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届かない歌声はないと思いたかった。貴方の裏切りを碧夜の空から失礼します。ついでに貴方の国を瓦礫に変えますね。  作者: イニシ原


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1/8

土曜日:「泥に塗れた王冠の遺言――崩れゆく牙城の果て、碧き月の下であなたを拾い上げる」

 碧夜(へきや)には、真ん丸な可愛い私の目のような満月が地平に転がっている。背に広がるのは、月光を透かし絹のように頼りなくも、鞭のようにしなる柔翼(にゅうよく)


「化け物め……! その姿で、私を欺いていたのか!」


 ――失礼しちゃうわ。

 この翼のどこが、化け物だというのかしら。

 それとも、この優美にうねる私の下半身がお気に召さない?


 月光を弾く私の鏡鱗(きょうりん)は、今やあなたの真っ赤な怒り顔を醜く歪めて映し出す。はるか階下から届くその叫びは、夜風にさらわれてひどく間が抜けて聞こえた。それらをおざなりにし、私はただ上昇するために柔翼をはためかせる。


 ああ、あんなに低く、浅ましい場所には、もう二度と戻れない。


 巻き上がる砂塵が、地上に灯された無数の篝火を塗り潰していく。暗転していく世界の中で、米粒ほどに小さくなった彼の絶望も、もはや吹き消されるのを待つだけの風前の灯に過ぎなかった。


「待て! 行くなメルリュア! 城が、私の拠点が……うわああああ!」


 その悲鳴が最後だった。


 私が羽ばたき、魔法のくさびが完全に引き抜かれたことで、白亜の巨躯が自重に耐えかねて轟音とともに断末魔を上げる。

 彼が必死に守り、執着した「権力の牙城」は、彼自身の愚かさによって崩れ、彼を深々と飲み込む(ひつぎ)へと変わった。


 舞い上がる砂塵さえ、この高さには届かない。


「さようなら、私の愛した泥の王子様」


 私は一度も振り返らず、碧い静寂のなかへ消えていく。

 あのお月様のような私の目は、もう二度と、砂に埋もれた亡骸を映すことはない。




 ――すべては、あの泥濘の森で、死に体だった彼を拾い上げたあの日から始まった。




 ミルク味がしそうな濃霧の中から見上げると、半欠けの月は溶けかけの砂糖のよう。朧げな弧を水面に映しながら、私だけの姿を清めていた。


 一週間の終わりに訪れる、ひとときの魔法。

 しかし日曜日になれば、翼や尾などはまるで、それが当たり前かのように縮まり消えて見えなくなっていた。人の目に映らないかたちへ。愛らしい、けれど脆弱な「人間」のかたちへと。


「もう日曜日になったのね」


 竜の姿も可愛いのに、いられるときは長くはない。

 薄絹を纏うと、私は歌を歌う。


 旋律に意味などない。ただ、退屈な一週間をやり過ごすための気付け薬のようなもの。いつものように建築で心を紛らわせる。誰を招くわけでも、誰を守るわけでもない、私一人にはあまりに広すぎる石造りの伽藍。


「――♪」


 私の高音に合わせて、大理石の柱が幾何学模様を描きながら伸びていく。歌詞に込めるのは、凍てついた静寂と、完成された虚無。砂は意思を持って城壁を積み上げ、泥は精緻な浮彫レリーフを刻み、私の退屈を埋めるためだけの美しい「殻」が出来上がっていく。


 ……その時だった。


 歌声が紡ぎ出す完璧な秩序の中に、不協和音が混じる。素材としてうねり始めた泥の中から、どろりと「異物」が溢れ出した。


 それは、私の感性が生み出した彫像じゃない。

 血を流し、泥を啜り、無様に震える肉の塊。どう見ても、人だ。


「……まだ生きているのかしら? まだしてはいないようだけど」


 私は歌を止め、その塊の傍らに跪く。

 完璧な石畳の上に、王子の傷口から流れた「生きた赤」がじわりと広がっていく。

 私の白亜の城を初めて汚したのは、皮肉にも、私が拾い上げたこの男だった。


 見れば弱いが、心臓の鼓動はまだ聞こえる。


 泥まみれの姿から垣間見える装飾された鎧は金。どうやら名ある戦士のようだった。そのまま私はその牡牛のような体を無造作に抱きかかえると、泉へと運ぶ。縁に彼を横たえ、その顔を拭うように泥を落としていった。


「……あら」


 現れたのは、暗闇の中でも光と影の配置を計算し尽くされたかのような、完璧な顔立ち。濡れた波打つ柔らかな髪は、泥に汚れながらも、月の雫を含んだ蜂蜜のように重く、甘い光を放つ金。


 死の淵を彷徨いながらも、その眉間には拭いきれない使命感が刻まれている。それは、私が作り出す無機質な城には決して存在しない、熱を帯びた「歪み」の美だった。


「……助けて……国を……みんなを……」


 自分の命さえ維持できないほどに壊れていながら、まだ見ぬ誰かのために祈るというのかしら。浅ましくて、馬鹿げていて……。


「……ふふ。いいわ、その願い。この私が拾ってあげる」


 私は彼の首筋にそっと指先を滑らせ、止まりかけた鼓動を繋ぎ止めるように、新しい歌を口ずさみ始めた。


 月はまだ、溶けかけの砂糖のまま、静かに私たちを照らしている。


 ――これが、あの大崩壊へと続く、最初の一週間の始まりだった。

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