日曜日:「傷痕さえ愛おしい標本――過去を塗り潰す指先と、甘い箱庭の毒に溺れて」
漆黒のスクリーンが覆う深き森。そこでは、蜘蛛たちが白い糸で会話を楽しんでいるようだった。
眩い白光が一刻も動かない森の闇と出会い、緩やかに混ざり合い模様を成す大理石。その部屋は、昨夜の歌声が、そのまま硬質な静寂となって固まったような場所。
銀の糸で丁寧に綴じられた、たくさんの小さな葉の上。私は、彼の乾いた輝く糸髪を優しく指先で撫でていた。
「……あ、あ……」
寝台代わりに敷き詰められた葉の上で、彼が微かに身じろぎする。昨夜、泥を啜っていた男とは思えないほど、その横顔は清廉で……脆い。
「おはよう、可愛い泥の王子様。心地はいかがかしら?」
「……可愛い、だと? お前は見たことのない侍女だな、名前は何と言う」
王族としての矜持が、戸惑いよりも先に言葉を紡がせたのだろう。私は、彼から発せられた「侍女」という言葉の響きにクスクスと喉を鳴らし、まるで初めて触れる珍奇な鳥の鳴き声のように楽しんでいた。
「侍女? ふふ、泥の王子様は面白いことを言うのね。この箱庭で私に傅くのは、碧月からの風と恥ずかしがり屋の土、あとはおしゃべりな蜘蛛たちくらいなものよ」
私は指先に絡めていた彼の金髪を、名残惜しそうに、けれどそっと解くと、彼の困惑を飲み干すように優雅に立ち上がった。
「私の名はメルリュア。あなたの王冠も、あなたの騎士たちも届かない場所の主。……ねえ、王子様。そんなに険しい顔をしないで? せっかく私が、あなたの体から『痛み』という醜いノイズを掃除してあげたのだから」
私は言い終えるのと同時に、背を向けた。纏った薄絹が、まるで寄り添うのを忘れた朝霧のように頼りなく私の体から滑り落ち、大理石の床に柔らかな波紋を作って重なる。
「あ……」
背後で、王子が息を呑む音が聞こえる。私はそれを振り返ることなく、目の前に広がる乳白色の泉へと、わざと高く跳ねるような水音を立てて、しなやかに足を浸した。少し冷たい水面が、私の肌を待ちわびていた恋人のように迎え入れ、波紋が静かに広がっていく。
「待て、メルリュア! どこへ行く!」
私の身体を追うように王子は立ち上がった。そこでやっと、自らの体に刻まれていたはずの傷が、嘘のように消えていることに気がついたようだ。
彼は自分の腹部を、まるで信じがたい異物を確認するように両手で強く押さえた。昨夜、敵の刃によって深く、無慈悲に裂かれたはずの場所。溢れ出す鮮血を食い止めることさえ諦め、死の冷たさを確かに感じていたはずの肉体。
「……傷が、ない? あれほどの深手が、跡形もなく……?」
彼は鎧の隙間に指を差し入れ、狂ったように肌をなぞった。長年の古傷も、剣を握り続けた掌の硬いタコまでもが、磨き直された宝石のように消え去っている。
「馬鹿な! ここはどこなんだ。レヂュル! ガリード!何処にいるんだ!」
彼の叫びは植物達に飲み込まれてしまう。泥と血にまみれた戦場で、共に地獄を這い、果てたはずの友の名。けれど、この箱庭で応えるのは、泉のせせらぎと、私の薄い笑い声だけ。
「いくら呼んでも無駄よ、可愛い王子様。そんな風に吠えるのはおやめなさい。せっかく綺麗になった喉が枯れてしまうわ」
蠱惑的な私の声が水面で飛び跳ねた。彼は虚空を見つめたまま、佇んでいる。水から上がった私の肌からは一滴、また一滴と真珠のように大理石の上を転がり落ちていった。
「レヂュルもガリードも、今ごろは暗い土の下で蜘蛛たちの苗床になっているはずよ。あなたも、昨夜まではその仲間だった」
「っ、貴様……!」
彼は私の美しさに一瞬たじろぎ、けれどすぐに剣の柄へと手を伸ばした。だが、そこにあるはずの愛剣はない。代わりにあるのは、昨夜の私が歌で作り替えた、「一切の汚れを知らない、完璧で、空虚な無傷の身体」だけ。
「……忘れてしまいなさい。そんな、砂のように崩れ去る過去なんて」
私は濡れた長い髪を背に流し、一歩、また一歩と彼へ歩み寄る。足跡ひとつ残さない私の歩みは、彼にとって死神の誘いよりも恐ろしく見えたかもしれない。
「……夢、か。そうであってくれ。これは、出来の悪い悪夢なのだ……」
絶望に身を折った王子の背中から、私はそっと腕を回した。知らない感覚だった。自らの子がある訳でもなく、殻から生まれ、親がいたわけでもない私。少し長い舌を彼の頬に這わせてみた。蜂蜜のように甘いとは期待はしていない、けれど泉の味とは違う、何かはじける味がした。
「やめてくれ! 母上にしかされたことないんだぞ」
王子は弾かれたように叫び、顔を真っ赤にして私を突き放そうとした。
どうやら彼は、今の私の行いを母からの口づけか何かだと勘違いして慌てたようだ。……泥の王子様は、どこまでもおかしな生き物。
その声はあまりに澄んでいて、甘美だった。そのまま私が歌に吹き込んだなら、きっと可愛い鳥たちが羽根を休める、透き通った硝子の部屋が出来上がるに違いない。
「メルリュア。これが夢ではないのなら……頼む、森から……、君の森から俺を出して欲しい。頼む」
私の腕の中で、彼はすがるように言葉を絞り出した。
「我が国は、今……同盟軍の裏切りにあい、火の海なんだ。父上は行方知らず、レヂュルも、ガリードも、私を逃がすために盾となった。……私が戻らなければ、城に残した母上も、民も……」
彼の脳裏には、黒煙に包まれた王都と、血を流し倒れていった戦友たちの姿が焼き付いているのだろう。私には「砂が崩れる音」にしか聞こえない戦争の喧騒が、彼にとっては世界のすべて。
「……お願いだ、行かせてくれ。私は戦わねばならないんだ」
私は、彼の濡れた睫毛をそっと指先でなぞった。
「戦う?……あんなにボロボロになって、命の火が消えかけていたのに? あんなに醜く、血と泥にまみれて……。いいえ、だめよ。行かせない。だって、今のあなたはこんなに『綺麗』なんですもの」
私の言葉は、彼にとって絶望の宣告だったに違いない。
彼が守りたい「国」も「母」も、私の箱庭から見れば、吹き抜ける風に散る埃と変わらない。
「私は国を継ぐ王子なんだ……頼む。私がいなければ、国は……」
長い間、同じことを聞いていた気がした。
でも、彼が私のお腹に抱きつき、必死に流す涙がたまらなくくすぐったかった。
私の滑らかな肌の上を、彼の絶望が熱い雫となって転がり落ちていく。
(……この子は、何をそんなに悲しんでいるのかしら)
彼をこれほどまでに激しく突き動かす「外の世界」に、私はほんの少しだけ興味を抱いてきた。
彼の箱庭に。
――こうして、彼から「傷」と「痛み」が消え去った日曜日が終わった。




