愚か者は嘘に乞う
降りしきる雨の中。
とある都市の薄暗い路地の隅に、一見ゴミと見間違えるほど凄惨な格好をした男が倒れていた。
帰宅途中に偶然それを発見した女は、今は気を失っているその男をひとしきり観察した後に、ひとつ大きなため息を吐いてから、自身の華奢な背に負う。
見た目にそぐわぬ力強い足取りで、彼女は男を連れ帰路へと着いた。
男が意識を取り戻して、まず最初に覚えのない白い天井が目に入る。
眼球だけを動かして周囲を観察すると、彼が寝かされているソファーの正面にあるテーブル横で、見知らぬ女がカップをすすりながらくつろいでいた。
腰近くまで伸びている黒髪をひとつにまとめた女は、男の視線を感じたのか、素早く振り返る。
穏やかな印象のタレ目に少し厚い唇が魅力的な日本人と思わしき美女だったのだが、その事実は、男の身の内に何の感情ももたらしはしなかった。
「あら、ようやく目が覚めた?
……って、日本人に英語が分かるのかしら」
そう言って、彼女は自分の頬に手を当て小さく首を傾げた。
女に話しかけられた男は、サッと身を起こして、警戒する様な空気を醸し出す。
ただ、その顔に表情は一切見られず、彼女はまるでサイボーグでも相手にしているかのような不気味な印象を抱いた。
そんな男の態度を無視して、女は先ほどと変わらぬ口調でお喋りを続ける。
「覚えてる?
あなた、六番街の路地裏で倒れていたのよ。
それも使い古した雑巾みたいにボロッボロの姿で。
この辺りで同郷の人を見たのは久しぶりだったし、何だかワケありっぽかったから警察に届けずに自分のマンションに連れて帰っちゃったんだけど……でも、脱がしてビックリ。
服はあれだけ酷い事になっているのに、身体はかすり傷程度しかついてなかったのよ。
これって、不幸中の幸いってやつなのかしら?
思い出の品なんてものだったら悪いし、服は一応捨てずに洗濯して保管してるわ。必要なら繕うけど。
それと、今あなたが着ているのは、昔の男の服。
あんまり奥の方につっ込んでたから、出すのにすごく苦労しちゃった。
ちなみに、あなた丸一日寝っぱなしだったのよ。
結構、心配したんだから。
あっ、そうそう。悪いけど、運転免許証、勝手に確認させてもらったわ。
だって、身元も分からない人を家に上げるのは、さすがに……でしょ?
仮にも女の一人暮らしなワケじゃない。
だから、怒らないでね、川野さん?
もちろん、荷物は全部そのままよ。
後でちゃんと確かめておいてちょうだいね。
っと、忘れてた。
私はカエデ。名字は四月一日って書いてワタヌキね。
あっは、冗談みたいな名前でしょう。自分でも笑っちゃう。
年齢はヒ・ミ・ツ。ま、少なくとも十代じゃあないわね。
……で、あなたは、どうしてあんなところで倒れていたの?」
息つく間もなく、怒涛のように言葉を紡ぐ彼女に軽く毒気を抜かれたのか、男は表情を変えぬまま空気を少しだけ緩めて答えを返した。
「覚えていない…………何も。
俺は川野という名なのか……?」
このセリフを聞いて、カエデは口に笑みを作ったまま目をじわりと見開いた。
それから段々と眉間に皺を寄せ、最終的に愕然とした表情へと変わる。
小刻みに震える指を男に向けながら、彼女は信じたくない思いで問いを投げかけた。
「まさか………記憶喪失?」
~~~~~~~~~~
拾ったからには最後まで責任を持つべきであるとして、男の面倒を見始めたカエデだったが、時が経つにつれ、純粋に彼との生活を楽しむようになっていた。
男は終始、無言無表情を貫いていたが、そのおかげで彼女も余計な気を使わずに済んでいたし、今まで一人で生活していたことを考えると、話を聞いてくれる相手がいるというのは、それだけでありがたい。
男の方も、それこそ初期はカエデが傍に近付くことすら厭っている様子だったが、野良猫を手懐けるかのごとく絶妙な距離感と引き際でもって接して来る彼女という存在に、日々着々と慣らされていた。
「今日の夕飯は、カエデ特製チャーハンでーす。
オイスターソースと醤油で味付けしてね、パリパリのレタスを乗せて食べるの。
普通のチャーハンとはまたちょっと違ったこってり具合とレタスのさっぱり感が絶妙に絡み合って、どれだけ食べても飽きが来ないんだから。
調味料だって、わざわざ日本から取り寄せたのよ」
「ねー、最初以外で川野さんが横になってるところ見た覚えがないんだけど。
あなた、いつ寝てるの?」
「ただいまー。
もーっ。聞いてよ、川さーん。
今日、おんなじ電車に乗ってた時代遅れのモヒカン男が最っ低でさぁ。
そいつ『おブスは焼却だー!』なんてライター持って女学生にカラんでたから、ホンット頭に来ちゃってね。
だから、その場でボコボコにのして警察に突き出してやったわ。
まったく、女の子にブスだ何だって言う前に、自分の顔を鏡で見てみろってのよね!」
「あーっ、そこそこ。
川さんて、ホント耳掃除うまいわよねぇ。
一度この味を占めたら、もう自分でなんて出来ないわぁ」
「一緒に寝てなんて無茶は言わないから、眠るまで手を握っててくれない……?
お願い、ちょっとだけでいいの。
とても怖い夢を見ちゃって、一人で眠れそうにないのよ」
「うふふふ。実は整体師の資格を持つカエデさんが正しいマッサージの仕方を伝授してあげましょう。
ううん、お礼なんて良いのよ。
あなたがそれを覚えて毎日仕事でクタクタの私を揉んでさえくれれば」
「川ちゃんってさーぁ。
死角に入るとすぐ殺気立つし、利き腕は常に空ける癖なんかついてるし……実は、物騒な職業の人だったりしてーぇ?
……なんてね。冗談よ、冗談。
ところで、記憶はまだ戻らない?」
「私ねぇ、夢があるの。
いつかお金持ちになって、世界中に会社とかお店とかいっぱい経営する夢。
それでね。働きたくても働けない様な、社会的弱者の人たちを沢山雇うのよ。
偽善っぽいかもしれないけど、私はこの無情な世界から少しでも不幸を減らしたい。
草の根を食んで生きるような、あんな惨めな思いは……って、何言ってるんだろ。
だめだわねぇ、酔っ払いは」
「……真夏にだって、コタツが欲しい日もあるわ。
だって、寒くて寒くて堪らない。今にも身体が、心が、凍えそうなの。
だから……ねぇ、川ちゃん。
今だけ私のコタツになって……温めてよ……」
「ハッピーバースデー、私ー!
っと、はしゃいでみたところで、正直この年になると嬉しいものでもないのよねぇ。
川ちゃんが無反応だから、一人ではしゃいでいると余計に侘しいわ。
とりあえず、ケーキ食べましょうか」
「あのね、川ちゃん。
川ちゃんさえ良かったら、記憶が元に戻っても一緒に…………ううん、やっぱり何でもない」
日々はめまぐるしく過ぎて、カエデと男が出会ってから、早半年が経とうとしていた。
相変わらず無表情を崩さない男ではあったが、近頃では極稀に彼女の問いに言葉を返す姿も見られるようになっている。
これは、そんなある日のこと。
いつもより少しばかり思いつめた様な表情をしたカエデが、突然、とある提案を男に投げかけた。
「ねぇ、川ちゃん。私と結婚しない?」
正面から真剣な面持ちで己を凝視してくる彼女に僅かにピントを合わせ、男は抑揚のない声で呟くように応える。
「必要ない。女も……男も」
途端、カエデは、ヒュッと音を鳴らして息を呑んだ。
顔から血の気が失せ、体は大げさに震えている。
力の入らない手をゆっくりと口に当て、彼女は言った。
「川ちゃん……あなた……一体、いつから私が本当の女じゃないって気が付いていたの」
そう問いかける彼女の声は、実にか細かった。
カエデは酷く傷ついた様な悲痛な表情で瞳に涙を滲ませている。
しかし、男は彼女の様子を全く意に介さず、淡々と問いの答えを返した。
「一目で気付くだろう。
男と女では、骨格が違う」
誰がどう聞いても異常な発言だが、思考が乱れに乱れている今の彼女には、その事実に至れるだけの余裕がない。
元男だというだけで、それなりに仲の良かった知人も、親友だと思っていた女友達も、将来を約束した恋人も、みんな例外なくカエデから離れて行った。
ただ、生まれた際の性別が男だったというだけで、彼らはまるで彼女が犯罪者であるかのように蔑んだ目を向け、騙されただの気持ち悪いだのと辛辣に罵ってくる。
それまでに築いてきたものは何だったのかと泣き叫びたくなるほど、互いの関係は一瞬にして粉々に砕け散った。
そんな過去を脳内でフラッシュバックさせながら、カエデは男の腕に縋りついて、言い訳めいた言葉を並べ立てる。
「あのっ、でも、でもね。心はもちろん、身体だって戸籍だって、ちゃんと今は女なのよ。
ただ、子供が産めないだけで……それだけで……っ」
ふと、見上げた先にある彼の光なき瞳を視界に入れ、彼女は己の心が急速に凪いで行くのを感じた。
どこまでも黒く深いその目の奥には、自身の恐れる侮蔑の色も、求めてやまぬ情愛の色も、けして見えはしない。
しばらく無言で彼の瞳を眺めていたカエデは、その後、ゆるやかに腕を外し、身を引いた。
それから、気だるげな仕草で髪を耳にかけながら、自嘲めいた声を漏らす。
「なんて……川ちゃんはそんな理由で私の話を断ったわけじゃあないわね。
分かってる、ごめんなさい。
今、言ったことは忘れてちょうだい。
……待ってて、コーヒーでも入れてくるから」
最後にそう言って、カエデは小さく微笑んだ。
急くように台所へと消える彼女の背には、悲しみとも嘆きともつかない淡い負の感情が薄く滲んでいた。
~~~~~~~~~~
お互い無言のままコーヒーを啜っていると、突如、隣の部屋のパソコンからけたたましい電子音が鳴り響いた。
カエデはそれを受けて立ち上がり、音を止めるべくパタパタと扉の向こうへ消える。
作業机の上の液晶画面を眺めながら、彼女は小さく眉間に皺を寄せて、苦々しく呟いた。
「……どうやら、タイムアップみたいね」
それから、彼女は物凄い勢いでキーボードを叩き始めたかと思うと、すぐに電源を落とし、慌ただしく部屋中を駆け回った。
ピッタリとした黒のボディスーツに身を包んだ彼女の背には大きなバッグが下げられ、腰のベルトには数種類のナイフを挿し、黒い革手袋をした右手には一つの拳銃が握られている。
完全に様変わりしたカエデにも、男は何ら反応を示すことはなく、ただ静かにコーヒーを啜っていた。
そんな彼に軽く苦笑して、彼女はテーブルの上に小さな短銃とサバイバルナイフを一本置いて、告げる。
「記憶をなくしているあなたがコレを扱えるかどうかは分からないけれど、とりあえず護身用に渡しておくわ。
外にいるヤツらを潰したら必ず迎えに来るから、すぐにここから出られるように用意しておいて」
言うなり、彼女は男の返答を待たず、頭上のゴーグルを装着しながら足早に玄関へと向かった。
外の廊下へ出てすぐのところで、カエデは小さく舌打ちをする。
早くも敵方の包囲網が完成しようとしていた。
それを確認したカエデは、一分一秒も惜しいとばかりに最上階に程近い自室前の廊下から地上へと飛び下りるのだった。
包囲の手薄な場所から姿を隠したまま一人一人確実に敵勢力の始末を続けていたカエデだったが、あと一息といったところで司令塔らしき男により追い詰められてしまう。
片足を打ち抜かれて地面に膝をついた拍子に背後を取られた彼女は、それでも、至極冷静な面持ちで油断なく相手の隙を窺っていた。
白の多く混ざったプラチナブロンドの髪をオールバックに固め、顎に無精髭を生やした壮年の男は、彼女に銃口を向けたまま世間話でもするかのように平淡な口調で話しかけてくる。
「見事な手際だ、女。
それだけに、ここで処分してしまうには惜しいな。
昔、手駒の中に似たような男がいて重宝したものだが、さて、一体ヤツは今どこで何を……」
「ブライト。無駄話が多いのは相変わらずだな?」
カエデは、背後の男の語りを今までにない低い声と男言葉を使って遮る。
目の前の女の唇から、脳に浮かべたばかりの懐かしい音色が流れて、ブライトはほんの一瞬、目を見開いた。
その隙を逃さず、頭を狙っていた拳銃を蹴り上げて、近くの路地へと逃げ込むカエデ。
ブライトは手から落ちた銃を拾わず、胸元から同じ物を取り出し威嚇に一度発砲したのち、皮肉気に口を歪めて笑った。
「はっ、何だ! 貴様、フールか!
まさか、こんなところに隠れていたとは」
相手がろくに動けないと知っているブライトは、銃を構えたままのんびり歩を進める。
張りつめる空気の中、カエデは逆に冗談めいた口調で男へ言葉を返した。
「やぁだー、ブライトちゃんたら。
その呼び名ってば黒・歴・史。
今はカエデよ。それ以上でも以下でもない、ただの女」
「名など、どうでもいい。
それより、フール。なぜ我々の邪魔をする?
貴様のことだ。此度の獲物が何であるのか、知らん訳ではあるまい」
「そうよ、知っているわ。だから、私はここにいるのよ。
彼の代わりに、彼を守るためにね」
「おかしなことを言う。
人の心を持たない殺人兵器を……あのスレイブ・チルドレンを、守るだと?」
裏社会を牛耳る巨大組織、グランドサザンクロス。
ある年、組織は都合の良い手駒を得るために、世界中から優秀な子どもを攫い集めた。
特殊な薬で記憶を奪い、感情を奪い、彼らにただただ殺人技術を叩き込む。
そして、数年後。
最終テストと称された蠱毒の中で、たった五人……それだけが、生きることを許された。
彼らは、その身に組織の所有印と個体識別のための特殊なマークを刻まれて、日々命令に従い人間を殺し続けている。
組織内部では、それまでの暗部の人間と区別する意味で刻印持ちと呼ばれるが、事情を知る外部の人間は皮肉の意を込めて彼らをこう呼んだ。
スレイブ・チルドレン……奴隷の子等……と。
「背の刻印を見るまで気付かなかったのは私の落ち度。
でも、拾ったからには最後まで責任を持って面倒見なくちゃ嘘ってものでしょう?
だから、私はアンタと刺し違えてでも彼を守る……それだけよ!」
叫ぶと同時に、彼女は小型の手榴弾を投げつけた。
ブライトは舌打ちしながら、素早くその場から離脱する。
逃げ遅れた数名の部下が爆発に巻き込まれ命を落としたが、それを気にする者はいない。
煙に紛れて姿を消したカエデに、ブライトは纏う空気を一変、激しい剣幕で命令を下した。
「追え! ヤツを生かしたまま捉えろ!
獲物の居場所を吐かせるぞ!」
が、その直後、路地の入り口へ、今度は倍ほどの威力を持つタイプの大きな手榴弾が投げ落とされる。
引き潮のごとく一斉に後ずさる面々だったが、いくら待っても爆発は起こらない。
内、若年の男が小さく息を吐きだして苛立ちと共に悪態をついた。
「なんだ、不発弾かよ。
ビビらせやがって……くそっ」
幾人かが同調したように頷きすぐにカエデを追おうと走り出したのだが、そんな彼らに向かって、ブライトが怒鳴り声を上げる。
「バカ野郎! 下がれ!」
「え?」
瞬間、どこからか飛んできた銃弾が不発弾を貫き、一帯を包む爆発が起こった。
その後も、カエデは懸命に応戦したのだが、やはり足の負傷がネックとなったのか、最終的に人数に押し負け捕まってしまう。
数人の男たちに地面へ押さえ付けられ、ブライトに幾度も嬲られたおかげで、身体はすでにボロボロだったが、それでも彼女の意思は固い。
一向に口を開かないカエデに痺れを切らしたブライトは、本人への暴行を一時中断し、絡め手で攻め始めた。
「いつまでダンマリを貫くつもりだ。
お前の大事な人間を一人一人狙ってやってもいいんだぞ?
家族が、友が、どうなってもいいのか?」
それを聞いて、目の前の男を馬鹿にするように鼻で笑った彼女は、未だ光を失わぬ強い眼差しを向けて言い放つ。
「家族? 友? ハッ。
残念だけど、ないものは減らない。
私にそんな脅しは無意味よ」
「そうか……分かった。
もういい、死ね。お前は用なしだ」
ブライトは冷え切った瞳でカエデを見下ろし、愛用の銃を構える。
足掻こうにも、手足は縫い付けられているかのごとくシッカリと止められており、彼女にはなす術もない。
悔しさに唇を噛むカエデだったが、そこで予期せぬ発砲音が響いた。
連続するそれが治まると、彼女を押さえ付けていた男たちが揃って地面に倒れ込む。
彼女は即座に痛みを堪えて起き上がり、すぐ隣りにある、たった今出来上がったばかりの死体から銃を奪って構えた。
「……川……ちゃん?」
視線の先には、いつもの無表情を保ったまま、次々と敵を葬る男の姿があった。
時に彼は銃弾をナイフで受け返したり、避けたりなどという、人間離れした動きを見せながら、淡々とブライトの部下の命を奪っていく。
それはとても流麗な動作であるのに、あたかも予めプログラムされた内容に沿って機械的作業を繰り返しているだけの極めて無機質なもののように見えた。
おそらく、人間の動きとして考えた場合に、無駄がなさすぎるのだろう。
ただでさえカエデとの戦闘で消耗していた彼らは、この突然の闖入者の前にあっさりと全滅した。
息の一つも乱さずに殺人を終えた男は、相変わらず表情を動かさぬままカエデの元へと歩み寄る。
「川ちゃん、どうしてここに?
もしかして、記憶が戻ったの?」
彼女の問いに答えぬまま、彼はチラリと後方へ視線を流した。
その先で、敢えて殺さずに両手両足を打ち抜くだけで残されていたブライトが、地面に伏した状態で悔しげに二人を睨み付けている。
再び視線を戻した男を見て、カエデは彼の意図を察し、目を丸くした。
「アイツの処理、私に任せてくれるの?
……ありがとう」
はにかむ様に笑って、それからカエデはふらつく身体を叱咤して、拳銃片手にブライトの元へと近付いた。
数秒前とは全く別の鋭利な空気を纏った彼女は、ブライトの額に拳銃を突きつけて、目を細めながら問いかける。
「このまま私に雇われて彼を狙う雇用主を片付けてくれるというのなら、今は見逃してあげなくもないけど?」
「ふん……俺たちのルールを忘れたわけじゃああるまい。
そんな生き恥を晒すくらいなら、潔く死を選ぶさ」
「そう、じゃあいいわ。さよなら」
冷笑を浮かべたカエデは、躊躇なく拳銃の引き金を引いた。
赤いモノがブライトの背後にパタパタと飛び散ったのを確認して、二人はその場を後にする。
人気のない路地裏の適当な木箱に腰掛けて、カエデは自らの手当をしながら、目の前に立っている男へと語りかけていた。
相手が聞いているかいないかは定かではないが、何となくそうしたかった。
「私ってば、まだ男だった時代にフリーの何でも屋なんてやっててさ。
あいつらは、その時のちょっとした知り合いだったの。
殺しから犬の散歩まで何でも引き受けます……っていう感じでね。
結構売れっ子だったんだから」
自慢するような話し方と対照に、自虐的な笑みを浮かべながら、彼女は回想を続ける。
「でも、その頃はちょっと荒れていたものだから、何をやるにも強引というか、無理やりというか……。
例えば、意中の人と付き合いたい、なんて言う甘ったれた依頼人の男を女の前に連れて行って、『こいつと付き合わないと殺す』って言いながら、女が首を縦に振るまで男をボコり続けてみたり?
あの時は、腕の骨と肋骨を三本折ったあたりで依頼を達成したけど……ま、乱暴にも程があるわよねぇ」
力なく笑ったカエデは、そのまま小さくため息をついて、遠い目を宙に向けた。
簡易的にではあるが治療も終わり、スーツの中に入れていた髪をザッと表に出して首を軽く左右に振った後、男に視線を合わせる。
「ゴミみたいな人間もいっぱい見て来たけど、そうじゃない人間もいっぱいいた。
だから、私は夢を見ることができた。
こんな世界でも、生きて行こうと思えた。
そして……そんな気持ちのほんのカケラでもいいから、あなたにも感じてもらえたらって、思ってた……」
彼女の言葉は過去形で締められる。
本人の口から聞いたわけではないが、彼がこのまま去って行ってしまうのだろうということを、カエデはどこかで確信していた。
その後、黙り込んだ彼女をしばらく眺めていた男だったが、やかて、終わりを理解すると、無機質に身を翻し、いずこかへ遠ざかっていく。
カエデは、最後に希うような気持ちで、彼の背に想いを投げかけた。
「あのっ、いつでも会いに来て!
私、待ってるから……ずっと、待ってるから……っ」
届けられた声に、男は立ち止まることも振り向くこともなく、ただ淡々と、夕暮れの中に溶け消えるようにして去っていった。
~~~~~~~~~~
「何も、ワタヌキ社長自ら、こんな末端の施設まで視察に来ずともよろしかったのでは……」
従業員が退室し、二人きりとなったホテルのスイートルームで、秘書が不満げに口を開いた。
そんな秘書を諭すように、カエデは慈愛に満ちた笑顔を彼女へ向ける。
「実際に現場を見てみないと分からないことっていうのは、いくらでもあるものよ。
私は、お客様にも、従業員の皆にも、いつだって笑っていて欲しいの。
そのためなら、視察にくらい、いくらだって出向くわよ」
「社長はそれで良いのかもしれませんが、スケジュールを管理する私の立場にもなって下さい……。
ただでさえ、たった数年で世界的に有名な一流企業へと発展した我が社は、日々地獄のような忙しさに追われているというのに」
「……そうね。あなたにはいつも感謝してるわ」
深くため息をつきながら愚痴をこぼす相手に、カエデは苦笑いを返す。
そこでふと、秘書が軽く首を傾げながら尋ねてきた。
「ところで、社長。
どうしてこのホテルにリバーサイドなんて名前をつけられたんですか?
周辺に特に目立つ川というのもありませんよね?」
「んー……そう……ね。
昔の自分の唯一心休まる場所が、川の側だったから……なんて。
まぁ、何となくよ」
そう言った彼女は、何かを思い出すように遠い目をして、少し淋しそうに微笑んだ。
秘書を下げ、ホテルの一室で一人きりになったカエデは、出窓に浅く手をついた。
そして、窓の外のどこか懐かしい夕日を眺めながら、ポツリと呟く。
「……ちょっと、ここまで急ぎすぎちゃったかな」
目を細めて小さくため息を吐くと、彼女は再び口を開いた。
その瞳の奥には、物悲しさにも侘しさにも似た、何ともいえぬ憂い色が漂っている。
「ねぇ、川ちゃん。
私、あのプロポーズ、結構本気だったんだよ……」
それから、彼女はゆっくりと身体を反転させた。
全てを達観したかのような穏やかな笑みを浮かべながら、カエデは音もなく背後に立っていた一人の男の元へと近付く。
そんなカエデをピクリとも動かず無表情に見下ろす男。
構わず彼女は彼の首へと腕を回し、そっと触れるだけの口づけを落とした。
「……ずっと聞きたかったの。
心を持たないはずのスレイブ・チルドレンであるあなたが、私を殺さずにいてくれたこと……ちょっとは期待しても良かった?」
男はカエデの問いに答えない。
ただ、眠るように瞼を閉じてその場に崩れ落ちる彼女の姿を、無機質な黒の瞳で見つめていた。
『番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお伝えします。
本日未明、エイプリル社社長カエデ=ワタヌキ氏が自社ホテルの一室にて死亡していた事実が判明しました。
第一発見者は同社秘書で、氏は心臓をナイフで一突きにされており、即死であったと、検死の結果、明らかになっています。
現場の状況から、自殺の可能性が高いと見て、警察は……』
ブツリと音を立てて、テレビの電源が落ちる。
唯一の光源を失い夜の闇に包まれた部屋の中、無言でベッドに身を沈めた男がどんな表情を浮かべていたのか。
その真実を知る者は、誰もいない。
2011.10.21活動報告に解説掲載しました。