土曜日 「碧夜に墜ちる解体旋律――すべてを更地に還した後に、永遠の泥濘で抱きしめる」
眠らない彼は、月夜と共に敵都へ向かう。そんなことは騎士たちに任せればいいのに、すぐ帰ると言って、貴方は私の声がする方へと手を振ると、白い駿馬に乗って声の届かぬ場所へと去っていく。かつては、その振動の余韻だけで彼の居場所も、体温も、筋肉の動きさえも手に取るように分かったのに。
「……っ」
さっきまでコツッ、コツッと床を叩いていた私の歩調は、いつの間にか、粘りつくような「スュー」という滑らかな移動音に変わっていた。二本の足で地を蹴るリズムは、もうどこにもない。代わりに、人の足よりずっと安定した、長く重い蛇のような尾が私の背後から続き、冷たい床を這いずっていた。
時間がこんなにゆっくりと刻むだなんて。私は、何度も何度も高い位置にある小窓から星を眺めては、あの人の鼓動が聞こえるのを待っている。
「オリオス様……まだなの……」
独り言が、冷たい円壁に跳ね返り、私のもとへ戻ってくる。永遠とも言える、私の言葉が木霊するこの部屋で、私は自分の鱗が擦れる音と、自分の声の残響だけを数えていた。
――追いかけよう、かしら……。
その一言が、静まり返った部屋の中で、誰よりも私自身の耳を惑わせる。私の姿を見て呪いが掛かってしまうなんて、ただの、臆病な私の考えすぎた迷信に思えてきた。
……でも、もし本当に掛かってしまったら。それがどんな形で彼に降り注ぐのか、私にさえ分からない。
なぜ、私にはこんな記憶があるのか。この翼が、この尾が、そしてこの喉が、愛する者を破滅させるという確信。それは理論ではなく、血に刻まれた本能でしかなかった。
けれど、皮肉なこと。この禍々しい鱗を纏った今の私こそが、最も深く音を理解し、最も美しく世界を奏でられる。この最麗な姿ともたらす音の才能を、私は何よりも誇らしく、そして恐ろしく思っている。
(――キキラ、と鱗が朝光を弾く)
――あ、太陽が昇るだけで、谷の全てが一斉に音を奏でてくる。
小窓から差し込む一筋の光が、私の鱗に触れた瞬間。岩肌を撫でる風の囁き、遠い山脈が朝露に濡れる音、土の下で目覚める命の鼓動……。世界のすべてが、私の身体に向かって、歓喜の合唱を捧げているのがわかる。
私の全身も、その祝福に応えるように軽やかに跳ねる。重かったはずの翼は、今や指揮者のタクトのようにしなやかに空を打ち、私を最高の高揚感で満たしていく。
「オリオス王子。ご帰還なさいます」
私たちの住居の外には、騎士の数人が戻って来たようだ。その報告が聞こえた瞬間、はるか遠く、地平線の彼方に消えていたはずのオリオス王子の鼓動が、私の鱗を震わせて戻ってきた。
(ドクン、ドクン……)
ああ、なんて懐かしく、安らかな音。昨夜、二人で世界を蹂躙した時のあの熱い安堵感が、私の内側に一気に膨れ戻って来る。今すぐにでも駆け寄って、その白磁の胸板にこの身を預けたい。
でも、貴方には会えないと言うのに、繊細な設計の鍵など待たずに扉を力ずくで開いたようだ。「ガァン!」と響く破壊の音さえ、今の彼には心地よいリズムの一部らしい。
「メルリュア? どこにいる。面白いものを見せてやろう」
鼻歌混じりの、あまりにもご機嫌な声。彼は迷路の構造を楽しむように、あるいは獲物を追う獣のような足取りで、私を探している。私は迷路の最奥で、蛇の尾を丸めて身を潜める。
「来ないで……オリオス様。今の私は、貴方を壊してしまう呪いそのものなの……」
私はこんなに必死に、貴方のための「完璧な不滅」を守ろうとしているのに。当の貴方は、私がいない間にどれほど楽しい「破壊」を経験してきたのか、その足音だけで分かってしまう。
私がいなくて寂しかったのは、私だけ。貴方は私がいなくても、一人で鮮やかに世界を塗り替え、あんなに晴れやかな声で笑っている。
普通の人間なら、私の声がどこから響くのかさえ分からず、この迷路に一生を奪われることでしょう。けれど、今の彼にとっては、ここは少し部屋の多い館と変わらないようだった。私の設計した「迷い」も「拒絶」も、彼の前では存在しないも同然。
「……来ないでください」
私の喉から漏れた声は、震えていた。もう最奥の部屋までは、障壁などはなく、扉のないたった一枚の壁だけ。
この薄い壁の向こうに、あの方がいる。その壁さえ越えれば、彼は私の「最麗」な異形を目にしてしまう。私がこれほどまでに恐れ、大切に守ってきた「呪い」の正体が、白日の下に晒されてしまう。
(――トントン、と壁を叩く軽い音)
「メルリュア、大丈夫だ。何があっても二人で越えられるだろ」
壁越しの、あまりにも優しく、揺るぎない声。私は震える手で壁に触れる。この壁一枚向こう側に、私のすべてを肯定してくれる「不滅の王」がいる。
「……本当に、いいのですか? 私が、こんな姿でも。貴方を破滅させる呪いであっても」
私は壁越しに、震える声で問いかける。最麗な鱗に身を包み、人ならざる音を奏でる今の私を、白日の下に晒す恐怖。けれど、返ってきたのは、迷いも濁りもない断言だった。
「呪いだろうと構わない。お前が俺を作ったんだ。呪いと言うなら、俺がすでにお前の呪いだ」
その瞬間、たった一枚の壁が、音を立てて崩れ落ちた気がした。部屋に迷い込む疎らな光が私の鱗を駆け上り、一箇所に集まっては残酷なほどに私を照らし出す。
その逆光の中で、オリオス様は私を見つめ、戸惑いもなくその白磁の手で私を掴み寄せた。そして、異形となった私を、まるで壊れ物を扱うように、けれど逃がさぬよう力強く抱きしめる。
「ああ……メルリュア。お前は、昨夜の蹂躙よりもずっと美しい」
見上げるほどに巨大化した私の体に対し、オリオス王子の頭は、私のお腹辺りの高さしかなかった。
けれど、彼には恐れなど微塵もなかった。
私は、溢れ出す愛おしさと、肯定された悦びに震え、腕や胸、そして長く重い尾で、彼を絡めとるように抱きしめ返した。
(スュー……、ギチチ……)
鱗と肌が擦れ合い、私の巨大な質量が彼を包み込んでいく。普通の人間なら、このまま握り潰され、私の「呪い」に溶けて消えてしまうでしょう。けれど、彼は私の不気味な心音さえも、心地よい子守唄のように受け入れている。
「……オリオス様。これでもう、離れられませんね。貴方と一緒になるための私の愛なのですから」
私は彼の耳元で、人ならざる声で囁く。彼を私の「檻」の中に引きずり込んだという、甘い勝利の確信。
しかし、それは瞬きのような時間だけでしかなかった。
窓からの明かりが、朝の黄金に冷ややかな碧へと混じり始める。その光の変化に呼応するように、オリオス王子は、ほんの少し息を含むだけの力で、私の抱擁を解いてしまった。もう、何も食べなくても睡眠をとる必要もない貴方は一体どこへ行きたいのか。
「俺の騎士たちが休んでいる今だけ帰ったんだ。一年もしないうちに、国は落とすことが出来るはず。それまで待っていてくれ」
その言葉が、私の耳を冷たく通り抜けた。
「……なぜ嘘を言うの? 一年? いいえ、オリオス王子。貴方は一秒たりとも、この場所から離れることは許しません」
抱擁を解いた体をもう一度、今度は本気で力を込めて引き寄せた。柔らかな愛の抱擁は、一瞬にして硬質な「檻」へと変わる。輝く私の鱗が、彼の白磁の肌を容赦なく締め上げる。私の巨大な尾が、彼の胴体を、四肢を、絡めとり、二度と動けぬよう拘束した。
「メルリュア! 何をする、離せ! 俺は行かねばならんのだ!」
抗うオリオス王子の肌から、パチパチと拒絶の火花が散り始める。すると、あの方の白い肌に、私と似た鱗の模様が虹色に浮かび上がった。私が彼に授けた不滅の証。私の一部。皮肉なことに、あの方は私自身の魔力を使って、慣れていないはずの私の束縛をするりと抜け出し、素早く距離を取ってしまった。
「またすぐ会えるさ」
あの方は……勝ち誇ったような、あるいは酷く無関心な笑顔でそう言った。
「待って……行かないで……!」
私は必死に、彼を引き留めるための歌を喉の奥から絞り出す。けれど、扉の向こうへ消えていく背中に、私の声はもう届かない。
その瞬間、私の中で何かが、音を立てて弾け飛んだ。愛を拒絶するために私の力を使うというのなら、その力の源であるこの城も、貴方の居場所も、すべて私の手で「無」に返して差し上げる。
私は重い屋根を突き破り、碧い夜空へと舞い上がった。
その姿は、もうあの狭い部屋の中で窮屈そうに畳み込まれていた翼や尾ではない。解放された巨躯から、そして集光された鏡鱗から放たれる無数の「光の線」が、鋭い熱を持って地面を走り、中空を泳ぎ出す。
それはまるで、夜を切り裂く極細の光刃。私が設計したこの世界の構造線をなぞるように、容赦なく大地に「解体」の線を描いていく。
碧夜には、真ん丸な可愛い私の目のような満月が地平に転がっている。背に広がるのは、月光を透かし絹のように頼りなくも、鞭のようにしなる柔翼。
「化け物め……! その姿で、私を欺いていたのか!」
地上から届く、滑稽なまでの絶叫。私が放つ光の線が、彼が執着した城壁を、塔を、そして彼自身の足元を、熱線となって焼き切り、崩落させていく。
――失礼しちゃうわ。
この翼のどこが、化け物だというのかしら。この光こそ、貴方を不滅へと導いた、この世で最も美しい「設計図」の光なのに。
私は一度も振り返らず、碧い静寂の中へ消えていく。縦横無尽に走る光の線が、あの方の愛した世界を、最後の一欠片まで更地へと変えていく音を背中で聞きながら。
碧い月より高く飛んだ私に見えたのは、縦横無尽に走る光の線で変わる地形だった。それは、私の激情が形を成した、無慈悲な裁断。
羽ばたくたび、光の刃が大地を撫で、城壁を紙細工のように切り裂き、兵たちの叫びもろとも街を更地へと変えていく。敵も、味方も、あの方が執着した権力も。すべてを等しく、ただの「砂」へと還元していく。
あっという間に静まった地上から、一つの音が聞こえた。
私はゆっくりと、光の粒子を振りまきながら舞い降りる。かつて白亜の美しさを誇った「不滅の王子」は、今や崩れた瓦礫の下で、泥と埃にまみれ、見るも無惨な姿で横たわっていた。
あんなに晴れやかだった瞳は光を失い、焦点も合わずに虚空を彷徨っている。肌に浮かんだ虹色の鱗は、命の灯火が消えかけるように力なく明滅していた。
「……める、りゅ……あ……?」
私の気配に気づいたのか、彼は血の混じった泥を吐きながら、震える手を伸ばした。あんなに傲慢に、私を振り払って外の世界へ行こうとした手。今は、私に縋らなければ、息をすることさえままならない。
「ええ、ここにおりますわ。私の、可愛い泥の王子様」
私は冷たい鱗の指先で、彼の目蓋を優しく撫で、閉ざさせた。もう、この方は外の世界を見る必要も、蹂躙を夢見る必要もない。光を失ったこの瞳には、これから先、私の姿だけが、音と感触として刻まれていけばいいのだから。
私は、息も絶え絶えな彼を、巨大な尾と柔翼で優しく、けれど絶対に逃がさぬよう包み込んだ。
「さあ、帰りましょう。あの静かな、泥濘の森へ」
あの日、彼を拾い上げたあの場所。そこには、もう誰も来ない。あの方を奪う戦場も、誘惑する国も、何もない。ただ、私という名の「檻」だけが、永遠に彼を温め、守り、支配し続ける。
私は彼を抱いたまま、碧い夜の静寂へと消えていく。かつて彼を「不滅」にした私の愛は、今、彼を「永遠の虜囚」にするための呪いへと、美しく完成した。




