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第二話 左靴だけでも返せと言われましても

 王宮を出たあと、わたしが最初にしたことは、泣くことではなかった。


 王太子殿下の左靴を追いかけた。


 婚約破棄された令嬢の行動としては、たぶん変だと思う。けれど、靴は思ったより足が速かった。大広間を抜け、王宮の廊下を滑り、門番の足元をすり抜け、王都へ続く石畳の道をまっすぐ進んでいく。


 夜の王都は冷えていた。


 建国祭の灯りはまだあちこちに残っている。屋台の片づけをする人々の間を、片方だけの絹靴がすいすい進むものだから、通行人が何度も振り返った。


「お嬢さん、あの靴は」


「未払いです」


「未払い」


「はい」


 説明すると、屋台の老人はなぜか深く頷いた。


「そりゃ帰るな」


 そういうものなのだ。


 物は、人が思うよりよく覚えている。誰が丁寧に作ったか。誰に粗末にされたか。誰の手元へ戻りたいか。


 靴がたどり着いたのは、王都西区の古い靴工房だった。


 小さな看板には、ノーラ靴工房と書かれている。扉の前で靴は一度止まり、つま先でこつこつと木戸を叩いた。


 しばらくして、白髪の女性が扉を開けた。


「こんな夜中に誰だい……って、あんた」


 ノーラさんは、足元の靴を見て目を丸くした。


 それから、わたしを見た。


「リネット様。まさか、その靴」


「帰ってきました」


「本当に帰ってきたのかい」


 ノーラさんは靴を拾い上げ、両手で包むように抱えた。怒るかと思ったけれど、彼女の顔に浮かんだのは安堵だった。


「よかった。履きつぶされる前で」


「王宮衣装局からの代金は、まだ」


「一銅貨も来ちゃいないよ。請求書を三回出したけど、王太子殿下の式典用だから名誉に思えって言われた」


 名誉。


 それは、代金を払いたくない人が使うには便利すぎる言葉だった。


「ごめんなさい。わたしが王宮にいた間に、もっと強く確認すべきでした」


「リネット様が謝ることじゃない。あんたは前にも、うちの孫がなくした金具入れを探してくれたじゃないか」


 ノーラさんはそう言って、靴の底を確かめた。


「片方だけってのが困るけどね」


「もう片方も、そのうち帰ると思います」


「王太子殿下、今ごろ裸足かい」


「片足は残っています」


「なら歩けるね」


 真面目な顔で言われたので、わたしは少しだけ笑ってしまった。


 そのとき、店の前に馬車が止まる音がした。


 王宮の使者かと思って身構えたけれど、降りてきたのは黒い外套の男性だった。建国祭の広間で、勲章を受け取った方。


 カイラス・ノルヴァルト辺境伯。


 彼は店の中を見回し、ノーラさんに軽く頭を下げた。


「夜分に失礼する。リネット・ベルフォード嬢を探していた」


「わたしに、何か」


「まず、礼を言いたい」


 カイラス様は、胸元から銀の勲章を取り出した。古い布で包まれている。つい先ほどまで王太子殿下の胸にあったものとは思えないほど、丁寧に扱われていた。


「兄の勲章を返してくれて、ありがとう」


「わたしは糸をほどいただけです」


「それでも、戻った」


 彼は静かに言った。


「兄は北境の砦を守って死んだ。あの勲章は、兄の妻と子へ届けるはずだった。紛失したと聞かされてから三年、墓前に何も置けずにいた」


 胸が痛んだ。


 失くした物は、ただの物ではない。帰ってこなかった年月ごと、誰かの心に穴を開ける。


「本当に、申し訳ありません」


「あなたが謝ることではない。むしろ、あなたが糸をほどかなければ、私は今日も知らないままだった」


 そう言ってから、カイラス様は店の棚に置かれた左靴を見た。


「それも帰ってきたのか」


「はい。未払いでしたので」


「王宮らしい」


 短い言葉だった。


 けれど、そこには笑いではなく疲れがあった。北境の物資や報告も、王宮で同じように扱われてきたのかもしれない。


 ノーラさんが奥から温かい茶を出してくれた。


 その茶を受け取ろうとしたとき、店の外で小さな泣き声がした。見ると、まだ十歳くらいの男の子が、薬屋の紙袋を抱えて立っている。


「どうしたんだい」


 ノーラさんが声をかけると、男の子は涙をこらえながら答えた。


「母さんの薬を、どこかに落としました。探したけど、見つからなくて」


 わたしは立ち上がった。


「袋を持っていた手を見せてください」


 男の子は戸惑いながらも、手を差し出した。指先に、薄い緑の糸が残っている。薬草の匂いがする糸だ。


 糸は店の前の石畳を渡り、雨水用の側溝へ伸びていた。


「大丈夫。近くです」


 わたしは外へ出て、側溝の蓋を少しずらした。中に、紙袋が引っかかっている。濡れてはいたが、中の薬瓶は無事だった。


 男の子は袋を抱きしめた。


「ありがとうございます」


「次からは、袋の紐を手首に通してください。夜は道が混みますから」


「はい!」


 男の子は何度も頭を下げ、走っていった。


 それを見送ったあと、カイラス様が口を開いた。


「あなたの加護は、落とし物拾いではないな」


「王宮では、そう呼ばれていました」


「王宮の呼び名が正しいとは限らない」


 その言い方は、妙にまっすぐだった。


 わたしは少し困って、茶碗の縁に目を落とした。婚約を破棄されたばかりなのに、誰かに仕事の価値を認められると、胸の奥が思ったより熱くなる。


 そこへ、今度こそ王宮の使者が駆け込んできた。


 息を切らし、外套の裾を乱している。彼はわたしを見つけるなり、ほっとしたような顔をした。


「リネット様! 王太子殿下のご命令です。ただちに王宮へ戻り、殿下の左靴を返してください」


 ノーラさんが靴を抱え直した。


 わたしは使者に向き直る。


「靴を戻すには、まず代金の支払いが必要です」


「そのような細かい話は後ほど」


「三か月前にも、同じことを言われたそうです」


 使者は言葉に詰まった。


「殿下は、大変お怒りです。式典の途中で片方だけ靴を失ったなど、王家の威信に関わります」


「靴職人への未払いも、王家の威信に関わると思います」


 ノーラさんが小さく息を呑んだ。


 たぶん、貴族の娘が王宮の使者にそんなことを言うとは思わなかったのだろう。自分でも少し驚いていた。けれど、今夜のわたしは王太子の婚約者ではない。


 王宮の落とし物係でもない。


 ただ、帰りたいものを帰す人間だ。


「支払いと謝罪が確認できるまで、左靴は戻りません」


「靴に謝罪など」


「使者殿」


 それまで黙っていたカイラス様が口を開いた。


 低い声だったが、店の中の空気が引き締まった。


「職人への謝罪だ。物を作った者に代金を払わず、名誉という言葉で済ませるなら、北境は王宮からの発注を今後信用できない」


 使者の顔が青くなった。


 ノルヴァルト辺境伯家は、北境防衛の要だ。王宮にとっても無視できない相手なのだろう。


「……殿下に、お伝えします」


「それと、リネット嬢は今夜、私が保護する。婚約を破棄された令嬢を、夜中に一人で王宮へ連れ戻すことは認めない」


 はっきりした言葉だった。


 守られて嬉しいというより、仕事の話を仕事として扱われたことが嬉しかった。


 使者が去ったあと、カイラス様はわたしに向き直った。


「勝手に言った。迷惑なら撤回する」


「いいえ。助かりました」


「なら、もう一つ頼みたい」


「頼み、ですか」


「北境の冬越し物資が消えている」


 ノーラさんの店の奥で、針箱の蓋がことりと鳴った。


 カイラス様は続ける。


「防寒外套、毛布、薬草、乾燥豆、炉用の魔石。王宮の記録上は納品済みだが、砦には届いていない。輸送中の事故とも、盗賊とも説明されてきた。だが、量が多すぎる」


「失くしたのですか。それとも、奪われたのですか」


「それを知りたい」


 彼は懐から一枚の木札を取り出した。物資箱に付けられていた封札らしい。北境の狼をかたどった焼き印が入っている。


 わたしはそれに触れた。


 瞬間、指先に冷たい糸が絡んだ。


 太い。


 重い。


 それは王都の北門へは向かっていなかった。北境でもない。糸は王宮の方角へ伸び、さらに白い礼拝堂の奥へ潜っている。


「見えましたか」


 カイラス様が尋ねる。


「はい」


 わたしは木札を握りしめた。


「この物資は、迷子です」


「どこにいる」


「王宮です。正確には、聖女様が使っている白い礼拝堂の近く」


 カイラス様の目が細くなった。


 王宮の靴や勲章とは違う。


 これは誰かの冬を奪っている。兵士が寒さに震え、薬を待つ人が苦しみ、食卓から豆の煮込みが消えるほどの量だ。


 わたしは木札から伸びる糸を見つめた。


「お受けします。ただし、正式な依頼書をください。報酬と権限も明記してください。もう、無償で王宮の都合を整えるつもりはありません」


 カイラス様は、少しだけ目元を和らげた。


「もちろんだ。あなたの仕事に、正当な報酬を払う」


 その言葉で、胸の奥の結び目がまた一つほどけた。


 帰りたいものがある。


 返さなければならないものがある。


 そして、わたしの仕事を必要としている人がいる。


 婚約を破棄された夜は、まだ終わっていない。


 けれど、行き先だけは決まっていた。

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