コンビネーションゲームで彼女が全問不正解だった。初めて気づいた、彼女の心には別の誰かがいるんだって
月凪大学商学部のゼミ同期会で、俺が結婚すると話した途端、テーブルが一気に騒がしくなった。
「じゃあ、榊原の結婚相手が誰なのか当てようよ。本人が問題出して」
幹事が余興用に用意していたホワイトボードが配られる。
何人かの視線が、自然と一ノ瀬紗季へ向いた。
大学時代から俺たちは何かと一緒にされ、卒業後には実際に付き合った。だから、みんながそう思うのも無理はない。
ただ、俺と紗季は十か月前に別れている。
そのことを、ここにいるほとんどの人間は知らなかった。
「俺が一番好きな食べ物は?」
最初の問題を出すと、ほとんどのボードに「栗のモンブラン」と書かれた。
紗季だけが違った。
――シーフードグラタン。
「え、榊原ってエビとかカニ駄目じゃなかった?」
「ゼミの飲み会でもずっと避けてたよな」
紗季は自分の答えを見て、小さく首を傾げた。
「そうだっけ。じゃあ、私の勘違いかも」
笑い声が上がった。
「一問目はノーカン。もう一個いこう」
俺はマーカーを持ち直す。
「卒業の時にゼミで撮った記念写真。真ん中にいたのは誰?」
今度はほぼ全員が同じ答えを書いた。
――悠真と紗季。
けれど、紗季のボードには別の名前があった。
――紗季と湊。
笑い声が止まる。
隅に座っていた白石湊が顔を上げた。
「紗季、俺、その年まだ卒業してないよ。あの写真にも写ってない」
「知ってる」
紗季はボードに書いた名前を見つめた。
「でも、一緒に卒業写真を撮れなかったことは、ずっと少し心残りだったから」
マーカーを持った俺の手が止まった。
今日は、俺の結婚相手を当てるはずだった。
1
俺が結婚すると話した時、テーブルにいた何人かは真っ先に紗季を見た。
大学時代、俺と紗季はそれなりに目立っていた。俺は学内行事によく顔を出し、軽音サークルにも長くいた。紗季は容姿が整っていて成績もよく、四年間ずっと誰かしらに二人のことをからかわれていた。
キャンパスで知り合いに会えば、よく同じことを聞かれた。
「お前ら、結局いつ付き合うの?」
当時は二人とも、はっきり答えなかった。それが続くうちに、そこまで親しくない人間まで、いずれ俺たちは付き合うものだと思うようになった。
卒業後、その予想通り俺たちは交際を始めた。
今、テーブルには二枚のホワイトボードが置かれている。一枚には俺が食べられない料理が書かれ、もう一枚には、あの卒業写真に一度も写っていない人間の名前が書かれていた。
周りの連中は答えを見比べ、それから俺と紗季、少し離れたところに座る湊へ順番に視線を向けた。テーブルの会話は、少しずつ小さくなっていった。
俺は指先でマーカーを転がした。
大学時代の紗季は、俺の生活習慣をよく知っていた。ゼミの飲み会でエビやカニが出れば、俺が何か言う前に皿を少し遠くへ寄せてくれた。
俺は大学近くの老舗洋菓子店が秋だけ出す栗のモンブランが好きだった。午前中に売り切れることも多く、ある年に何気なく「今年は買えなかった」と話した翌日、紗季は電車で一時間以上かけて別店舗まで行き、崩れないよう丁寧に包まれた箱を学生寮まで持ってきた。
卒業写真を撮った日も夏だった。目を開けているのがつらいほど日差しが強く、紗季は俺のすぐ隣に立っていた。シャッターが切られる直前、横を向くと、ちょうど彼女も俺を見ていた。
あの写真は長い間、スマートフォンのお気に入りに入れていた。
今、その紗季が、同じ仲間たちの前で湊に向かって「一緒に卒業写真を撮れなかったのが心残りだった」と言っている。
周囲の視線に気づいた湊は、居心地悪そうに俯いた。シャツの袖口を、指先で何度もいじっている。
「みんな、変なふうに考えないで。俺と紗季は昔からの友達だから」
そう言いながら、視線だけはずっと紗季のほうへ向いていた。
隣の女子が口笛を吹いた。
「白石はそう言ってるけど、一ノ瀬の答えは全然違うじゃん。二問とも外して、全部白石絡みだし」
別の男も笑いながら続ける。
「榊原の結婚相手を当てるはずだったのに、いつの間に学生時代の心残りを語る会になったんだよ」
大学時代から紗季と仲のよかった女子が眉を寄せ、彼女のホワイトボードを取り上げた。
「紗季、もうその辺にしなよ。湊と何か言い残したことがあるなら、今日はやめときな。今は悠真の結婚の話なんだから」
紗季は言い返さず、グラスを一口飲んだ。
「ごめん。同期会を変な空気にするつもりはなかった。ただ、さっきの質問で昔のことを思い出しただけ」
大学時代、周囲が俺たちをからかっても、紗季はほとんど否定しなかった。俺も、その曖昧な距離を、言葉にしなくても伝わっている何かだと思っていた。
卒業して、付き合い始め、互いの家族にも会い、やがて式場を見に行くようになった。
湊が月凪市へ戻ってくるまでは。
卒業後、湊は海外で働いていた。十一か月前、仕事の都合で帰国してから、紗季がスマートフォンを見る回数は明らかに増えた。食事中も二、三度名前を呼ばないと顔を上げないことがあり、テーブルへ置く時は決まって画面を伏せていた。
ある晩、家へ帰ると、紗季が書斎にいた。机の上には大学の卒業写真が置かれている。
しばらくその写真を眺めていた。
「最近、何かあった?」
紗季は写真を引き出しへしまった。
「別に。湊が帰ってきたから、たまに大学の頃を思い出すだけ」
その時は、それ以上聞かなかった。
今は、当時の仲間たちが揃う場所で、湊の名前を自分の手で書いている。
湊が突然立ち上がり、紗季のそばまで来た。彼女の袖をそっと引く。
「榊原、俺のことで怒らないで。今日は来ないほうがよかったかも」
湊は一度、紗季を見た。
「これからは、少し距離を置くから」
そこで少し迷ったあと、声を落とした。
「紗季も今日は飲んでるし、ちょっと感情的になっただけだと思う」
紗季がわずかに眉を寄せる。
「湊は関係ない。私が自分で言いたかっただけ」
俺はマーカーにキャップを戻し、テーブルへ置いた。
「誰が紗季と結婚するって言った?」
2
テーブルが一気に静かになった。
紗季が勢いよく顔を上げる。
「どういう意味?」
「俺が言ったのは、もうすぐ結婚するってことだけだ。結婚相手が紗季だなんて、一度も言ってない」
さっきまで笑っていた連中が互いの顔を見る。
湊は数秒その場に立っていたが、何かを思い出したように持ってきた書類ケースを開いた。その中から、生成り色の厚紙を一枚取り出す。
表面には細い金の箔押しが施されていた。
書かれている名前を見た瞬間、何なのか分かった。
以前作った、結婚式の招待状サンプルだった。
新郎――榊原悠真。
新婦――一ノ瀬紗季。
湊はそれをテーブルへ置いた。
「俺のせいで話をややこしくしたくないんだ。二人、招待状まで作るところまで進んでたんだろ」
いったん言葉を切り、紗季を見る。
「今日のやり取りだけで、全部こじらせることないじゃん」
俺はカードを見下ろした。
一年前、俺と紗季は実際に結婚式場を探し始めていた。月凪市内のホテルを何軒か見学し、披露宴会場も見て回った。担当のウェディングプランナーから、紙や書体、箔押しの違う招待状サンプルをいくつか見せてもらったこともある。
その後、結婚は取りやめた。
あのサンプルもとっくに処分されたと思っていた。
それが今、湊の手元から出てきた。
「これ、もともとは紗季が持ってたやつだよな」
湊の指先に力が入った。
「前に紗季が見せてくれたんだ。デザインどう思うって」
「それを今日もずっと持ち歩いてた?」
湊はすぐに答えなかった。
代わりに紗季が口を開く。
「悠真、さっきの答え方は私が悪かった。そこは謝る。この招待状も昔のサンプルにすぎないし、続きは二人で話そう。ここでこれ以上やる必要ないでしょ」
立ち上がった彼女が俺の手首へ触れようとする。
俺は一歩横へずれた。
紗季の手が宙で止まる。
「みんながまだ俺と紗季が結婚すると思ってるって分かってたのに、そのタイミングで昔の招待状を出したんだ」
俺は湊を見る。
「これじゃ誤解を解くどころか、逆だろ」
湊が顔を上げる。
「周りから見たら、結婚の準備までしてた俺より、紗季がずっと気にしてた相手はお前だったって見える」
少し間を置いた。
「二人のほうが、昔すれ違っただけだったみたいにな」
「そんなつもりじゃない」
テーブルのあちこちから、小さな声が上がる。
「二人、本当に結婚の準備までしてたんだ」
「今は別れてるってこと?」
「じゃあ何で白石が招待状持ってるんだ?」
別の誰かが、湊を見ながら小さく言った。
「でも、昔お互いに心残りがあったなら、それはそれで切ないな」
俺は何も返さなかった。
卒業後、俺と紗季は実際に付き合った。
紗季は、湊が何年も前に何気なく話した絶版の写真集を覚えていた。湊が帰国すると、何十キロも離れた古書店まで車を走らせ、それを探して渡した。
俺の健康診断の日は共有カレンダーにも入れてあったし、紗季にも二度伝えていた。それでも当日、彼女から届いたのは「今日はどうして会社に行ってないの?」というメッセージだった。
誕生日には、一か月以上かけて彼女が欲しがっていた物を用意した。紗季は普通に受け取った。
その少しあと、彼女が長く大切にしていた、もっと高価なコレクションの一つを、帰国したばかりの湊へ渡したことを知った。
俺は一度だけでなく、何度も聞いた。
「最近、湊と会いすぎじゃないか。二人は今、どういう関係なんだ?」
紗季はスマートフォンから顔を上げた。
「昔からの友達だよ。悠真、最近ちょっと気にしすぎじゃない?」
似たような答えを何度も聞いた。
十か月前までは。
その日、俺はいつもより早く帰宅した。
紗季はベランダで、大学時代から仲のいい友人と電話していた。ガラス戸は完全には閉まっておらず、風に揺れるカーテンと一緒に、二人の声が途切れながらリビングまで届いていた。
「最近、白石と会いすぎじゃない? 悠真とはもう式場まで見に行ってるんでしょ?」
紗季はしばらく黙った。
「分かってる」
電話の向こうから、まだ何が引っかかっているのかと聞かれた。
長い沈黙のあと、紗季の声がした。
「もしあの時、湊が海外に行ってなかったら……最後に私の隣にいたのは、あの人だったのかなって考えることはある」
向こうも少し黙った。
「紗季、もうすぐ結婚するんでしょ。そんなこと悠真が聞いたらどうするの」
紗季はベランダの手すりにもたれ、下を見ていた。
「悠真とは付き合いが長すぎるの。大学から社会人になってもずっとそばにいて、気づいたら一つずつここまで進んできた感じで」
少し間を置いた。
「でも、ほかの未来を一度も考えたことがないかって聞かれたら……そうは言えない」
俺はリビングから出なかった。
翌日、式場へ連絡し、それ以降の予定をすべて取り消した。
夜、自宅へ戻ると、紗季の前へ鍵を置いた。
「結婚の準備はもうやめよう。俺たちも、ここまでにしよう」
紗季は長い間、何も言えずに俺を見ていた。そのあと何度も理由を聞かれた。
ベランダで聞いた言葉を、一つ残らず繰り返す気にはならなかった。
ただ、こう答えた。
「もう続けたくない」
その日、俺たちは正式に別れた。
共通の知人が多かったこともあり、わざわざ大学のLINEグループで報告することはしなかった。だから今日の同期たちも、まだ以前の関係のままだと思っていた。
橘千紘とは、その二年前から知り合いだった。
最初はただの友人だった。
紗季と別れて数か月たってから、俺たちは付き合い始めた。
結婚式までは、あと三か月少しだった。
3
俺は席を立った。
「結婚するのは本当だ。でも、相手は別の人だ」
ちょうどその時、個室の外からノックの音がした。
扉が開き、千紘が立っていた。
月凪大学附属病院での勤務を終えたばかりで、濃い色のロングコートを羽織り、髪を簡単にまとめている。
俺を見つけると、少しだけ笑った。
「ごめん、悠真。急患対応が入って遅くなった」
テーブルにいた女子が、彼女の顔を見て目を見開いた。
「え、橘先輩?」
もう一人も身を乗り出す。
「医学部の橘先輩? 学祭の実行委員やってたよね?」
千紘は俺たちより一学年上だ。
俺は彼女の荷物を受け取り、その手を握った。
「紹介する。婚約者の橘千紘」
お互いの左手の指輪が軽く触れ合う。
二秒ほど静かになったあと、一斉に声が上がった。
「マジで?」
「橘先輩だったの!?」
「榊原、隠しすぎだろ!」
最初にホワイトボードのゲームを始めた女子が、テーブルを軽く叩いた。
「じゃあ私たち、最初から結婚相手を勘違いしてたってこと?」
千紘が笑う。
「悠真は来週、Web招待状を送る時に知らせるつもりだったみたい。今日は仕事帰りに迎えに来ただけなんだけど」
テーブルの空気を一度見回した。
「ずいぶんいいタイミングだったみたいね」
「本当に」
俺は彼女の手を軽く握った。
紗季は席に座ったまま、少しずつ顔色を失っていった。
しばらくして口を開く。
「私、一度もこの人のこと聞いてない」
「俺たちは十か月前に別れてる。今、誰と付き合ってるかまで報告する必要はないだろ」
紗季の唇が動く。
俺は続けた。
「紗季だって、湊が海外に行ってなかったら、最後に自分の隣にいたのはあいつだったかもしれないって話してた。そんな話、俺は聞かされてなかったけどな」
紗季の表情が止まった。
「……あの日、聞いてたの?」
「ベランダの戸、開いてたから」
俺は紗季を見る。
「十八で知り合って、十か月前に別れた。あの時の話は全部聞こえてたよ」
湊が古い招待状を持つ手に力を入れる。
「榊原、あの時の紗季はきっと――」
俺は彼を見る。
「さっきから昔からの友達だって言ってるよな。だったら、本人が言ったことは本人に説明してもらえばいい」
テーブルで誰かが小さく吹き出し、すぐに口を閉じた。
千紘は古い招待状へ目を落とした。
「これが前に作ったサンプル?」
「ああ」
手に取り、二秒ほど眺める。
紙の端には、少し擦れた跡があった。
千紘は元の場所へ戻した。
「ずいぶん大事に持ってたんですね」
「違います。ずっと書類ケースに入ってただけです」
千紘はそれ以上追及しなかった。
代わりにスマートフォンを取り出し、今使っているWeb招待状を開く。
「今日はもう知られちゃったし、来週まで待たなくてもいいかな」
画面中央には、榊原悠真、橘千紘の名前。
その下には、三か月後の日付と月凪ベイホテルの披露宴会場が表示されていた。
千紘がスマートフォンをテーブルへ置く。
「正式な出欠確認は来週送ります。都合が合えば、ぜひ来てください」
何人かがすぐに覗き込んだ。
「本当に三か月後だ」
「会場、月凪ベイホテルなんだ」
「あそこ一回行ったことある。景色いいよね」
テーブルの反対側には、まだ俺と紗季の名前が印刷された古い招待状が残っている。
二枚の招待状が、長いテーブルを挟んで置かれていた。
4
千紘が今使っているWeb招待状を見せると、みんなの視線は再び湊の古いサンプルへ戻った。
「白石、それ結局どうして持ってるんだ?」
湊は俯いた。
「さっき言っただろ。前に紗季からデザインの参考にって見せてもらったんだよ」
「それが何で今日ちょうど鞄に入ってたわけ?」
「書類整理した時に紛れ込んだだけ。俺だって、さっきまで二人がまだ付き合ってると思ってた。別れたなんて知らなかったし」
誰かが眉をひそめる。
「でも出した時、かなり断定的に言ってたよな。榊原に、白石のせいで長い付き合いを壊すなって」
湊はカードを握り直した。
「二人が俺のことで喧嘩するのが嫌だっただけだよ」
その瞬間、指からカードが滑った。
紙が床へ落ちる音は小さかったが、周囲が静かだったせいで妙にはっきり聞こえた。湊が屈もうとするより先に、紗季が拾い上げる。
印刷された二人の名前を見つめた。
「これ、いつから持ってるの?」
「前に紗季がくれただろ」
「それは知ってる。いつからずっと手元に置いてるのって聞いてるの」
湊は少し間を置いた。
「ずっとじゃない」
紗季はそれ以上聞かなかった。
招待状をテーブルへ戻す。
「結婚準備をしてた頃、湊にサンプルを見せたのは本当。今日のことは私も配慮が足りなかった」
それから俺を見る。
「でも悠真、私たちが別れてまだ十か月だよ。もう結婚を決めたことに、私たちのことは本当に何も関係ないの?」
千紘が顔を上げた。
「勢いで決めた結婚じゃありませんよ」
紗季は千紘を見る。
「悠真に聞いてるんだけど」
「私たちの結婚の話をされたので」
千紘の表情は変わらなかった。
紗季はすぐに言葉を返せなかった。
その横で、湊が急に背を向ける。
「俺、もう帰るよ。今日は来ないほうがよかったみたいだし」
二歩ほど進んだところで、入口近くに座っていた藤原真琴が呼び止めた。
真琴は今回の同期会の幹事だ。大学時代からゼミ行事をまとめることが多く、昔から言いたいことははっきり言う。
「白石、ちょっと待って。ひとつだけ聞かせて」
湊が立ち止まる。
真琴はテーブルの古い招待状を見た。
「本当に二人が別れたのを知らなかったなら、榊原が結婚するって聞いた瞬間、どうしてそれを出したの?」
湊は俯いたまま、手の中の招待状を歪ませる。
「本当に知らなかったんだよ」
真琴は数秒見つめた。
「じゃあ、さっきの問題は? 紗季が二問ともあんたの名前を書いて、何とも思わなかった?」
湊はすぐに答えなかった。
視線をテーブルへ落とし、しばらくしてから小さな声を出す。
「どう答えるかなんて俺には決められないだろ。たぶん……昔のことがまだ少し気になってるだけじゃないの」
真琴は何も言わなかった。
その沈黙に耐えられなくなったように、湊の話す速度が少しずつ上がる。
「俺がみんなの前であんなこと言わせたわけじゃない。それに今日来るまで、榊原にもう婚約者がいるなんて本当に知らなかったんだよ」
隣にいた紗季が、ゆっくり顔を湊へ向けた。
真琴はまだ彼を見ていた。
「紗季が何て答えたかを責めてるんじゃない。聞いてるのは、何でその古い招待状を持ち歩いてたのかってこと」
湊は半歩後ろへ下がり、無意識に紗季へ寄った。指先で彼女の袖を掴む。
紗季はその手を見た。
数秒後、静かに袖を抜いた。
湊が動きを止める。
紗季は彼を見ずに、俺へ向き直った。
「悠真、あの八年を、ベランダで言ったことだけで全部決めないで。私だって、悠真とのことはちゃんと大事にしてた」
「それは分かってる」
紗季は俺を見る。
「じゃあ、どうして過去まで全部否定するの?」
俺は首を横に振った。
「否定してない。大事にしてくれたことがあったのは、俺だって覚えてる」
一度息をついた。
「でも、俺と結婚の準備をしながら、別の未来も考えてた。それを聞いてから、俺はもう準備を続けられなくなった」
紗季の唇がわずかに動く。
「あの時は気持ちがぐちゃぐちゃで、言わなくていいことまで言っただけ」
「そうかもしれない」
俺は彼女を見る。
「でも、俺は聞いた」
湊が横から口を挟む。
「紗季だって、わざと榊原を傷つけたわけじゃないだろ」
紗季も反射的に湊のほうを向いた。
「もういいよ、湊。これ以上言わなくていい」
俺は二人を見た。
「最初に俺をみんなの前で困らせたのは、湊じゃない」
紗季の視線が戻ってくる。
「今日の話を始めたのは紗季だろ」
彼女は口を閉じた。
そのまま、しばらく誰も何も言わなかった。
5
紗季の後ろに立つ湊の頬を、涙が伝った。
「俺、何もしてないのに。何で全部俺が悪いみたいになってるの?」
真琴が何か言おうとした時、湊のスマートフォンが短く鳴った。
彼が画面を見る。すぐ近くにいた女子も、つられるようにちらりと覗き込み、固まった。
「白石、今の待ち受け……うちらの卒業写真?」
湊はすぐに画面を消した。
だが、近くにいた何人かはもう見ていた。
「白石と一ノ瀬しか写ってなかったように見えたけど」
湊はスマートフォンを強く握った。
「違う。ただ適当に作った画像だよ」
真琴が彼を見る。
「でも、うちの卒業写真に白石はいないよね。あんた、その年留年して卒業式出てないじゃん」
隣の同期も気づいた。
「じゃあ後から自分を合成したの?」
「ほかの人まで全部消して、一ノ瀬と二人だけに?」
湊は少し息を詰まらせた。
「そういう意味じゃない」
紗季はずっと彼を見ていた。
「見せて」
湊は首を振る。
「見ても何もないよ」
「スマホ、見せて」
紗季が手を出す。
湊は渡さなかった。
二人の間に数秒の沈黙が落ちる。
最後に、紗季のほうが手を引いた。
「いつ作ったの?」
「ずっと前」
「何で?」
湊は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
「……撮れなかったから」
「何が?」
「卒業写真。紗季と一緒に」
スマートフォンを握ったまま、視線を落とす。
「そのあと俺は海外に行ったし、戻ってきた時には、もう悠真と結婚の話してて……」
少し間を置いた。
「留年してなかったらとか、あの時出国してなかったらとか……考えたことはあるよ」
紗季はそこに立ったまま、以前のようにすぐ彼をかばおうとはしなかった。
湊が一歩近づく。
「紗季、本当に二人を壊そうなんて思ってなかった」
紗季は差し出された彼の手へ目を落とした。
取らなかった。
さっきまで聞こえていた冷やかす声は、もうなかった。
水を飲む者もいれば、黙って視線を外す者もいた。
俺はこれ以上残る気になれなかった。
千紘がそっと肩に触れる。
「悠真、帰ろう」
「ああ」
俺はコートを手に取った。
テーブルの横を通る時、同期の何人かに呼び止められた。
「榊原、最初はこっちも勘違いしてた。来週、Web招待状ちゃんと送ってくれよ。都合ついたら絶対行くから」
別の男がグラスを上げる。
「先に言っとく。結婚おめでとう」
一人ずつ返事をして、紗季と湊のほうは見なかった。
個室を出たところで、ふと十八歳の夏を思い出した。
月凪大学の中央広場には、両側にケヤキ並木が続いていた。紗季はよく本を抱えて校舎から出てきて、白いシャツの袖を肘の下まで捲っていた。俺の横を通り過ぎる時、何気ない顔で手のひらへ飴を一つ置いていくことがあった。
それを見た周りは、決まって同じようにからかった。
「お前ら本当にまだ付き合ってないの? もう付き合っちゃえよ」
そのたび、俺は紗季を見た。
彼女は俯いて笑うこともあれば、聞こえなかったふりをすることもあった。
やがて卒業写真では、本当に俺の隣に立った。あの一枚は長い間残していたが、十か月前、結婚を取りやめた日に車の中で削除した。
画面には確認メッセージが表示された。
――この写真を削除しますか?
少し眺めてから、「削除」を押した。
エレベーターを待ちながら、さっきテーブルに並んでいたホワイトボードが一瞬だけ頭をよぎった。
目の前で扉が開く。
俺は千紘と一緒に乗り込んだ。
6
エレベーターの扉が閉まり、個室の声が遠ざかった。
店の外へ出て、夜風に吹かれたところで、千紘がマフラーを少し上げながら俺を見る。
「大丈夫?」
「まあ。思ってたよりは平気」
千紘は助手席のドアを開けてくれた。
「今日は本当に、普通に同期会でご飯食べるだけだと思ってた」
「俺も。終わってからみんなに話すつもりだったんだよ。そうすれば、最初の料理からずっと質問攻めにされずに済むと思ってたし」
千紘が笑う。
「一問目から駄目だったね」
車が駐車場を出る。
赤信号で止まった時、俺は前方の光を眺めながら口を開いた。
「大学の頃は、紗季も俺を好きなんだと思ってた」
千紘は黙って聞いている。
「たぶん、それ自体は間違ってなかったんだろうけどな」
それ以上は言わなかった。
千紘が俺の手を軽く握る。
「今日はもう終わったよ。続きは家で話そう」
信号が青に変わる。
千紘は再びアクセルを踏んだ。
家へ着くと、俺はコートを脱いでソファへ深く座った。スマートフォンをローテーブルに置いた途端、何度も振動する。大学のLINEグループは未読が九十九件を超えていた。
同期会にいた連中が、さっきの出来事をあちこちで話しているらしい。千紘が見せたWeb招待状のスクリーンショットもあれば、ホワイトボードの問題や湊の待ち受けについて書いている者もいた。
『まだ頭追いついてない』
『一問目から変だと思った。榊原って甲殻類アレルギーなのに、一ノ瀬がシーフードグラタンって書く?』
『二問目のほうがヤバいだろ。白石あの年卒業してないぞ』
『一番怖いの、加工した卒業写真じゃない? 本人写ってないのに後から合成して、一ノ瀬と二人だけ残してるとか』
『俺、普通に榊原と一ノ瀬が結婚すると思ってた』
『まさか橘先輩とは』
『今日の橘先輩、普通にかっこよかった』
『結婚式絶対呼んで!』
もう少し下へ送ると、違う意見もあった。
『一ノ瀬も榊原のこと全然好きじゃなかったわけじゃないと思う』
『学生時代にすれ違った相手って、ずっと心に残ることあるしな』
すぐに返信がつく。
『残るのは別にいいけど、ほかの人と結婚の準備してる時に、元彼の前でずっと別の男の名前書くのは違うだろ』
『白石が古い招待状出したところは普通に意味分からなかった』
俺は何ページか流したところで見るのをやめた。
そのまま、俺たちのWeb招待状をグループへ送る。
『結婚式は三か月後です。正式な出欠確認は来週送ります。今日もう知られたので、先にここで報告しておきます』
すぐに祝福のメッセージが並んだ。
仲のいい友人からは個別にも連絡が来た。とっくに別れていたのかと聞く者もいれば、千紘が来なければ俺のほうが嫉妬して騒いだ元彼みたいに見られていたかもしれない、と言うやつもいた。
いくつか簡単に返し、紗季と湊とのトーク画面は開かなかった。
その時、画面上部に知らない番号からSMSが表示された。
『悠真』
続けて何通か届く。
『今日はごめんなさい』
『同期会が終わってから、ずっと考えてた』
『ベランダで言ったことは、私たちの八年間を全部否定したかったわけじゃない。湊との間に心残りがあったのは事実。でも、悠真といた時間まで、ただ流されてただけじゃない』
『今日、湊の待ち受けを見てからずっと考えてた。私が引きずってたのは、大学時代の記憶だったのかもしれない』
『湊とはもう話した。これ以上、曖昧なままにするつもりはない』
『もしよかったら、一度だけ二人で話せない? もうやり直せないとしても、最後に残るのが今日みたいな形だけなのは嫌なの』
最初から最後まで読んだ。
何も入力せず、その番号を着信拒否に入れ、メッセージも削除した。
千紘がキッチンから温かい牛乳を持ってきて、俺の前へ置いた。消えたばかりの画面を一度見ただけで、スマートフォンには触れず隣へ座る。
「紗季?」
「ああ。また一度話したいって」
千紘は少し黙った。
「会いたい?」
「いや」
「じゃあ、会わなくていい」
それ以上、SMSの内容を聞こうとはしなかった。
千紘は自分のマグカップを手に取る。
「牛乳、冷めるよ」
俺は一口飲んだ。
ちょうどいい温度だった。
ローテーブルのスマートフォンは、それから光らなかった。
7
翌週、親しい人たちへ正式にWeb招待状を送った。大学のLINEグループでも、すぐに何人かが出席すると返事をくれた。
真琴からも個別に連絡が来た。あの日は幹事だったため、俺たちが帰ったあとも会計の確認で店に残っていたらしい。その間に起きたことを、少しだけ教えてくれた。
真琴の話では、多くの同期が帰ったあとも、紗季と湊はすぐには店を出なかったらしい。
個室の外の廊下で、二人はかなり激しく言い争っていたという。
湊は泣きながら、ずっと紗季を忘れられなかったことを口にしたそうだ。卒業写真を加工したのも、一緒に撮れなかったことがずっと引っかかっていたからだと話したらしい。
さらに、海外にいた間も紗季との昔のやり取りを消せずに残していたという。
帰国してからも、紗季が俺と一緒にいるのを見るたび、もし自分があの時出国していなければと思っていた。
真琴は、湊がそんな話までしていたと書いていた。
紗季は古い招待状を手にしたまま、どうして今まで「友達だ」と言い続けていたのか、本当に今日たまたま招待状を持ってきただけなのかと問い詰めたという。
湊はしばらく黙ったあと、
「だって、あの時は紗季が悠真と付き合ってたから」
そう答えたそうだ。
そのあと、湊は俺の名前も出したらしい。
「戻ってきた時には、もう榊原がいた。ずっと俺より先に紗季の隣にいた」
真琴が覚えているのは、そこまでだった。
それ以上は聞かず、会計を済ませに戻ったという。
店を出る頃には、紗季と湊は別々に帰っていた。
二日後、湊は再び月凪市を離れた。もともと今回の帰国は仕事上の異動手続きも兼ねており、それが終わるとまた海外へ戻ったらしい。
紗季からの連絡も、それですぐに終わったわけではなかった。
別の番号から何度か電話が来たが、出なかった。その後、一通の手紙が届いたので、そのまま送り返した。
一度だけ会社へ贈り物も届いた。差出人の名前を確認し、受け取らず返送してもらった。
その後、紗季と会うことはなくなった。
仕事以外の時間は、すぐに結婚式の準備で埋まっていった。
披露宴の料理と席次を決め、カメラマンとは当日の撮影内容を詰める。テーブル装花やお見送り用のプチギフトも、一つずつ確認する必要があった。
千紘は病院勤務で時間が不規則だったため、二人とも時間が取れる時に、先にできることから片づけていった。
ある日、千紘が連続勤務で深夜に帰宅した。
俺はまだリビングで最後の数卓の席次を直していた。シャワーを浴びた千紘が、少し濡れた髪のままやって来る。パソコンが開いているのを見ると、隣の椅子を引いた。
「どこまで終わった?」
「あと三卓」
「じゃあ私が名簿見るから、悠真が席を動かして。早く終わらせて寝よう」
俺は横を見る。
「眠くない?」
千紘はあくびをしながら、横に置いてあった招待客リストを手に取った。
「眠いよ。だから早く終わらせるの」
それから俺が席を動かし、千紘が名前を確認した。判断に迷うところだけ二人で相談する。
最後の一卓を直し終えた頃には、午前一時を回っていた。
翌朝、起きると席次表の横に付箋が一枚貼ってあった。
――三卓目の佐藤さん、ナッツアレルギー。ホテルにもう一度確認。
しばらく眺めてから、スマートフォンで撮って保存した。
その日の仕事帰り、コンビニに寄ると、千紘が最近よく買っているプリンが目に入った。ひとつだけ買って帰り、冷蔵庫へ入れておいた。
千紘はかなり遅くに帰宅した。
手を洗って冷蔵庫を開け、プリンを見つけるとこちらを振り返る。
「これ、悠真が買った?」
「ああ。店で見かけたから」
千紘は取り出し、ダイニングテーブルに寄りかかったまま蓋を開けた。
「じゃあ遠慮なく」
「そのために買ったんだから」
笑いながら椅子へ座り、プリンを食べつつ、翌日連絡する予定のスタッフ一覧を俺の前へ滑らせた。
「カメラマンにはもう返事した?」
「まだ。千紘が帰ってから一緒に確認しようと思って」
千紘は内容を少し眺める。
「じゃあ、これだけ先に終わらせよう」
俺はパソコンをもう一度こちらへ向けた。
二人で残りの確認を始めた。
8
数か月が過ぎ、結婚式まであと六日になった。
同期会の日のことを、わざわざ話題にする人はもうほとんどいない。大学時代のLINEグループもいつもの雰囲気へ戻り、仕事の愚痴を書き込む者もいれば、生まれたばかりの子どもの写真を送る者もいた。
結婚式当日は、駅から一緒に会場へ向かおうと約束している同期もいるらしい。
紗季のことも、たまに真琴から聞く程度だった。
最近は大学時代の集まりにもほとんど顔を出していないという。偶然会った同期に、俺の結婚式はもうすぐかと聞いたことがあったらしいが、「そうだよ」と答えられると、それ以上は何も聞かなかったそうだ。
湊については、さらに情報が少なかった。
海外へ戻ってから、以前よく書き込んでいた同期のLINEグループもいくつか抜けていた。
結婚式前の一週間は、毎日のように確認事項があった。ホテルとは披露宴の最終進行と出席人数を確認し、衣装も最後のサイズ調整に入っていた。
用意したプチギフトの数も改めて確認した。千紘とはもう一度会場へ行き、当日出すデザートやドリンクも一通り試した。
以前、結婚式の準備をしていた時は、俺一人でチェックリストを持ち、同じ項目を何度も見返すことが多かった。
今、テーブルの上に広げた資料には、二人分の書き込みがある。
ホテルへの連絡は俺が担当し、千紘は招待客のアレルギー情報を確認する。彼女が忙しい日は俺が印刷物を受け取り、俺が仕事で動けない時は、千紘が病院の休憩時間にカメラマンへ返事をした。
結婚式前日の夕方、最終調整を終えた衣装を受け取って帰宅した。
家に着くと、寝室の姿見の前でもう一度袖を通した。濃い色のタキシードは肩のラインもきれいに直っている。
袖口を整えていると、後ろでドアが開いた。
今日は珍しく早く仕事を終えた千紘が、淡いピンクのバラを抱えて立っていた。
俺の姿を見ると、足を止めた。
肩から鏡の中の俺までゆっくり見て、それから笑う。
「似合ってる。前に試着した時より、ずっときれいに合ってるね」
鏡越しに千紘を見る。
「本当に?」
「うん。明日、会場でちゃんと着たらもっと似合うと思う」
千紘が後ろへ来て、鏡の中に二人並んだ。
夕日が差し込み、近くに並んだ左手の指輪へ光が当たっていた。
「でも明日は、今より絶対緊張すると思うよ」
「自分はしないみたいな言い方だな」
千紘が笑った。
「私もするよ。ただ、悠真よりは上手く隠せると思う」
手を伸ばし、俺の襟元を少し整えた。
鏡の中で、彼女の左手の指輪が一瞬光る。
十八歳だった頃のキャンパスが、ふと頭に浮かんだ。夏のケヤキ並木を、白いシャツの紗季が歩いてくる。すれ違いざま、俺の手のひらに飴を一つ置いていった。
そのあとに浮かんだのは、卒業写真だった。シャッターが切られた時、紗季は俺の右隣に立っていた。
記憶の中の彼女は、その写真の中で笑っている。
「少し曲がってる」
千紘の声で、視線を鏡へ戻した。
彼女がネクタイの位置を直していた。
やがてバラをテーブルへ置き、ついでにタキシードの裾を軽く整える。
「そろそろ脱いだほうがいいよ。明日は一日中着るんだから、今から疲れないで」
「分かった」
俺がカフスを外し始めると、千紘はもうキッチンへ向かっていた。
途中で振り返る。
「夕飯、何がいい?」
「軽いものでいいよ」
「じゃあ、うどんにしようか。冷蔵庫にネギと卵もあるし」
「それでいい」
千紘はそのままキッチンへ入った。
俺がタキシードを脱いでハンガーへ掛ける頃には、冷蔵庫を開ける音と、湯を沸かす音が聞こえていた。
スマートフォンの画面が光る。
結婚式場から届いた、最終確認のメールだった。
最初から最後まで目を通し、返信する。
「内容、確認いたしました。明日はどうぞよろしくお願いいたします。」
送信を終え、スマートフォンをテーブルへ戻した。
キッチンでは、もう湯の沸く音がしている。
明日の朝、俺は千紘と一緒に結婚式場へ向かう。




