プロローグ
……名を。誰かに、名前を呼ばれた気がした。
寝台と丸テーブルが一つだけある簡素な部屋。寝台ではなく床に座り込んでいた少女がゆっくりと目を開けた。そこから現れたのは深淵を湛えた、どこまでも深い青。
二度三度とまばたきを繰り返してから少女は立ち上がる。まだ幼さの抜けきらない顔と、年齢にそぐわない落ち着きのある眼差しと雰囲気。それらのアンバランスさは絶妙な均衡で少女の中に存在していた。
軽く頭を振ってから着替え、背を流れる墨色の髪を一つに束ねた。装具もほとんど無意識に身につける。窓に映る己を念入りに眺めて崩れているところはないか確認する。この部屋に鏡はなかった。
そうして身支度を終えると、少女は正面にある扉ではなく寝台の横にある隠し扉に身を滑り込ませた。厚い扉の向こうは完全な暗闇だったが、少女が臆する様子はなかった。
扉を慎重に閉めて、少女は部屋から出ていく。扉は最後に少しだけ金具の音を立てた。その音だけが、少女が目を覚ましてから部屋を出るまでの間で唯一、部屋に響いた音だった。
*
暗闇の中、速度を全く落とさず向かった先は大理石の応接間だった。冷え冷えとしたそこは今は壁の絵画以外に装飾はなく、踏み台の上にも何もない。少女は自分の定位置まで進んで直立の体勢をとる。
しばらくすると鈴が擦れ合うような音を少女の耳は拾った。小太刀を前に置いてすぐさま膝を付き、頭を垂れる。まとめられた美しい髪が床を這うように広がっていった。
それを待っていたかのように奥の扉が開き、新たな来訪者たちの歩く音が静寂な空間を破った。うち三つが踏み台を上がり、主を得た空間はピンと張り詰める。
「さて……とうとうこの時が来たわけだが、」
「顔を上げりゃ」
語り出した低い声を遮るように凛とした声が少女に投げ掛けられた。
少女は言われるまま顔を声の主へと向ける。声の主はいくばくか年を重ねた美しい女性だった。女性は少女の凪いだ海を湛える青を見て鼻を鳴らす。
「ふん、なるほどな。確かによう出来とるわ。この国の技術者は優秀じゃの」
まるで物に対する評価に、少女は全く動じなかった。同じくその場にいる他の人間も、誰一人として眉をひそめることもしなかった。代わりに女性の隣に並んだ男が口を開く。
「……あとで技術局に伝えよう、彼らも喜ぶ」
「しかしこの瞳は、我が姫に比べてちと暗いな。あの子はもっと綺麗な空色をしておる」
「よほど注意して見なければ分からん。第一そんな間近で見られることなどない」
まだ何か気にくわなそうな様子の女性を素っ気なく切り捨て、男は少女に顔を向ける。
「お前は私たちを恨んでも致し方ないというに……長い間よく励んでくれた」
どこか感慨深げに呟く男だが、その後ろに立つ男の面影を宿す少年は対照的だった。憎々しげに片頬を歪めて口を開く。
「これからがお役目の時だ。お前は優秀だと聞いた。その能力、十二分に発揮して役目を果たせ」
その言葉に少女はただ、流れる動作で頭を下げる。
彼女自身の特徴的な、凪いだ海を思わせる瞳と同じくその心に揺れも迷いもなかった。
「殿下の御心のままに」
春の初め。雪も溶けきっていない、ある朝の出来事である。