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荘厳な鐘が帝国中に鳴り渡る。
オスティマ帝国。同盟国も含めれば世界の実質半分を掌握する地上の支配者である。
たった一代で一国をここまで押し上げた獅子王と名高いオスティマの国王は、その最後を飾るにふさわしい事を成した。世界中のどの文献を漁ろうともそれは偉業と称えられている。
その偉業を知らなければ彼のことは語れない。
その偉業を語るならば知らなければならない。歴史の裏に埋もれた、一つの或る物語を。
物語の始まりは、一人の少女が城に訪れたところからである。
父に手を引かれる少女はまだ幼女という歳であるが、その面立ちは理知的であり、深い青色の瞳は凪いだ海を相手に思わせた。
少女の名はダリア。ダリア=ディ=ドーラ。代々教皇に仕える貴族ドーラ家の娘である。先日六つの誕生日を迎えたばかりだった。
初めての登城とあって少女は心を躍らせた。天井まで隙間なく複雑な彫刻で埋め尽くされた柱や、庭師が毎日丹精込めて整えている薔薇園は、少女を魅了するに足るものであった。
しかし少女は心のままに駆けることはしなかった。そっと父を見上げる。険しい顔をして、朝から一度もこちらに目をくれない父の様子から、子供心に何かを察したからだ。ドーラに名を連ねる者として、相応しく振る舞わなくてはならない。
誰の案内もなく父が少女を連れてきたのは人気のない通路を進んだ先にある小部屋だった。父は一言も発することなく部屋の角に立ち、少女もそれにならう。
――ダリア。
そして少女がいい加減暇を持て余し始めたころだった。眠気と戦う合間での呼びかけに、少女はすぐに反応できなかった。
「……ダリア」
「あ、ごめんなさいお父様。ちょっとぼーっとし」
「お前さえ望むならここから逃がしてやることができる」
痛いほど少女の肩をつかみ、早口で告げる父は何かを恐れているようにも見えた。
対して状況がわからない少女は物騒な物言いに首をかしげる。何から逃げるのだろう。
「お父様?」
「あの御方を裏切るのは……しかしお前さえ望むのなら、私は」
苦しそうに顔を歪ませる父からは普段の厳格さなど欠片もない。言いながらも迷う父の言葉は、それ以上続かなかった。常人よりもはるかに優れた聴覚を持つ少女の耳がこの部屋に向かう音を拾ったからだ。
「お父様、誰かがこっちに来ます」
少女のそれを受けた父は一瞬だけ絶望に瞳を曇らせたが、次には普段の彼に戻り、床に平伏した。少女も隣で頭を下げさせられる。
そしてタイミングを計ったかのように扉が開かれた。数人が黙って入室してくるのを、少女は耐え切れず目線を上げて見てしまった。そしてそのまま固まってしまった。
部屋に来たのは少女の教育係にあたる神官と、驚くことに国王とその一人息子、そして教皇その人であった。
政治と宗教が切り離されて長いが、宗教の力はいまだ国を動かすほど大きい。ゆえに二つの力関係は複雑であり、そのトップが並ぶなど異例の事態なのだ。
しかし少女の凪いだ海に写るのはそれではなかった。
少女よりも二つ三つほど年かさの少年が黄金の眼差しで少女を睨み付けていた。そのあまりにもまっすぐな光に少女は一時思考すら放棄した。
「ダリア、控えなさい。御前ですよ」
教育係の窘める声に慌てて姿勢を正すが、国王も教皇も気分を害した様子もない。
それよりも話を進めろという始末である。
少女はここでようやく国王と教皇がそろっていることに疑問を持つも、その疑問は次には頭から飛んでいくことになる。
教皇が少女の前に進み出て少し微笑みかけた。
「ダリア、幼い貴女には酷と思いますが貴女の『お役目』が決まりました」
王家ではなく教皇に仕える貴族には一人一人にお役目が課される。それは神官としての務めもあれば、次期教皇の世話係や裏の仕事など様々である。
少女も子守唄の代わりにお役目についてずっと聞かされてきた。お役目を受けてそれを果たすことが何よりも素晴らしい事であり、自分の存在意義なのだと。
だからお役目と聞いて少女は単純に喜んだ。父の様子などもう心の片隅にも残っていなかった。
物心つく前から刷り込まれた価値観は、幼い少女にとって世界の摂理にも等しかった。
たどたどしくも教会での正式な印を切って頭を垂れる。少女の額に教皇の指先が触れ、部屋の空気が緊張した。耳鳴りを起こしかねない静寂の中、「それ」は告げられた。
『ダリア=ディ=ドーラ、我が名においてアウスレーゼ=ディ=オスティマ殿下の王妃の影を命じます。貴女に女神の加護があらんことを』
すぐに教皇は下がり場の空気がもとに戻るが、少女だけは呆けて体勢もそのまま動けなかった。言われたことの意味がよく分からなかった。
見かねた父が少女の前に膝をついて肩に手を乗せ、言い含めるようにゆっくりと口を開く。
「ダリア……お前のお役目は王妃の身代わりだ。どうか国のために死んでくれ」
実の父からの宣告も、少女にはどこか遠くのことに思えた。早く承諾の意を示さなければならないのに、迷路に迷い込んだように言葉は何も出てこない。
しかしそれも少年が発言するまでのことである。
それまで国王の斜め後ろに控えていた少年が前に出て少女を見下ろす。相変わらず苛立ちや不機嫌さがにじみ出る少年は幼げで、しかし絶対の王者の気質を備えていた。
「ダリア。お前は私の姫のために死ねるな」
それが、少女が全てを懸けて仕える主から賜った最初の命令だった。
……そしてダリアと呼ばれる最後になった。
静かに、黄金の眼差しに導かれて、少女の心は定まる。
「…………ダリア=ディ=ドーラ、お役目ありがたくちょうだいいたします」
その時その瞬間、ダリアはダリアではなくなりただの『影』となった。
名前を捨て、家族を捨て、顔を変えた。あらゆる毒の扱い、武術に暗殺術などを乾いた土が水を吸い上げるように会得していった。同時に指先の動きまで、今は遠くの国で暮らす姫の癖を仕込まれる。
――そうして時は流れ、雲は切れ、花は芽吹いては散り、運命の歯車は組み合わさっていく。
その年は歴史的な年となろう。
帝国オスティマと聖都ミュレイヒェの結婚。帝国からは鷹の王子が。聖都からは歴代随一の巫女姫が。
その結婚は歴史的な結婚となろう。
裏でうごめく陰謀も、そこで消えていった一人の少女の命も明かされることはなく。
その歴史は後世にまで語り継がれることになろう。
文字列の間に、誰も知らない想いを潜ませながら。
荘厳な鐘が鳴り渡る。
帝都では、十九になった王太子の結婚話で盛り上がっていた。