土曜日:「泥に塗れた王冠の遺言――崩れゆく牙城の果て、碧き月の下であなたを拾い上げる」
碧夜には、真ん丸な可愛い私の目のような満月が地平に転がっている。背に広がるのは、月光を透かし絹のように頼りなくも、鞭のようにしなる柔翼。
「化け物め……! その姿で、私を欺いていたのか!」
――失礼しちゃうわ。
この翼のどこが、化け物だというのかしら。
それとも、この優美にうねる私の下半身がお気に召さない?
月光を弾く私の鏡鱗は、今やあなたの真っ赤な怒り顔を醜く歪めて映し出す。はるか階下から届くその叫びは、夜風にさらわれてひどく間が抜けて聞こえた。それらをおざなりにし、私はただ上昇するために柔翼をはためかせる。
ああ、あんなに低く、浅ましい場所には、もう二度と戻れない。
巻き上がる砂塵が、地上に灯された無数の篝火を塗り潰していく。暗転していく世界の中で、米粒ほどに小さくなった彼の絶望も、もはや吹き消されるのを待つだけの風前の灯に過ぎなかった。
「待て! 行くなメルリュア! 城が、私の拠点が……うわああああ!」
その悲鳴が最後だった。
私が羽ばたき、魔法の楔が完全に引き抜かれたことで、白亜の巨躯が自重に耐えかねて轟音とともに断末魔を上げる。
彼が必死に守り、執着した「権力の牙城」は、彼自身の愚かさによって崩れ、彼を深々と飲み込む棺へと変わった。
舞い上がる砂塵さえ、この高さには届かない。
「さようなら、私の愛した泥の王子様」
私は一度も振り返らず、碧い静寂のなかへ消えていく。
あのお月様のような私の目は、もう二度と、砂に埋もれた亡骸を映すことはない。
――すべては、あの泥濘の森で、死に体だった彼を拾い上げたあの日から始まった。
ミルク味がしそうな濃霧の中から見上げると、半欠けの月は溶けかけの砂糖のよう。朧げな弧を水面に映しながら、私だけの姿を清めていた。
一週間の終わりに訪れる、ひとときの魔法。
しかし日曜日になれば、翼や尾などはまるで、それが当たり前かのように縮まり消えて見えなくなっていた。人の目に映らないかたちへ。愛らしい、けれど脆弱な「人間」のかたちへと。
「もう日曜日になったのね」
竜の姿も可愛いのに、いられる刻は長くはない。
薄絹を纏うと、私は歌を歌う。
旋律に意味などない。ただ、退屈な一週間をやり過ごすための気付け薬のようなもの。いつものように建築で心を紛らわせる。誰を招くわけでも、誰を守るわけでもない、私一人にはあまりに広すぎる石造りの伽藍。
「――♪」
私の高音に合わせて、大理石の柱が幾何学模様を描きながら伸びていく。歌詞に込めるのは、凍てついた静寂と、完成された虚無。砂は意思を持って城壁を積み上げ、泥は精緻な浮彫を刻み、私の退屈を埋めるためだけの美しい「殻」が出来上がっていく。
……その時だった。
歌声が紡ぎ出す完璧な秩序の中に、不協和音が混じる。素材としてうねり始めた泥の中から、どろりと「異物」が溢れ出した。
それは、私の感性が生み出した彫像じゃない。
血を流し、泥を啜り、無様に震える肉の塊。どう見ても、人だ。
「……まだ生きているのかしら? まだ腐してはいないようだけど」
私は歌を止め、その塊の傍らに跪く。
完璧な石畳の上に、王子の傷口から流れた「生きた赤」がじわりと広がっていく。
私の白亜の城を初めて汚したのは、皮肉にも、私が拾い上げたこの男だった。
見れば弱いが、心臓の鼓動はまだ聞こえる。
泥まみれの姿から垣間見える装飾された鎧は金。どうやら名ある戦士のようだった。そのまま私はその牡牛のような体を無造作に抱きかかえると、泉へと運ぶ。縁に彼を横たえ、その顔を拭うように泥を落としていった。
「……あら」
現れたのは、暗闇の中でも光と影の配置を計算し尽くされたかのような、完璧な顔立ち。濡れた波打つ柔らかな髪は、泥に汚れながらも、月の雫を含んだ蜂蜜のように重く、甘い光を放つ金。
死の淵を彷徨いながらも、その眉間には拭いきれない使命感が刻まれている。それは、私が作り出す無機質な城には決して存在しない、熱を帯びた「歪み」の美だった。
「……助けて……国を……みんなを……」
自分の命さえ維持できないほどに壊れていながら、まだ見ぬ誰かのために祈るというのかしら。浅ましくて、馬鹿げていて……。
「……ふふ。いいわ、その願い。この私が拾ってあげる」
私は彼の首筋にそっと指先を滑らせ、止まりかけた鼓動を繋ぎ止めるように、新しい歌を口ずさみ始めた。
月はまだ、溶けかけの砂糖のまま、静かに私たちを照らしている。
――これが、あの大崩壊へと続く、最初の一週間の始まりだった。




