月曜日:「運命を咬みちぎる饗宴――もう、私以外では満たされない身体にしてあげる」
「オリオス。リロア国の第一王子。ラヴェラ・オリオスだ」
それは暗闇の森を出るため、私が手を引きながら彼の名前を聞いたからだった。初めて聞くその音は、私の歌の羽に新しい想像を与えてくれた。
(オリオス……。なんて、硬くて、それでいて脆い響きかしら)
私がその名を唇の上で転がし、歌を呟けば、行く手を阻む底なし沼すら強固な足場へと姿を変える。私の歩む場所すべてが、彼の望む「道」になる。けれど、オリオスにとっては、昨日より少し太った碧月が唯一の道標であり、そしてこの深い森の中では、それは全く頼りない光に違いなかった。
「……私の手を離さないで、オリオス。迷い込んだのはあなたの方なんだから」
振り返ると、そこにあるのは彼の意志を伴う足取りではなく、ただ私に腕を掴まれ、無造作に引きずられる肉体の重みだけだった。
「あらどうしたの?」
オリオスは言葉にならない呻き声を発しているだけで、その瞳を開こうともしていなかった。
「怪我は治したはずでしょ、もしかして歩くのが面倒になったわけじゃないわよね。あなた」
もう一度、心臓の音を確かめる。平気だ、堅樹の扉を叩いているみたいに確りしていた。ただ、その音に混じりお腹あたりから、悪魔の唸りが絶えず聞こえていた。
「そんな体力で、どうやって私のところまでこれたのかしら。ふふ、しょうがないから〝これ〟を食べさせてあげるわ」
私自身も、この姿では柔らかすぎると感じる腹部に手を潜り込ませ、内側から蠢く「肉」の感触を確かめながら、彼に分け与えられるものはないかと探ってみた。
「あ、これがいいわね」
今まで誰かに分け与えたことなど一度もない。けれど、今の彼に必要なものが、自身の内側で熱を持って主張するのを感じ取れた。
掌に乗るほどの、柔らかな肉。
このままでは弱りきったオリオスには持て余すだろう。私はそれを、熟した果実の皮でも剥くように無造作に、一口で飲み込める大きさへと引きちぎった。
指先に絡みつく熱をそのままに、彼の唇へと運ぶ。
鼻腔が跳ねた。
喉が、生命への本能に動いたようだ。彼は口を開くと、私の指をも食べてしまう勢いで、一切れの肉を貪り、飲み込んだ。
「なんだ、この……熱い、汁を含んだ美味い肉は。もう、ないのか……?」
「あわてないで、王子様。まだあるのだから」
自らの腹部に目を落とせば、抉り開けたはずの傷口は既に塞がり、滑らかな肌が戻っていた。
だが、内側から芽吹くような急激な再生の余韻は、彼を想う情熱に似た疼きとして、いつまでも私の奥底に居座っている。
……自分の中に、これほどまでに野性的な本能が眠っていたなんて。
私は手元の肉塊を、今度は少し厚めに、彼の空腹という獣を黙らせるのに十分な重みを持って引きちぎった。
「おお、これだけで……満たされていく。凄いぞ」
与えられるがままに口を動かすその姿は、まるで親を待つ雛鳥。私が与えた肉を、彼は恋人を慈しむように、切なげに咀嚼していた。
何を食べているのかも知らず、血の一滴も残さないようにと、私の指を舐めとる姿を見ていると、胸の奥底から名付けようのない感情――身を焼くような感覚がせり上がってきた。
まるで、私の魂の一部が、彼の泥臭い肉体へと溶け落ち、混ざり合っていくような……。
「……今食べたので終わりよ。もう、いくらでも動けるようになったでしょう?」
「ああ……。うん。だが、なんだこれは……」
彼は、自身の内側から発する生命力に驚いているみたいだし、その双眸が黄金色になるのも特徴的だ。銀の月光すら拒む深闇の森の隅々までが、今の彼には真昼の庭園のように鮮明に見通せているはずだ。
彼は獣のような鋭さで周囲を一瞥すると、一点を強く指し示して言い放った。
「俺の国はこっちだ。……間違いない、あちらに俺の帰るべき場所がある」
怪我もなく、無尽蔵の体力を宿したオリオス。今度は私を導く騎士であるかのように、その掌で私の手を包み、力強く道を拓き始めた。
一歩、また一歩と進むにつれ、鬱蒼とした大樹の天蓋が解け、星の瞬きが零れる場所へと辿り着く。木々が疎らになる頃、彼の双眸に宿っていた人外の黄金色は、いつの間にか元の穏やかな色彩へと溶け落ちていた。
丁度、彼の部下たちが浅い森を探索しているようで、幾つもの炎が震えていた。
「お前たち、俺はここだ」
それはきっと、王子の声をした古の巨人だと間違わられるほどの、底から響く大声だった。
土を蹴立てて駆け寄る十騎ほどの影と揺炎。
何日もの間、主を求めて彷徨っていたのだろう。姿を認めた途端、鋼を纏った騎士たちが子供のように泣き崩れ、嗚咽を漏らしていた。だが、その必死な忠義も、剥き出しの感情も、私にはただ森に潜む小動物が、細い喉を震わせて鳴いているのと大差なく見えていた。
騎士の一人が、薄布一枚の私を案じてか、その肩に厚手の外套を掛けた。それは私の知らない獣の毛皮で、彼らなりに私の体温を奪わせまいとする「気遣い」なのだろう。
一方で、オリオスはそれどころではなかった。
千切れた衣服に、傷だらけの黄金の鎧。その凄惨ななりも厭わず、彼は部下たちから戦況や近況を吸い上げることに没頭している。
先ほどまで私の指に縋り、甘美な肉を咀嚼していたあの男は、今や「国の希望」という仮面を被り、私を置き去りにして人間たちの狂騒へと戻っていくのかしら。
案の定、オリオスが私の前で並べ立てた謝辞は、ひどく空虚で、どうでもいいことばかり。私はその言葉を冷ややかに遮り、代わりにこう告げた。
「……私も、一緒に連れて行きなさい」
それは願いではなく、逃れられぬ運命を突きつける宣告だった。私の言葉を拒める者など、この場には一人として存在しない。
オリオスは王城へは戻らず、死の影が濃く漂う最前線へと馬を向けた。
敗北の予感に士気が枯れ果て、死臭だけが微かに燻るその場所へ、私の肉を喰らった王子が混じり合う。
――それは、この世のどこにもない、甘美で残酷な「香水」を精製するようだった。




