火曜日:「眼窩に沈める一玉の愛――零れ落ちた光を飲み干し、私と同じ絶望を見せてあげる」
戦域に広がる草原はどこまでも平坦で、変化に乏しく、つまらない。
けれど、人にとってはそうもいかないらしい。重なり合った魔法戦闘の残滓が、縺れた糸のようになり空間にもつれていて、時と理りを歪めている。
人間の魔法は、あまりに乱暴で無作法。互いに反発しながらも、醜く絡み合い、淀んでいる。ただ体系を組み、魔道の真理を学びさえすれば、時間がこれほどの激流になることもなかったでしょうに……。
オリオス王子は、それを「混沌の星」と呼び。魂を吸い寄せられたかのように、その残滓を凝視して動かない。仕方なく私も隣に並び、その禍々しい輝きを等しく見つめていた――。
「……あなたは気づいていないでしょうけれど」
私の囁きを聞いて、オリオスがかすかに振り向こうとした。いや、それは言葉の意味を理解した反応ではない。ただ、耳朶を打つ繊細な振動に、反射的に意識が揺らいだだけだ。
そして、オリオスの足元が、微かに揺れる。本人はほんの少し虚空を見つめていただけのつもり。けれど、彼がその場に立ち尽くしたまま、はや三日が過ぎていた。
充血し、乾ききったその瞳は、もはや瞬きという作法さえ忘れてしまったかのよう。人間という器の限界をとうに超え、「休む」という概念が脳に届くより速く、無慈悲に時だけが追い越していった。
足元を見れば、彼に従っていた数名の騎士たち。意識をなくし、湿った雑草を寝床にして横たわっている。不眠の円環に囚われ、一睡もできずに力尽きたその姿は、まるで物言わぬ死骸のようだった。
「……ふふ、もう限界なのね。――あなたも、そろそろお休みになられた方がいいわ」
私はそっと王子の背に手を添えた。三日間、瞬きさえ忘れて「星」を凝視し続けたその体は、岩のように硬く、けれど今にも崩れ落ちそうなほどに震えていた。
歌声で彼に安らぎを与えながら、草原の土と少しの石を魔力で捏ね上げ、こじんまりとした部屋を隆起させた。素材が良くないのか、出来上がったのは生物の骨を思わせる、無機質な白灰色の塊。角などは全くないし、私の趣味ではなかった。
「この部屋の中なら、少しは私の魔力で守ってくれるはず」
少し屈みながら、楕円形の扉から中へ入る。そこにあるのは、部屋の半分を占める、固めた泥のベッド。幾枚の雑草を敷いただけのシーツに彼を静かに横たわせた。
記憶の底湖で泳ぐ、一節だけしかしらない子守唄を、彼の耳元で聴かせてあげる。いままで険しかった表情が柔らかくなると、閉じた目から「赤い涙」が零れ落ち、緑色のシーツをどす黒く汚した。
「……無理もないわ。あれだけ異質な虚無を見続けていたのだから」
人間には停止した静寂の地獄に見えても、私にはよく見える。肉眼では捉えきれないほど、世界が、魔法が、そしてあなた自身が、凄まじい熱量を持って暴れているのが。
「ああ、あなたの瞳は、もう限界かしら?」
彼の眼窩に納まっていた黒紅色の宝石を、無造作に引き千切った。……あるいは、組織としての柔軟さを失い、自ら零れ落ちたのかもしれない。
私は、その黒紅色の結晶をそっと口に含む。舌の上で転がせば、それは鉄臭い水飴のようにどろりと溶け出し、魔力の熱を帯びたまま喉奥の滝へと流れ落ちていく。
「……酷い味」
昏々と眠り続ける、私の王子様。起きたところで、今は何も見ることはないでしょう。だから、その宝箱となった虚空に、私の宝石を――。左右の間違いがないように、一玉の愛を込めて、そっと仕舞い込んだ。
もうこれで、道に迷うことはない。虚無を見つめ続けることもないのだから。
「王子様。これからは、この目に映るものだけを信じて」
私に大した痛みはない。彼を想う疼きに比べれば、自らの瞳を抉るなど愛嬌のようなもの。私の眼窩で、既に真新しい瞳が芽吹き、育ち始める頃。オリオスは、その重い瞼を持ち上げた。
「……お、お」
「うふふ。良い声。もう、お目覚めなのね」
「ああ、どう言うことなんだ? この部屋が……透けて見える」
何かに気づいた猫のように、オリオスはベッドから跳ね起きると、そのまま部屋を飛び出した。私もその後を追う。
「父上がいる! だが……距離感が、おかしい……。しかも、世界が……賽の目のように細切れに……。銀色のグリッドが、規則正しく……いや、不規則に、狂い、動いているのか……!?」
情報の奔流に、彼はよろめきながらも、その大量の立方体から目を逸らさず必死に追いかけていた。
「うふふ。立方体の世界は、すぐに落ち着くわ。目が慣れればね」
「そ、そうなのか。ならば……俺はどうすればいいんだ」
混乱し、情報の海に溺れかける彼を、私は優しく、けれど残酷に突き放す。
「あなたの好きなようにしなさい。ただ、『混沌の星』を壊しなさい。その手でね、私の小さな破壊神さま」
その戦域では、「混沌の星」を壊さなければ、王子様には何もできない。けれど、ただ壊すだけなら、子供の猿にだってできるはず。それなのに彼は、ひどく緊張しているのか。「混沌の星」を前にして、ただ立ち尽くし、それを見つめることしかできずにいた。
少し呆れるところがあったけれど。私は、力む彼の肩から、指を滑らせた。逞しくなった腕を辿り、肘を抜けて彼の手へと、己の指を深く編み合わせていく。触れた掌から、嵐の生まれる直前の匂いがした。
「こうすればいいのよ、王子様」
私は彼の耳元で、甘い吐息とともに正解を告げる。そして、二人で編み上げた指を、ただ甘くくすぐり合わせた。その指の動きに連動するように、星が解けてゆく。それはまるで、冷徹な詠唱によって限界まで強撚された魔法の鎖が、一気にその撚りを戻し、分解していくかのようだった。
それなのに。
星を解いた後の王子様は、どうも機嫌が良くないように見えた。父王を救い、味方の窮地を脱したという、この上ない功績を立てたはずなのに。
私の目には、騎士たちの戦気が網の目を潜り抜け、戦域の隅々へと虚しく零れ落ちていくように見えた。ただ一人、熱を帯びて駆動し続ける彼にとって、冷え切っている周囲の温度は、ひどく苛立たしいものだったに違いない。
「誰もついて来てはならぬ」
本心ともつかない声を、騎士たちに投げかける。オリオス王子は私と一緒に、目覚めたばかりの敵陣へと、音もなく踏み込んでいった。
私が、戦域の隅で震えていた一人を、魔力の糸で絡め取る。続いて王子様が掌を開く。
距離という概念は、王子様の前では意味を持たない。彼が通り過ぎただけで、絡められた存在は命じられたように滲み出していく。走馬灯のように散る記憶。万華鏡めいて砕ける感情。そして命を満たしていた体液さえ、土に吸われ、次の血を待つ苗床となる。
(♪~たまるるてん こぼれるち つみあげる)
私たちの通るあとに、ドロリとした〝その〟塊となって球体のまま転がっていた。それは定位置に止まると、音もなく形を変化させ、ひとつの墓となる。
その中央部には、いずれ私たちの居城でも建てようかしら。そんなことを、うっとりと考えていた時だ。
「オリオス王子、おやめください」
遥か遠くから、声が投げられた。草原に吸われ、風にほどける。騎士だというのに、彼らは徒歩だ。魔の気配を嫌ってか、馬の姿は一頭もない。
「魔法戦の混乱で、味方も敵も部隊の体を成しておりません。一度、リド城拠点にお引きください。……カンギャス王はすでに帰還されました」
「気にするな、ダリム」
王子は振り返らない。
「私は妃のために、道を切り開かねばならぬ」
「お妃様……とは、そちらのご婦人、のこと……ですな」
騎士ダリムは、王子の変貌に怯えながらも、確かめるように歩み寄る。私にも届くように投げられた声は、情けなく震えていた。同時に、彼の体からは恐怖が混じった、酸っぱい、胸の悪くなるような香りが漂い出す。
「いいのよ……私は」
その言葉をどう取ったのか。騎士から差し出された王族のコートに私は腕を通した。本来なら王子が羽織るべき重厚な布地は、私の肌に触れた瞬間、艶を失い、どこか異様に静まった。厚い布地で包んでも、私の内からはどうしても滲み出てしまう。人の魔道とは似て非なる、形を持たぬ原始的な気配が。
草原の先、ゆるやかに沈む地平の向こうに、まだ白い煙が上がっている。
戦の名残か、それとも――。
王子は、一度も振り返らない。
コートの裾が、冷たい風に鳴っていた。




