第44話:二つの影と、帝国の密約
【Side:レオナルト】
テオドール殿下との「お茶会」での一件――ジークフリート殿下の兵士を追い返した後、僕たちは殿下をそのまま城に残しておくのは危険だと判断した。
兄たちに明確に牙を剥いた以上、報復は避けられないからだ。
そこで、ベルンシュタイン侯爵の同意を得て、テオドール殿下を侯爵の別邸へお連れし、匿うことにしたのだ。
現在、僕たちは邸宅の一室で、重苦しい空気に包まれていた。
部屋の隅には、不安そうに身を縮こまらせているテオドール殿下の姿がある。
「……まさか、そこまで腐っておるとは」
侯爵が絞り出すように言った。
その視線の先には、先ほど天井裏から戻ってきたクロが広げた、数枚の密書(の写し)があった。
「ご苦労だったね、クロ君。……これは、間違いない情報かい?」
「はい。長男マクシミリアン様の執務室、そして次男ジークフリート様の武器庫……それぞれの最深部から見つけました」
クロは淡々と、しかし衝撃的な事実を告げた。
「マクシミリアン様のバックについているのは、帝国の『宰相派』です。貿易の優遇と引き換えに、即位後の属国化を受け入れる密約が交わされています」
「属国化……!?」
僕が息を飲むと、クロはもう一枚の紙を指差した。
「そして、ジークフリート様のバックは、帝国の『軍部派』です。こちらは軍事同盟の名目で、帝国の駐留軍を受け入れる手はずになっています」
「……なんてことだ」
僕は椅子に崩れ落ちそうになった。
王位を争う二人の兄。そのどちらもが、隣国である「帝国」に国を売り渡すことで、玉座を手に入れようとしている。
しかも、帝国の「宰相派」と「軍部派」という対立構造まで持ち込まれている。
「これは王位継承戦ではありませんわ」
エリスさんが、氷のような声で断言した。
「帝国の代理戦争です。……どちらが勝っても、この国は帝国の傀儡となり、搾取される未来しかありません」
「嘆かわしい……! 誇り高き王家の血筋が、こうも安く買い叩かれるとは!」
ヴォルフガング殿が杖を床に叩きつけ、憤りを露わにする。
彼もまた、かつて国を失った武人だ。「国を売る」という行為に対する嫌悪感は、誰よりも強いだろう。
「……唯一の希望は、テオドール様だけか」
侯爵が呟く。
三男のテオドール殿下だけが、帝国の息がかかっていない純粋な王家の一員。
だが、彼には力がない。後ろ盾も、戦う意志もない。
「でも、放っておくわけにはいきません」
僕は拳を握りしめた。
「このままじゃ、テオドール殿下の居場所がなくなるどころか……国ごとなくなってしまう」
「ええ。それに……」
エリスさんが窓の外、闇に沈む王都を見つめた。
「『邪魔者』は、早めに消しておきたいのが権力者の常です。……テオドール様が、ただ生きているだけで脅威だと気づけば」
その時だった。
ヒュッ、という風切り音と共に、部屋のロウソクが全て消えた。
「――伏せろッ!!」
ヴォルフガング殿の怒号が響く。
僕は反射的に床に伏せた。その直上を、何かが高速で通り過ぎ、壁に突き刺さる音がした。
短剣だ。
「なっ……!?」
「静かに。……囲まれておるぞ」
ヴォルフガング殿が立ち上がり、暗闇の中で杖を構える。
窓の外、そして廊下から、微かな、しかし確実な殺気が滲み出ている。
刺客だ。
エリスさんの予言通り、兄たちの陣営は「邪魔な三男(とその支援者)」を消しに来たのだ。
匿っているこの場所すら、すでに嗅ぎつけられていたということか。
「クロ、侯爵とレオナルト様、そしてテオドール殿下を守れ! ……エリス嬢は私の背中へ!」
老将軍の指示が飛ぶ。
次の瞬間、窓が割れ、黒装束の集団が雪崩れ込んできた。
その数、およそ十人。
手には毒塗りの短剣。動きに迷いがない。プロの暗殺者だ。
「……殺せ」
無機質な命令と共に、刺客たちが襲いかかってくる。
僕は震える手で腰の剣(飾り用)に手をかけたが、抜く間もなかった。
「カカッ! 若造どもが、年寄りの昼寝を邪魔するでないわ!」
ヴォルフガング殿が笑った。
その瞬間、空気が爆ぜた。
ドゴォン!!
杖の一振り。
ただの横薙ぎが、衝撃波を伴って先頭の三人を吹き飛ばした。
鎧の上から骨を砕き、壁に叩きつけられた刺客たちが泡を吹いて沈黙する。
「なっ……!?」
残りの刺客が動揺する。
情報にはなかったのだろう。「最強の老兵」が護衛についていることなど。
「統率も連携もなっておらん。……殺気だけ一丁前じゃが、剣が軽すぎるわ!」
ヴォルフガング殿は舞うように動いた。
刺客の刃を紙一重でかわし、その手首を杖で打ち据え、顎を突き上げる。
無駄のない、洗練された暴力。
アレンなら、きっと涼しい顔でこう言っただろう。『次元が違う』と。
「ひ、退け! 報告を……!」
生き残った刺客が窓へ逃げようとする。
だが、その足元に影が走った。
「逃がしません」
クロだ。
音もなく背後に忍び寄り、足払いをかけて転倒させ、首元にナイフを突きつける。
鮮やかな制圧。
数分もしないうちに、襲撃者たちは全員、床に転がされていた。
僕と侯爵は、ただ呆然とその光景を見ているしかなかった。
「……ふぅ。運動不足には物足りんのう」
ヴォルフガング殿が肩を回す。
部屋の明かりが再び灯されると、そこには惨状が広がっていた。
「……尋問しましょう」
エリスさんが冷徹に言った。
捕らえた刺客の一人の覆面を剥ぐ。
そこには、見覚えのある紋章――第一王子マクシミリアンの近衛隊の紋章が刻まれたペンダントがあった。
「……兄上だ」
部屋の隅で震えていたテオドール殿下が、絶望的な声で呟いた。
「この短剣……兄上の親衛隊が使うものだ。……兄上が、僕を殺そうとしたんだ」
殿下の目から、光が消えていく。
兄たちを恐れてはいた。だが、心のどこかで「家族」としての情を信じていたのだろう。
それが、権力欲と帝国の介入によって、粉々に砕かれた。
「もう……嫌だ……」
テオドール殿下は膝を抱えてうずくまった。
「僕は何も望んでないのに。ただ静かに暮らしたいだけなのに……どうして、みんな僕を殺そうとするの……?」
その姿は、あまりにも痛々しかった。
国を売ろうとする兄たちと、殺されかけた弟。
この国の闇は、僕が想像していたよりも遥かに深く、そして救いようがない。
「……テオドール殿下」
僕は彼に近づこうとしたが、エリスさんがそれを止めた。
「今は、そっとしておいてあげましょう。……心が壊れてしまいますわ」
今夜の襲撃は防いだ。
だが、これは始まりに過ぎない。
兄たちは、テオドール殿下を「明確な敵」と認識し、排除にかかったのだ。
このままでは、彼は殺される。
そして国は帝国に売り渡される。
(……僕に、何ができる?)
無力な自分。アレンもガッツもいない。
目の前で泣いている少年一人すら、言葉をかけてあげられない。
悔しさで爪が食い込む。
だが、逃げるわけにはいかない。
僕が逃げれば、この子は本当に一人ぼっちになってしまうのだから。
窓の外では、不気味な赤色の月が、血塗られた王都を照らしていた。




