金曜日 「孤絶の墓標と裏切りと――鱗に沈む魔女の献身と、破壊に酔いしれる空虚な王」
「オリオス王子……、心配致しておりました」
騎士ダリムですら、若返ったような瑞々しい声でそう告げた。
天幕の中、オリオスは彫像のように立ち上がった。昨夜、私の胸元で爆発するように鳴り響いていたあの凄まじい拍動は、今はもう、深い地層の底を流れる水脈のように静まり返っている。
王子は、しっかりと大股で歩き出し天幕の外へと出た。
そして、金曜日の朝日を全身で浴びた。
かつての枯れ果てた紙のような質感ではない。不純物を一切排除し、丹念に磨き上げられた白磁、あるいは最高級の大理石を思わせる、硬質で、それでいて滑らかな輝きを帯びていた。
――ああ、この「肌」、これって、私好みみたいだわ。
私がその肌から反射された色を、うっとりと目を細めて眺めている間、背後ではダリムさんが私たちの衣服を捧げ持ったまま、その場に縫い付けられたように立ち尽くしていた。
私には聞こえる。近づいて来る響く筋肉の弦、肌の張りの音が。
「ありがとうメルリュア。変な夢を見ていた気もしたが、君がずっとそばにいてくれていたのは感じていたよ」
そう言って私を抱きしめてくれたし、キスもしてくれる。
私の心臓のリズムを分け与えただけなのに、オリオス王子は惜しみない愛情を私に注いだ。
同じものを体に感じるだけで、私も愛をあげている感じだ。私の内側で鳴っていたあの旋律が、今は彼の白磁の胸板の奥で、寸分狂わず共鳴している。その振動が肌を通じて伝わってくるたび、彼が私の「所有物」であり、私自身でもあるような、奇妙な充足感に満たされていく。
私を離すと、彼はダリムさんから私のコートを受け取り、丁寧に肩に掛けてくれた。そのあとだ。オリオス王子は、遠巻きに私たちを伺っていた騎士たちを鋭い眼光で呼び寄せた。
「そこのお前。剣を抜け」
戸惑いながらも差し出された一振りの剣。朝日を跳ね返すその鋭利な刃を、王子は躊躇いもなく、その白い素手でゆっくりと滑らせた。
(キィィィィィィィン……)
混じりけのない金属がささやく音。両手で捧げた剣をオリオス王子は受け取ると、いきなり自身の胸板を切りつけた。傷などはない。私はその音を聴けば、皮膚や胸毛の一本と切断されたものはないとわかっていた。しかし、まわりの騎士たちには困惑の心音が高鳴るだけだ。
「切ってみろ」
無傷の掌を眺めたまま、オリオス王子は剣を返した騎士に唐突な命令を下した。王子はまるで今日の天気を尋ねるかのように気楽な調子だったけれど、命じられた騎士の顔には、一瞬で滝のような汗が湧き流れる。
「……っ」
騎士の腕が、恐怖で細かく震えている。それでも、彼が王子の剥き出しの腕に刃を滑らすことができたのは、主君への狂信的な忠誠の証なのだろう。
(スゥー……)
肉が切れる音ではない。引き絞られた刃は、しかし王子の白磁の肌を割ることはおろか、産毛一筋さえも傷つけることができてはいなかった。
「……そこまでだ。下がれ」
ダリムさんの鋭い声が掛かる。それを合図に、ふらつき、今にもその場に倒れ込みそうだった騎士は、弾かれたように後ろへ下がった。
「王子よ、儂の一振りでしたら満足ですかな」
ダリムが一歩前に出た。その声は先ほどまでの瑞々しさではない、古びた大木が断罪の重みに耐えかねて軋むような、重厚な響きを帯びていた。
「ああ、試してもらうつもりだった……」
オリオス王子の言葉が終わる前に、ダリムさんの剣が走った。迷いのない、最速の抜刀。
鋭い一閃は王子の肩口から入り、無防備な脇腹へと斜めに駆け抜ける。
(――ガツォンッ!)
鉄塊に剣を振り下ろして折れた音とも違う、それはより、目に見えない強固な魔法の壁を叩いたような、硬質で、絶対的な拒絶の響き。王子の肌に触れる瞬間にその威力を完全に殺され、逃げ場を失った衝撃が剣自体を真っ二つに別れさせていた。
「……信じられん。儂には大した衝撃はなかった。これが、お嬢様の力ですかな」
ダリムさんの声は、困惑と喜びに濁って聞こえる。普通の実体を持つ金属を、ただ、ただ寄せつけないだけの私の肌。これまでは単なる「私自身のスペック」でしかなかったけれど、今は、彼にあげられてよかったと思う。
「もちろんメルリュアの力だ。その剣で傷一つつけられないのは、お前でも初めてではないのか、ダリム」
オリオスが、朝日の中で眩しく輝く腕をなぞりながら愉快そうに笑う。彼が自分の「強さ」を誇るたびに、私の一部が彼の中で誇らしげに共鳴しているようで、なんとも言えない充足感が込み上げてくる。
「満足したなら行くぞ、ダリム。……この新しい体で、私はこの戦のすべてを終わらせる」
オリオスは、砕けて転がる剣の破片を無造作に踏み越えて歩き出した。私はコートを羽織り直し、私のリズムを刻みながら遠ざかる背中を追う。大股で進む彼の足音。その振動が地面を伝い、私の心臓と共鳴して心地よく響く。
ああ、このままオリオス様と駆け巡りたい。ずっと一緒に、世界に私たち二人だけになっても。けれど、私の胸の奥に、急激に冷たい氷のような予感がかすめる。
――明日は、土曜日。
あの姿は見せてはならない。
私の中の「それ」が露わになれば、きっと彼を不幸にする呪いが掛かってしまうから。そう感じるのは彼と奏でる音が同じだからか、
――それとも、愛。ゆえに、呪い。
一週間がこんなに早いなんて感じたことはなかったのに……。
けれど、今はただ、いい。
また二人で馬に乗り、戦いに赴く。その間だけは、余計なことは考えなくてもいいのだから。
オリオス様は、鎧さえ身に着けていない。ただの駑馬に揺られるその姿は、兵士とさえ見なされないだろう。同じような文化を持つこの地の敵軍からすれば、良くてもどこかの低級貴族か、あるいは世間知らずの若輩に見えるのかしら。
かつての「泥王子様」だった時よりは、いくらかましな格好。けれど、その実態はあらゆる鋼を弾き返す、私の最高傑作。
彼はたった一騎、悠然と敵城へ向かって馬を出し始めた。私はその隣にぴたりと寄り添い、彼が踏みしめる土の音、そして彼の中から聞こえる私の「心臓」の共鳴に耳を澄ませる。
(パカッ、パカッ……)
のどかな蹄の音。けれど、その先に待っているのは、血と鉄がひれ伏す蹂躙の時間。オリオス様の横顔は、まるで午後の散歩に出かけるかのように穏やかで、そのことが何よりも私の心を昂らせた。
「ふ、ダリムが兵をまとめて来る間に更地にして見せようか」
オリオス様は、前方に見える敵城を眺め、冗談でも飛ばすかのように軽やかに笑った。かつての絶望的な泥王子様はもうどこにもいない。そこにいるのは、私のスペックを纏い、世界のすべてを見下ろす不滅の王。
「そうしたら二人で……いいですよね?」
「もちろんだ」
その答えを聞いた私は、深い安堵とともに、彼の広い背中をぎゅっと抱きしめた。馬の揺れ、伝わってくる彼の体温、そして重なり合う心臓のリズム。
私は目を閉じ、小声で歌い出した。
けれど、それは何かを新しく建てるための祝福の歌ではない。次の太陽が私の姿を――土曜日の私を見るまでに、完成させておかなければならないものがある。彼を傷つけるものすべてを排除し、彼が安心して「王」でいられるための、完璧な城壁。
口ずさむメロディは、複雑な構造計算と魔力回路の配置を編み上げるための、冷徹な設計図。
私は歌う。彼が敵を蹂躙し、すべてを更地にするその傍らで。私は、土曜日の呪いが彼に届かないよう、彼という最高傑作を守るための「檻」を、心の中で組み上げていく。
(パカッ、パカッ……)
のどかな蹄の音に、私の不穏な設計図が重なる。さあ、オリオス様。存分に壊して。
その後に残った更地の上に、私が最高の終焉を建ててあげるから。
谷底の切り立った岩壁に挟まれたその場所は、逃げ場のない隘路。そこに関門のように、立ちはだかるのがキー城だった。見上げるような高い外壁の上、いくつもの篝火が夕日を背景に赤く照らしている。炎が揺らめくたびに、石造りの城塞が、まるで大火事の最中にあるかのように見えてしまうほどだった。
その壁面から、火で作った流れ星が私たちに纏い、降り注いできた。この駑馬まで焼いてしまうのは可哀想なので、私たちは降りて、軽く叩き自由に逃がしてあげた。
それを待っていたかのように、火矢が激しく飛び交い始める。
(トシュッ、チリリリ……)
乾いた音を立てて、矢が王子の体に突き刺さろうとしては、無力に弾け飛んでいく。私の目の前にいる彼は、自慢の肌こそ傷一つつかないけれど、纏っている立派なコートが焼けて焦げていくことさえ気にしない。
「……私が、お持ちしましょうか」
焼けた布が彼の完璧な肌を汚すのが、私はただ、我慢ならなかった。けれど、オリオス様は短く首を振った。
「いや、それはもういい。……それより。先日の魔法戦で懲りたはずだが、君がいたのなら仕方ないのか。狭い城の長所だな、魔法で守りを固めている」
王子の視線の先、堅牢な城門の表面に、幾何学的な光の紋様がぼんやりと浮かび上がった。
物理的な衝撃を吸い込み、跳ね返すための「魔障壁」。
それら完璧な障壁の火矢の間にも、純粋な魔力が確実にオリオス様に飛んで来るのが見えた。
(ドィリリィーン――!)
鼓膜を突き刺すような高周波とともに、視界が真っ白に染まった。
ああ、これはかなり熱いはず。
光の渦に包まれている彼の、あの完璧な白い肌が、熱に焼かれて赤らんでいるのが見えた。けれど、彼は一言も喘ぎもしない。ただ、その熱を愉しむかのように、あるいは自身の無敵を再確認するかのように、悠然と光の中に立ち続けている。
「魔法熱が心地よい……。メルリュア、君の愛はこんなにも強固なのか」
光が収まった。そこには、先ほどまで詠唱のために城壁に姿を晒していた魔法使が、背をそった形で宙に浮いていた。既に音を奏でる人ではない。
ほんの一瞬だけ減衰していた……、雑音すらも。
火矢の風を切る音も、兵士たちの怒号も、すべてが「不滅」の前に気圧されたかのように。その隙に、オリオス様は今度は二人の敵兵を捕まえていた。敵兵たちはまるで見えない巨大な手に自由を奪われたかのように、空中に縫い付けられ、もがくことさえできずにいる。
私たちへの攻撃が止んだ。城壁の上で弓を引き絞っていた兵士たちが、全く頭を出さなくなった。自分たちの仲間を巻き添えにする恐怖か。それとも、何を放っても無駄だという、本能的な悟りか。
「キー城の者ども――それは無意味だ」
オリオス様の朗々とした声が、減衰した静寂を切り裂いて響き渡る。彼は、捕らえていた兵士たちを持ったまま、その白磁の巨大な両手を、既に魔法の守りを失い弱まりきった壁へと重ねた。
(――ゴォォォォン……ッ!)
それは、まるで巨大なティンパニの膜を打ち鳴らしたかのような。一打。ただの一打で、城という巨大な楽器は致命的な亀裂を刻まれ、その構造を維持する術を失った。
……もう、城の中にいる者たちは、頭の中の反響しか聞こえていないだろう。外壁を、柱を、屋根を伝わって、逃げ場のない振動が彼らの脳髄を直接揺さぶり、思考を真っ白に塗りつぶしていく。
「……っ、ああ……」
こんな私を揺さぶる音を出してくれるなんて。これだけの音なら、助けを求める叫びも、慈悲を乞う祈りも、自分自身の鼓動や呼吸の音さえ聞こえないはず。死にゆく者たちは、自分たちが消えていく音さえ自覚できぬまま、ただ王子の奏でる「終焉」の一部として瓦礫に溶けていくのだ。
――私は、暗闇の中で歌ってみましょう。
先ほどオリオス様が放った、あの暴力的なまでの重低音。空気に、地面に、そして私の肌にまだこびりついている、大量の縺れ合う音の波をひとつひとつ指先で解いていく。
(♪~とけはぜまざ ひろいる しろいあかいとい やみえるなかとじて)
谷間で見えない月が傾いていた。深い闇が青白く白み始め、世界は残酷なほど正確に時間を刻む。今日はもう、土曜日。私の体の所々から、鈍く不気味な光を放つ鱗が現れていた。「人」の形を維持する限界を超えてまで、私は昨夜の音を解き、編み続けていた。
「……できたのよ。あなた――」
私は嬉しかった。これほどまでに複雑で、大量の縺れ合う音の波を解いて、こんなに早く出来上がるなんて。
谷底に嵌まり立ち上がった大きな円形の建物。それは、昨夜の蹂躙で散った無数の命と、縺れ合った音の波を私が再構築して作り上げた、世界で最も綺麗なお墓。
平地に出来上がったその住居には、出入口がたった一つしかない。外からの汚れを一切拒絶し、中の時間を永遠に止めてしまうための、冷徹な設計。
この迷路のような住居に入るのは、私。誰とも会えないように、変貌し、鱗に覆われ、醜い音を立てて崩れていく私に、それでも太陽の光だけは等しく降り注ぐように。
今日だけ私とは会えないと、彼に言っておいた。
「ごめんなさい、オリオス様。でも、今日だけ……。この土曜日が終わるまでは、どうか一人で行ってくださいな」
私はたった一つの出入口へ滑り込み、重い扉を閉める。この住居の何処にいても、外とは会話が出来る迷路の最奥でも。
「――ではもう一都市、俺だけで落としてくるか」
外に立つ彼からの迷いのない声がした。
まるで、少し散歩にでも行くような軽やかさ。
……なんですって?
私への心配はないの?
私たちだけはどうしたのよ。
二人で世界を設計し、二人で更地を愛でるのではなかったの?
私を失う寂しさよりも、破壊の衝動が勝ってしまうなんて。
遠ざかっていく、あの方の完璧な足音。それは昨日までのどの旋律よりも正しく、そして、私を絶望させるほど冷酷な「独奏」だった。




