を引き起こす力があった。
彼女たちは女神の生まれ変わりと言われ、巫女姫として崇められた。
そして歴代随一と噂されるのが当代巫女姫、ロゼッタ=ラクアイアである。
その巫女姫が結婚、しかも他国に嫁ぐなど考えられないことだった。巫女姫は存在そのものが神聖。不可侵の領域を侵すことは暗黙の了解のうちに禁忌とされてきた。
だからこそ、今回の結婚は衝撃的なものである。この結婚によって帝国が得る力の大きさに危機感を抱いた者もいよう。しかし大半の者は神々の逆鱗に触れるのではと危惧した。それだけ女神信仰は絶対的なのだ。一部の熱狂的な信者は神への冒涜と言って憚らなかったし、わざわざ山を越えて帝国にまで直訴しに来た輩もいるぐらいだった。
もちろん帝国の民衆も不安を覚えたが、それよりも巫女姫が自国に来ることを単純に喜んだ。のぼりを立て、記念品が売られ、酒場ではめでたいめでたいと酔っ払いどもがお祭り騒ぎである。
このように、良くも悪くも二国の結婚は大きな反響を呼んだ。
***
帝都が連日お祭り騒ぎで賑わう一方、城では巫女姫を迎える準備で大騒ぎだった。複雑な力関係ゆえに城では滅多に見かけない神官たちが、大臣やメイドに混じって城内を駆け回る様はなかなかに貴重である。その貴重さを感じる余裕のある者はいなかったが。
そしていよいよ当日になった今日は特に城全体がそわそわとしていた。初日はただ入国パレードがあるのみだが、だからと気が抜けるわけでもない。何よりとうとうあの巫女姫をこの目で見られるのだ、浮足立つのも致し方ないものなのかもしれない。
ちなみにお披露目は二日後。さらに一週間はミュレイヒェ側の段取りとやらを踏んだ後に正式な誓いの儀を執り行う。実に十日間にもわたる歴史的に重要な行事が始まるのだ。
さて、城が昼に訪れる巫女姫の為に奔走している時、影は近衛隊長と共に応接間にいた。国王と王太子、そして四人の神官を従えたミュレイヒェの女王と、昼に到着とされているはずの巫女姫本人が上座に座っていた。
「……何とか無事に入国は出来たな。気付かれた様子はないな?」
「おそらく。反対派の信者たちが多く入国しており全てチェックしていますが、特に動きがあったという報告は受けておりません」
「そうか、まずは上々だな。あとは入国のパレードか……最初の任務だな」
影は近衛隊長と国王のやり取りを頭を下げて聞いていたが、己にかけられた言葉に顔をあげる。そして小さな会釈で返事を済ませた。不敬にもなりうるその素っ気なさに国王は鷹揚に笑う。
影が無愛想なのは常からで、十年近くもそれに付き合っているのだから今さら気にしていないのだろう。まあ横の生真面目な隊長は何か言いたげであるから、王としての器の大きさなのかもしれない。どちらでも影にはよかった。影にとって周囲のほとんどは気に掛けるものではなかったから。
しかしその影も、次に投げ掛けられた言葉にはすぐさま最上の礼をとった。
「お前は巫女姫の名を借りるのだ。くれぐれも失態を犯すな」
王太子の、主の命令をしっかりと胸に刻み付ける。
そして一瞬だけ巫女姫の方に顔を向ける。二人の顔は瓜二つで、ただ青い瞳の彩度だけが異なっていた。凪いだ海を思わす深い青の瞳が、不安げに揺れる晴れた空色の瞳に対して安心させるように少しだけ細められる。
「はい、全ては滞りなく」
そしてもう一度礼をしてから、影は静かにその場を退出した。
***
広々とした廊下に一人分の足音が響く。近衛隊長の位を持つ男が背筋を伸ばし一人歩いていた。廊下の向こうでは準備のざわめきが男を待っている。歩きながら男は唇をほとんど動かさずに「独り言」を呟いた。
「……過激派で知られる南の民が大勢入国している。すでに城下では騒ぎが起きているらしい。今日動きがあるとしたらそのあたりかもしれないな」
近衛隊が危険視しているのは、国全体が巫女姫信仰を熱狂的に掲げている招待国である。歓迎だの護衛だのの名目で各国の代表に隊士をつけていても、もし何らかの動きがあった場合隊士たちでは止められないだろう。貴賓に剣を向ければ国際問題に発展してしまう。
反対派の一般信者たちにも目を光らせているが、近衛隊の大半を国の応対に割いているのが現実である。
「しかし暴徒と言えども一般信者を傷つけては心証に悪い。殺しだけは避けなければならない」
そこで言葉は途切れ、再び足音だけが廊下に響く。そのほかは相変わらず物音一つ聞こえない。そのうち人々が行き交う回廊に出た。男は一時、歩いてきた廊下を振り返る。外から入り込む光、それによって作られる影。他には何もなく、不気味なまでに静謐な景色が男を見据えている。
「鴉、巫女姫様の影か……気味が悪い」
最後に独りごちて、自身の任務に向かった。
***
結論だけ述べると入国パレードは無事、盛大に行われた。巫女姫をこの目で見ようと通りには人が押し寄せ、けが人も出たが近衛隊が危惧するような事件は起きなかった。御簾越しに拝見できた巫女姫はまさしく女神の如く美しい方だったと、酒場で人々は盛り上がった。帝都民の一部で暴動などを不安に思っていた者も、平穏無事に終わった一日に感謝とともに杯を挙げることができたのである。
しかしそれはあくまで、表向きの話であった。
「……手練れのナイフ使いか、山向こうでは投げナイフを得意とする部族がいなかったか」
「しかしあの地域はこの手の毒を調合できる材料がない」
「やはり『彼ら』が動いたのでは」
「もし『彼ら』だとしても狙いは?」
「警告のつもりでしょう。ナイフに塗られた毒も大したものでは」
城の地下にある大部屋では黒装束の集団が静かに話し合っていた。面や「目隠し」と呼ばれる布で隠された彼らの顔は判別できない。
その中で、影はひたすら沈黙を貫いていた。中央の台に乗せられたナイフが、深海の青に何の感慨も見当たらない穏やかさで映されている。
パレードの最中、一時だけ花火が上がった。花火は火薬。つまり武力。いまだ争いが絶えないこの時分には金銀よりも貴重なもので、どんなに豊かな国でも花火は珍しかった。
そして民衆が空に目を奪われたその瞬間、二本の投げナイフが警護と御簾をすり抜けて巫女姫を乗せる御輿の中に襲いかかってきたのだ。
しかし中に乗るのは巫女姫の影であったし、その周囲には帝国が誇る精鋭部隊――通称『鴉』――が控えていた。被害はなく、また覚られることもなく、犯人はすぐに捕まった。唯一の失態と言えば、問い詰める前に犯人を死なせてしまったことである。犯人は鴉に追い詰められるや否やあっさり自害してしまったのだ。
「何の情報も引き出せなかったのは痛手でしたね」
「それが信者の厄介なところだ。一般人だろうと巫女姫様のためなら簡単に死んでくれる」
「『彼ら』と断定するには材料が欠けるな」
「『彼ら』だろうと一般信者だろうと……」
「もういいだろう」
それまで黙っていた影が議論に終止符を打つ。鴉で年若な部類に入る影は、しかしまったく臆することなく話し合いを切り捨てた。
「『計画』で大事なのは誓いの儀。鴉のすべきことはそれまで巫女姫をお守りし、より正確な情報を集めるだけ。降りかかる害は払えば済むことで、確たる材料もないことを推測するなど無意味だ」
では、私は護衛に戻る。そう言って影は部屋から消えていった。それに続き、鴉たちも闇に紛れていく。後にはただ、二対のナイフが残された。