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聖女様、ご退職の件。――三百年燃え続けた祭壇の火は、わたくしが毎晩こっそり薪をくべていただけですので、本日限りで消えますね ~前世・火力発電所の保守点検員だった聖女は、設備を返却します~

作者: uta
掲載日:2026/10/08

「リエル・アッシュフィールド。本日をもって、聖女の任を解く」


大聖堂の広間。


正面の祭壇では、三百年燃え続けているという《永久祭壇火》が、いつもどおり穏やかな橙色で揺れておりました。


わたくしは膝をつき、床の石目を見つめたまま、その言葉を聞きました。


「新しい神託が降りた。聖女はミーナ・ロウ男爵令嬢。……それにな、リエル。お前の祈りには華がない」


王太子オルドリク殿下の声は、怒鳴ってはいませんでした。


むしろ親切めいた響きすらありました。


「夜な夜な暗がりをうろつき、煤まみれで、笑いもしない。民が聖女に求めているのは、そういうものではないのだ。分かるだろう?」


分かります。


とてもよく、分かります。


殿下が歩み寄り、わたくしの手を見下ろしました。手の甲には、古い火傷の痕が三つ。


「……聖女のくせに、手入れも怠っているのか」


(これは十二年前、通気口の第二が焼け落ちたときの痕でございます。あのとき誰も来ませんでしたので、素手で押さえました)


と、心の中でだけ申し上げました。


口から出たのは、別の言葉です。


「かしこまりました」


殿下が少し拍子抜けしたように眉を上げました。


泣くとでも思われていたのでしょうか。


「……随分とあっさりしているな。泣かぬのか」


「お役目にございますから」


わたくしは頭を下げ、立ち上がりました。


白衣の裾は焦げ、袖口は七度繕ってあります。歩くたび、煤の匂いがいたします。


殿下の隣で、蜂蜜色の巻き毛の少女が、おずおずと微笑みかけてきました。


悪意のかけらもない、きれいな笑顔でした。


「あの、わたし、ミーナと申します。前の聖女様にご挨拶したかったんです。わたし、ちゃんと毎日お祈りしますからっ」


「……左様でございますか」


お祈りを。


毎日。


わたくしは一度だけ、祭壇の火を見ました。


今夜は風が北から入ります。薪は昨日の雨を吸っています。通気口の第三は、記録によれば灰の詰まりが二割七分。


(三日以内に掻き出さねば、不完全燃焼に入ります)


それだけ頭に浮かんで、わたくしは目を伏せました。


「では、本日の深夜勤務をもちまして、退かせていただきます」


「深夜勤務?」


殿下が怪訝な顔をなさいました。


「聖女に、そんなものはないだろう」


「……左様でございますね」


わたくしは微笑みました。たぶん、宮廷に入って初めて、心から笑ったかもしれません。


「ええ。ございません。十二年、ずっと、ございませんでした」


十二年。


三千二百八十九日。


誰も、一度も、尋ねませんでした。


なぜわたくしが毎晩、午前三時にここにいるのかを。


◇


午前三時。


大聖堂は、しんと冷えておりました。


わたくしは白衣の上に作業用の前掛けを締め、祭壇の横の石板を外し、床下へ身を滑らせます。


この穴の幅は、肩幅ぎりぎりです。十二年前、初めて潜ったときは、涙が出るほど怖うございました。


(前世でも、ボイラーの点検口は似たような寸法でしたね)


灰原理恵、三十四歳。中堅電力会社、火力発電所の保守点検員。


定期点検中の事故で死にました。最後に見たのは、計器盤の数字でした。


異常の兆候は、必ず数字に出る。


それだけを持って、わたくしはこの世界に生まれ直したのです。


没落子爵家の娘として。そして、八歳で見習い聖女として聖堂に入りました。


ステータス板に浮かんだ技能は、ただ一行。


《燃焼管理》


攻撃魔法もなく、回復魔法もなく。


ただ、火を絶やさず燃やし続けるだけの技能。


(前世の資格と同じでございますね。誰も褒めてくれないやつです)


灰掻き棒を伸ばし、通気口の第三に差し込みます。ざり、と手応え。やはり二割七分。


報告書は先月も出しました。その前も。十二年分、毎月。


一度も、返事をいただいたことはございません。


灰を掻き出し、袋に詰め、通気の抜けを手の甲で確かめます。風が指を撫でました。よろしい。


床下から這い出て、東回廊の乾燥棚へ。


明後日ぶんの薪を上段に上げ、今夜ぶんを取り、節の向きを揃えて炉へくべます。


火が、ふっと背を伸ばしました。


「……はい。いい子ですね」


火は正直です。燃料と、空気と、火種。


この三つさえ揃えば、神様がいなくても燃えてくださいます。


それから、記録簿を開きました。


煤で汚れた革表紙。三千二百八十九冊目。


『第三通気口、清掃完了。灰量二割七分。薪、北棚より。湿度やや高、乾燥二日延長を要す。異常なし』


日付を書き、ペンを置き、ぱたりと閉じます。


十二年で、この音を何度聞いたでしょう。


祭壇の隅で、小さな影が身じろぎしました。


痩せた少年が、膝を抱えて震えております。


「ピップ。また厨房から追い出されましたか」


「……あの」


彼はいつもそう言って、それから黙ります。それで十分でございます。


わたくしは熾火から芋を掘り出し、使い古した布切れで包んで、半分に割りました。


湯気が上がります。


「どうぞ」


「……全部、くれないんですか」


三年目にして初めての質問でした。わたくしは少し驚いて、それから答えました。


「全部差し上げると、あなたは明日も、ここで待つようになります。半分なら、残りの半分を自分で探しにいくでしょう」


ピップは芋を両手で抱えて、熱そうに息を吹きました。


「……リエル様。今日、なんか、いつもより長いです」


「ええ。最後ですから」


少年の目が、ゆっくり見開かれました。


わたくしは立ち上がり、祭壇脇の棚に記録簿を並べました。


三千二百八十九冊。壁一面。十二年の重さ。


その一番上に、一冊の冊子を置きます。


『聖火維持・引き継ぎ書』


十二年前、着任した月に書いたものです。字が読めれば、誰にでもできるように書きました。図も入れました。鐘の数で薪の間隔が分かるようにもしました。


ずっと、ここに置いてございます。


一度も、開かれた形跡はございません。


「……わたくし、もう薪は運びません」


声に出して言うと、思ったより静かな響きでした。


火が、ぱち、と鳴りました。


返事のつもりでしょうか。


ピップは走り出せず、ただ焼き芋を胸に抱いて立ち尽くしておりました。


わたくしは一度だけ振り返り、頭を下げて、裏口を出ました。


外では、腰の曲がった老女が外套を抱えて立っておりました。


「お帰りなさいまし、お嬢様」


「……ハンナ。わたくし、クビになりました」


乳母は目を細め、わたくしの肩に外套をかけました。


「左様でございますか。では夕飯は芋にいたしましょう」


わたくしは笑いました。


笑ったら、なぜか少しだけ、喉が熱くなりました。


◇


翌日。冒険者ギルドの受付で、ステータス板を提示いたしました。


 名:リエル・アッシュフィールド

 職:―――

 技能:《燃焼管理》


以上。


受付嬢が三度読み返して、気の毒そうな顔をなさいました。


「……あの、攻撃魔法は」


「ございません」


「回復は」


「ございません」


「え、えーと……火属性の、攻撃スキルとかでは」


「いいえ。火を、絶やさず、適正温度で燃やし続ける技能でございます」


沈黙。


(ええ、わかっております。地味です。前世の社内資格も、だいたいこういう顔をされました)


「……火の管理ができる者、として登録をお願いいたします」


三日後、わたくしは鍛冶ギルドの炉の前に立っておりました。


熊のような巨体の男が、焦げた眉を吊り上げて吠えます。


「聖女崩れが炉を触るだと? うちの炉は神様より気難しいぞ!」


「存じております。神様はお目こぼしをくださいますが、炉はくださいませんので」


グラム・バルドーギルド長が、ぐ、と言葉に詰まりました。


わたくしは炉を一周し、送風口に手をかざしました。


「送風口の角度を、二度下げてよろしいですか」


「二度? そんなもんで何が変わる」


「変わります。それと、薪の投入は鐘の三つ目ごとに。今は職人の勘で入れておいでですね。勘は優秀ですが、疲れると狂います」


「……勘を疑うのか」


「人を疑っておりません。疲労を疑っております」


火を入れました。


炎が立ち上がり、赤から橙へ、そして澄んだ黄金色へ。


炉の前の職人たちが、ざわりと静まりました。


グラムが、鼻先を真っ赤にして小声で漏らしました。


「……おい、誰だこの嬢ちゃん連れてきたの」


三日後、鋼の歩留まりが一割上がりました。


「嬢ちゃん。あんた、神に祈るよりよっぽど火を分かってる」


巨大な手が、油染みた帳面を掲げて振られました。


「薬師ギルドにも話は通した。冬の避難所の暖房設計もやれ。金は取れ、遠慮するな。いいか、腕のある奴が安く働くと、後から来る奴の値が下がるんだ」


「……承知いたしました」


(前世の先輩にも、同じことを言われましたね)


わたくしは煎じ釜の火加減を整え、避難所の煙突に傾斜をつけ、三交代の当番表を書きました。


静かな日々でした。


誰もわたくしを聖女とは呼びません。


「火の人」と呼ばれます。


それで、よろしいのです。


――そのころ、大聖堂では。


三日目に、祭壇の炎が揺らぎました。


五日目に、青く細りました。


ミーナ・ロウは、朝から晩まで祈り続けました。膝が腫れても祈りました。彼女の信仰は本物でした。神託も本物でした。


ただ、火は祈りでは酸素を得ません。


七日目の朝。


王都の空に、三百年ぶりの白い煙が上がりました。


◇


「隊長! 北門の結界が――落ちました!」


伝令の声に、カイル・ドラグネスは執務室の暖炉の前から立ち上がった。


「原因」


「不明です! ただ、魔導技師が、熱源が止まったと……」


「熱源」


黒曜石の鱗に覆われた手が、剣の柄を握る。


三語以内。それが彼の報告の流儀だった。


「出る」


北門では、低級魔物が三十体ほど、崩れた結界の裂け目から這い込んでいた。


民が逃げ惑い、衛兵が槍を揃える。


カイルは単騎で前に出て、息を吸った。


炎が、通りを一直線に舐めた。


十数秒後、残ったのは焦げた石畳と、静寂だった。


「……隊長、助かりました」


「結界の熱源は」


魔導技師が、青ざめた顔で答えた。


「た、大聖堂の《永久祭壇火》です。あれが、王都全域の結界の熱を……」


カイルの眉が、わずかに動いた。


「縁起物ではないのか」


「違います。三百年、誰も確かめなかっただけで……設計上は、完全に熱源です」


沈黙。


カイルは夜空を見上げた。大聖堂の方角に、白い煙が細く上がっている。


(あの火が、消えかけている)


彼の頭に浮かんだのは、国家の象徴でも王家の正統性でもなかった。


――冬の路地。


凍えて動けなくなった竜人の子ども。


煤まみれの白衣の少女が、黙って差し出した、熾火で煮たスープ。


名も名乗らず去っていった背中。


あれから十六年。


彼は毎晩、午前三時ごろ、聖堂の裏手で火にあたって眠るのが習慣だった。


冷えきった竜人の体を温められる火は、王都にあれしかなかったからだ。


そして十二年間、その時間、聖堂にいた人間は、ひとりしかいない。


「……おい」


カイルは、隣の副官に低く言った。


「聖女が、代わったと聞いたが。名は」


「リエル・アッシュフィールド様です。あの、暗がりをうろつく、と殿下が……」


カイルは答えなかった。


鎧の下、三枚重ねた毛織の腹巻きの奥で、心臓が妙に速く打っていた。


「……あれは」


彼は、誰にともなく呟いた。


「うろついていたんじゃない。働いていたんだ」


◇


王宮の大広間。


召喚状が届いたのは、白い煙が上がって二日後のことでした。


大理石の床、集まった貴族たち、神官たち、そして玉座の前に立つ王太子殿下。


煤けた作業着のまま参りましたので、場違いなことこの上ございません。


「リエル・アッシュフィールド!」


殿下が、わたくしを指差しました。


「お前が火に細工をしたのだろう! 罷免を恨み、聖火に呪いをかけた! そうでなければ、三百年燃えた神の火が消えるはずがない!」


(はい、来ました)


ざわめきが広がります。


わたくしは深く礼をし、顔を上げました。


「殿下。申し上げたいことが、三点ございます」


「……なんだと」


「一点目。燃料について」


指を一本立てました。


「聖火に用いる薪は、湿気を飛ばすため、使用の三日前から乾燥棚の上段に上げる必要がございます。湿った薪は燃えません。燃えても煙が出ます。――その棚は、十二年間、わたくしが管理しておりました」


「た……棚だと……?」


「はい。聖堂の東回廊、石壁の裏でございます。現在、空です」


殿下の口が、半分開いたまま止まりました。


「二点目。酸素について」


指を二本。


「祭壇の床下には、通気口が四本ございます。灰は七日で、およそ三割詰まります。詰まれば空気が入らず、不完全燃焼を起こし、白い煙が上がります」


「待て、待て、床下など――そんなものは聞いたことが」


「掻き出しの記録は、三千二百八十九日分。すべて日付入りで、祭壇脇の棚にございます」


わたくしは、神官長のほうへ静かに顔を向けました。


「毎月、報告書を提出しておりました。ヴァルデマル神官長」


老神官の肩が、びくりと跳ねました。


「どなたか、一冊でも、お開きになりましたか」


沈黙。


咳ひとつ、ありませんでした。


神官長が、よろめくように数歩下がり、そして――踵を返して走り出しました。老いた足で、転びそうになりながら。


「三点目。着火源について」


指を三本。


「聖火は三百年、消えておりません。それは事実でございます。ですが――」


わたくしは、はっきりと申し上げました。


「それは“消えなかった”のではございません。“絶やさぬ者がいた”というだけのことです」


「……っ」


「永久とは、神の性質ではございません。


 永久とは、誰かが永久に手を入れ続けている、という意味でございます」


広間が、静まり返りました。


誰も、一言も発しませんでした。


そのとき。


大広間の扉が、音を立てて開きました。


黒い鱗の巨躯が、無表情のまま進み出ます。


「竜鱗隊長カイル・ドラグネス。証言する」


「カ、カイル卿、今は――」


「この十二年」


彼の低い声が、殿下の言葉を踏み潰しました。


「午前三時の聖堂で、俺は、彼女以外の人間を見たことがない」


「……は?」


「俺は毎晩、あの火にあたっていた。寒いからだ」


(隊長、そこは言わなくてもよろしいのでは)


「床下から煤まみれで出てくる女を、十二年見た。誰も手伝っていなかった。誰も、見ていなかった」


ざわめきが、波のように広がりました。


そこへ、作業着のまま乗り込んできた巨漢が、油染みた帳面を掲げました。


「王太子殿下よォ!」


「な、何者だ貴様!」


「鍛冶ギルド長グラム・バルドーだ! 火ってのはな、祈りじゃ上がらねえ。温度が上がるんだ! この嬢ちゃんが来て、うちの炉の歩留まりが一割上がった。一割だぞ!」


帳面が、どん、と床に叩きつけられました。


「あんた、数字ひとつでも出せるか?」


殿下は、答えませんでした。


そして――群衆の、ずっと後ろのほうから。


小さな、震える声が上がりました。


「リエル様は、毎晩いました!」


人垣が割れます。


痩せた少年が、擦り切れた前掛けのまま、顔を真っ赤にして叫んでいました。


「三時にいました! ぼく、見てました! 床下から出てきて、灰の袋、ぜんぶ自分で運んでました!」


ピップは泣いていました。


「誰も見てなかっただけです! いなかったんじゃないです! 誰も、見てなかっただけです!」


子どもの声が、大人たちの沈黙を割りました。


そのとき、広間の外から、乾いた悲鳴のような声が響きました。


神官長が、一冊の記録簿を抱えて戻ってきたのです。


糊付けされたままの紐が、ぶら下がっていました。十二年分、一度も解かれなかった紐が。


彼は震える手で頁を開き、そこに記された几帳面な文字を読み上げました。


「『通気口第三、灰詰まり二割七分。要三日以内清掃。報告済』……なんたること。なんたることか」


老神官は、ゆっくりと膝を折り、大理石の床に崩れ落ちました。


「……わしは」


白髪の頭が垂れました。


「わしは、十二年、何を見ておったのだ」


◇


殿下は、しばらく口を開けたまま立っておりました。


それから、縋るように声を上げました。


「……わかった。わかった、リエル。誤解だった。ならば戻れ。戻って、火をつけろ」


わたくしは、静かに申し上げました。


「お断りいたします」


「なっ――」


「わたくしはすでに、退職いたしました」


広間がどよめきます。


「国が滅びるのだぞ! 結界が落ちれば民が死ぬ!」


「存じております」


わたくしは、まっすぐに殿下を見上げました。


「ですから、十二年前から、引き継ぎ書を置いてございます」


「……引き、継ぎ……?」


「祭壇脇の棚の、一番上。『聖火維持・引き継ぎ書』。字が読めれば、どなたにでもできるよう書きました。図も入れております。薪の間隔は鐘の数で示しました。計量器も要りません」


殿下の顔から、血の気が引いていきました。


「十二年間、そこにございました」


わたくしは、一度だけ、息を吸いました。


「誰にでもできる仕事でございました。


 ――ただ、誰も、なさらなかっただけです」


刃を振るったつもりはございません。


ですがそれは、どんな剣よりも静かに、広間の全員を貫いたようでした。


殿下は、膝の力が抜けたように、一歩後ずさりました。


「待て、待ってくれ、リエル……では、どうすればいい? どうすれば、火は……」


「読めば、わかります」


それだけ申し上げて、わたくしは礼をいたしました。


◇


その夜。


わたくしは、神官長に請われて、ただ一度だけ聖堂へ戻りました。


罷免された聖女としてではなく、火の保守を請け負う一事業者として。見積書も出しました。


「……報酬を、お取りになるのか」


「はい。無償の善意は、必ず誰かに忘れられます。帳簿に載る仕事だけが、引き継がれますので」


神官長は、深く、深く頭を下げました。


棚から引き継ぎ書を取り出し、十二年ぶりに頁をめくります。


そのとき。


ぱらり、と。


黄ばんだ羊皮紙が、一枚、滑り落ちました。


「……?」


拾い上げます。


三百年分の埃の匂い。インクは褪せ、文字は走り書き。


わたくしは、読みました。


『この火は神の奇跡ではありません。わたしが毎晩くべているだけ。


 神殿の者は誰も信じませんでしたが、燃料と空気と火種、この三つがあれば火は燃えます。


 神はいりません。手がいります。


 わたしはもう年なので、次の誰かへ。


 ごめんなさい。たぶん、あなたも誰にも気づかれません。


 でも、消えなかった三十年は、わたしの三十年です。


 ――セラフィーナ』


建国聖女。三百年前の人。


肖像画では、神々しい白衣の美女として描かれている、あの方。


燃料と、空気と、火種。


(……三要素)


この言い回しを、この世界の誰が知っているというのでしょう。


わたくしは、羊皮紙を胸に押し当てました。


十二年。


床下。午前三時。誰も読まない報告書。


(ひとりだと、思っておりました)


喉の奥が、焼けるように熱くなりました。


頬を、熱いものが伝っていきました。


宮廷に上がってから十二年、わたくしが人前で涙をこぼしたのは、このときが初めてでございます。


「……先輩」


かすれた声が出ました。


「引き継ぎ、受け取りました」


火が、ぱち、と鳴りました。


三百年前と、たぶん同じ音で。


◇


翌朝、わたくしは神官長に一枚の紙を提出いたしました。


『王都大聖堂《永久祭壇火》――保守体制改善案』


「……改善、案」


「はい。三点ございます」


(またこれでございます)


「一、通気設計の改良。現在の通気口四本を六本に増設し、灰が自重で落ちる傾斜を付けます。清掃頻度は七日に一度から、十四日に一度へ減ります」


「十四日……」


「二、火守り職の制度化。三交代制。一人が倒れても火は消えません。これが最も重要でございます」


わたくしはペンを置きました。


「神官長。この三百年、聖火は一人の人間の献身で保たれてまいりました。美しい話です。ですが、ひどく脆い仕組みでございます」


「……左様に」


「一人がいなくなれば、七日で消えました。実際、消えかけました。


 ――英雄を一人立てるのではなく、仕組みを残します」


老神官は、白い眉の下で目を潤ませました。


「三、点検記録の義務化と、月一回の読み合わせ。読まない報告書は、存在しないのと同じでございます」


「……なんたることか。わしは、三十年、祈りだけを教えてきた」


「祈りは要ります」


わたくしは首を振りました。


「ミーナ様の祈りは本物でございました。ただ、それだけでは火は燃えない、というだけのこと。祈りと手入れは、どちらも要ります」


神官長は顔を上げ、震える声で言いました。


「……教典に、一節を書き加えてもよいだろうか。『手入れもまた、祈りである』と」


わたくしは、深く礼をいたしました。


三日後。


改良された通気口から空気が流れ込み、乾燥棚に薪が戻り、火守り第一班が火を入れました。


白い煙は消え、炎は澄んだ橙色に立ち上がりました。


北門の結界が、低い唸りとともに再び張られたと、伝令が走ってまいりました。


祭壇の前では、蜂蜜色の巻き毛の少女が、床に座り込んで泣いておりました。


「わたし、何をすればいいのか……誰も、教えてくれなかったんです」


「ええ」


わたくしは、彼女の隣に膝をつきました。


「それは、あなたの罪ではございません。教えなかった側の罪です」


「でも、わたし、聖女なのに」


「ミーナ様。聖女の資質と、設備の運用方法は、別の科目でございます。神託は前者しか示しません」


少女が、濡れた目でこちらを見ました。


「……教えて、いただけますか」


「有償でよろしければ」


「え」


「冗談でございます。半分は」


わたくしは、新しい記録簿を一冊、彼女に差し出しました。


「まずは、今日の日付と、火の色を書いてください。字が書ければ、それでできます」


ミーナは、震える手でペンを握り、第一頁に書きました。


『一日目』


それから、煤で汚れた自分の手を見て、泣きそうな顔で笑いました。


「これ……落ちないんですね」


「ええ。落ちません」


わたくしは、自分の手の甲の火傷痕を、そっと見せました。


「落ちないものが増えていくのを、仕事と申します」


◇


王太子オルドリク殿下は、廃嫡こそ免れました。


国法に『王族の無知』を罰する条文はございません。


無知は罪ではないからです。


――ただし、職務怠慢は別でございました。


十二年分の点検報告書が王宮に提出され、すべてが「受領印はあるが、閲覧記録なし」と判明したのです。署名は、歴代の神官長と、そして王太子名義の予算決裁。


殿下は毎年、聖火の薪代を決裁しておられました。


「なぜ神の火に薪がいるのか」と、一度も疑問を持たれないまま。


処分が下りました。


北部辺境・ヴァルド火山監視官。


任務は、火山活動の観測と、監視塔の炉の維持。


――つまり、毎朝、灰を掻き出すことでございます。


辺境の冬は、王都より二月早く来ます。


赴任三日目の朝、殿下は初めて、灰掻き棒を握りました。


炉の底にたまった灰は、見た目よりはるかに重く、水を吸って粘り、何度も腰を使わなければ動きませんでした。


袋に詰めれば、持ち上げるのに両手が要りました。


肩が痛み、指が黒く汚れ、爪の間に入った煤は、いくら洗っても落ちませんでした。


三袋目で、彼は手を止めました。


「……灰とは」


白い息が、冷えた空気に溶けました。


「こんなに、重いのか」


誰も答えませんでした。


監視塔には、彼ひとりしかおりませんでした。


毎晩、午前三時に、ひとりしかいない場所。


彼はようやく、十二年前から目の前にあったものの名前を知りました。


――なお、辺境監視官の職務規程には、こう記されております。


『点検記録を日ごとに付し、月末に本庁へ提出すること。


 本庁はこれを必ず開封し、読むこと』


一行目の後半は、三か月前に書き加えられたものでございます。


筆跡は、ヴァルデマル神官長のものでした。


◇


王都の端、職人通りの外れ。


小さな工房の軒先に、看板を掛けました。


《火の保守工房 アッシュフィールド》


《どんな火でも、絶やさずお守りします》


開業資金は、グラムギルド長が「貸しだからな、利子は酒だ」と言って出してくださいました。


朝は早うございます。


「リエル様、炉、起こしました!」


ピップが、真っ黒な顔で駆け込んでまいります。


十一歳。工房の一番弟子。朝いちばんに火を起こすのが彼の役目です。


「火の色は」


「えっと……橙です。ちょっと赤寄りです」


「では、あと少し空気を入れましょう。……ええ、上出来でございます」


彼はまだ、字がほとんど読めません。


ですが火の色は読めます。字が読めなくても、色は読めるのです。


最近、自分の名前だけは書けるようになりました。


『ピップ』と書いた最初の紙は、工房の壁に貼ってございます。少し曲がっております。


「お食べなさいまし」


台所から、ハンナが芋を運んでまいります。


欠けた塩壺を、十二年使い続けている老侍女。


「ピップや、箸はこう持つんですよ。……まあ、お嬢様も昔はひどかったんですから」


「ハンナ」


「左様でございますか」


(答えになっておりません)


昼過ぎには、蜂蜜色の巻き毛の少女が走ってまいります。


「リエルさん! 今日の記録、見てくださいっ」


ミーナ・ロウ。聖女の座を自ら降り、火守り見習いとなった娘です。


記録簿には、まだ少し丸い字で、こう書いてございました。


『四十二日目。通気口第二、灰一割五分。清掃済。火の色、良い。わたし、今日ちょっと嬉しかったです』


「……ミーナ様。最後の一行は、記録ではございません」


「だめですか?」


「いいえ」


わたくしは、少し考えて、答えました。


「残しましょう。三百年後に読む誰かが、きっと救われます」


夜になると、扉が開きます。


黒い鱗の巨躯が、音もなく入ってまいります。


「……寒い」


「どうぞ。炉のそばが空いております」


カイル・ドラグネス竜鱗隊長は、炉のそばの床に、巨体を丸めます。


王国最強と恐れられる『炎喰らいの竜』が、猫のように丸くなるのです。


威厳は、ございません。


「……暖かい」


「それはようございました。……隊長。王宮にも暖炉はございますし、騎士団の宿舎にも立派な炉がございますね」


「……寒い」


「左様でございますか」


毎晩でございます。


理由は毎晩「寒いから」でございます。


そのことは、本人以外の全員が存じております。


ある夜、彼が小さな包みを置いていきました。


色褪せた、古い毛布でした。


十六年前、わたくしが凍えた子どもにかけてやった、あの毛布です。


十年以上、きちんとたたまれていた折り目がついておりました。


「……返す。これを」


「……ずいぶんと、お待たせになりましたね」


「………………」


鋼の無表情が、わずかに、ほんのわずかに赤くなりました。


竜人は、火には強いのに、こういうことにはめっぽう弱いようでございます。


わたくしは毛布を広げ、炉のそばで丸くなった彼の背に、そっとかけました。


低い寝息が、火の音に混ざります。


窓の外には、王都の夜。


三時になれば、大聖堂では第三班が灰を掻き出しているはずです。


記録簿に日付を書き、通気口の数字を記すはずです。


わたくしがいなくても。


その仕組みは、もう回ります。


「……永久って」


わたくしは、炉の火を見ながら呟きました。


「案外、毎日のことなんですよね」


火が、ぱち、と鳴りました。


三百年前と、たぶん同じ音で。


◇


その夜、眠る前に。


わたくしは、棚から一冊の記録簿を取り出しました。


三千二百八十九冊目。


罷免の夜に閉じた、最後の一冊でございます。


大聖堂から譲り受け、手元に置いておりました。


理由はありません。十二年分の最後だから、というだけの、感傷でございます。


革表紙を開き、頁をめくります。


『第三通気口、清掃完了。灰量二割七分。薪、北棚より。湿度やや高、乾燥二日延長を要す。異常なし』


わたくしの字。


その下に、空白。


――空白の、はずでした。


最終頁。


インクの色が違います。


書き癖も、違います。


わたくしのものでも、ミーナ様のものでも、神官長のものでもございません。


そして、この記録簿は罷免の夜から、わたくしの手元と、施錠された棚以外に置かれたことがございません。


震える指で、頁を押さえました。


一行だけ、書き加えられておりました。


『南の神殿の火が、三十年前から消えている』


南。


三十年。


わたくしは、記録簿を閉じませんでした。


炉の火が、ゆっくりと揺れました。


北風が入ったわけでも、薪がはぜたわけでもないのに。


「……どなたか存じませんが」


わたくしは、誰もいない部屋に向かって、静かに申し上げました。


「報告書は、ちゃんと読みます」


火が、ぱち、と鳴りました。


三十年。


消えた火のそばで、誰かがまだ、待っているのかもしれません。


わたくしは立ち上がり、壁から灰掻き棒を下ろしました。


「ハンナ」


台所の灯りに向かって、声をかけます。


「――しばらく、留守にいたしますね」


「左様でございますか」


老侍女の返事は、いつもどおりでございました。


「では、芋を多めに包みましょう」


(了)


――お読みくださり、ありがとうございました。


リエルの次の現場、南の神殿編もご覧いただけましたら幸いです。ブックマーク・評価をいただけますと、作者の炉に空気が入ります。

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