第43話:王都の嵐と、花園の少年
【Side:レオナルト】
王都に到着した僕たちを出迎えたのは、重苦しい緊張感だった。
街を行き交う人々の顔は暗く、あちこちに武装した兵士が立っている。
「国王重体」の報せは、すでに公然の秘密となり、誰が次の王になるのかという噂で持ちきりだった。
「……ひどい有様ですね」
馬車の窓から外を眺め、エリスさんが眉をひそめる。
僕の隣に座る彼女は、今は妻(仮)として、そして参謀として僕を支えてくれている。
対面の席には、護衛役のヴォルフガング殿と、御者台の横にはクロもいる。
アレンとミリア、ガッツは領地を守るために残ってくれた。
ここからは、僕自身がしっかりしなきゃいけない。
「第一王子派(マクシミリアン様)と、第二王子派(ジークフリート様)。両派閥の私兵が街中で睨み合っていますわ。……一触即発です」
「どっちについても地獄じゃな」
ヴォルフガング殿が低い声で唸る。
僕たちは、騒乱を避けるように馬車を走らせ、上級貴族街の一角にある屋敷へと向かった。
以前、毒入りコーヒー騒動の際に宿を提供してくれた恩人――ベルンシュタイン侯爵の別邸だ。
「よく来てくれた、エデルシュタイン子爵。……待っておったぞ」
屋敷の奥で僕たちを迎えた侯爵は、以前会った時よりも随分とやつれて見えた。
白髪は増え、目の下には隈ができている。
だが、その瞳にある理知的な光だけは失われていなかった。
「侯爵閣下。……この度は、突然の訪問をお許しください」
「よいよい。今の王都で、心を許せる友は少ないからの」
侯爵は僕たちを応接室に通すと、人払いをし、重い口を開いた。
「……単刀直入に言おう。この国は今、分裂の危機にある」
「やはり、継承権争いですか?」
僕が尋ねると、侯爵は深く頷いた。
「うむ。長男のマクシミリアン様は官僚と法服貴族を、次男のジークフリート様は軍部と騎士団を味方につけ、互いに玉座を狙っておる。……陛下が倒れられてから、その争いは激化する一方じゃ」
侯爵は悔しげに拳を握った。
「どちらが勝っても、国は乱れる。長男は冷徹すぎて人の心を切り捨てるし、次男は武力に頼りすぎて血を流しすぎる。……それに、黒い噂もある」
「黒い噂?」
「……両陣営のバックに、『帝国』の影が見え隠れするのじゃ」
エリスさんが息を飲む気配がした。
帝国。隣接する軍事大国であり、ソフィアちゃんの祖国を滅ぼした元凶。
その手が、すでに王国内部まで伸びているというのか。
「では、侯爵閣下は……どちらの派閥にも属していないのですか?」
僕が尋ねると、侯爵は力なく首を振った。
「わしが推しているのは……三男のテオドール様だけじゃ」
テオドール。
その名前は、王位継承の話題ではほとんど挙がらない、影の薄い王子だ。
「あの方は優しい。争いを好まず、民の痛みが分かるお方じゃ。……だが、それゆえに力が弱い。有力な貴族たちは皆、勝ち馬に乗ろうと兄君たちの元へ走ってしまった」
「……味方は、侯爵閣下だけということですか?」
「情けない話じゃがな。……わし一人の力では、あの方を守りきることすら難しい」
侯爵は深く項垂れた。
アレンがいれば、彼の「目」で侯爵の本心を見抜いてくれたかもしれない。でも、今は僕の目でも分かる。
この人は、損得勘定で動く貴族社会において、孤立無援の王子を、ただ「その資質を信じる」という一点のみで支え続けているのだ。
「……会わせていただけませんか?」
僕は静かに言った。
「そのテオドール殿下に。……一度、お話をしたいのです」
王宮の奥深くにある庭園。
政争の喧騒から離れたこの場所だけは、静寂に包まれていた。
侯爵の手引きで庭園に入った僕とエリスさんは、花壇の手入れをしている一人の少年を見つけた。
線の細い、儚げな少年。
年齢は16歳ほどだろうか。高貴な服を着ているが、その背中はどこか寂しげだ。
「……テオドール殿下」
僕が声をかけると、少年はビクリと肩を震わせ、怯えたように振り返った。
「だ、誰……? 兄上の使い……?」
「いいえ。怪しい者ではありません。……僕はレオナルト。ベルンシュタイン侯爵の友人で、田舎から来たコーヒー屋です」
僕は武器を持っていないことを示すように両手を開き、ニッコリと笑った。
その屈託のない笑顔に、少年の警戒心が少しだけ解ける。
「……コーヒー屋? あの、苦い飲み物の?」
「はい。陛下にも気に入っていただいたものです。……もしよろしければ、一杯いかがですか?」
僕たちは庭園のベンチで、持参したポットからコーヒーを注いだ。
テオドール殿下はカップを両手で包み込み、温かさを楽しむように一口飲んだ。
「……苦い。でも、落ち着く味だね」
「よかった。……殿下は、ここでお一人なのですか?」
「うん。……部屋にいると、誰かが囁く声が聞こえるから。ここなら、花と虫しかいない」
テオドール殿下は寂しげに笑った。
「僕はね、王様になんてなりたくないんだ。兄さんたちみたいに強くないし、賢くもない。……ただ、静かに本を読んで暮らせればそれでいいのに」
「……」
「でも、周りは許してくれない。僕が生きているだけで『邪魔だ』って言われる。……怖いよ。僕はただ、平和に生きたいだけなのに」
その言葉は、かつての僕の姿と重なった。
父が死んで、いきなり領主になれと言われて……怖くて、逃げ出したかった。自分には無理だって、毎日泣いていたあの頃の僕。
「……分かります」
僕は、殿下の隣に座った。
エリスさんが、少し離れたところから静かに見守ってくれている。
「僕もそうでした。父が死んで、いきなり領主になれと言われて……怖くて、逃げ出したかった」
「えっ? ……君が?」
「はい。僕の能力はとても低いんです。剣も振れないし、計算も苦手で。……アレンという家老がいなければ、とっくに領地は潰れていました」
僕は苦笑した。
「でもね、殿下。……『弱くてもいい』って言ってくれる人がいたんです」
アレン、ミリア、ガッツ、ヴォルフガング殿。そして、エリスさん。
みんなの顔が浮かぶ。
「一人で強くなる必要はない。……助けてくれる人の手を握る勇気さえあれば、何とかなるもんです」
テオドール殿下の瞳が揺れる。
自分と同じ「弱さ」を持つ人間が、今はこうして堂々と立っている。
「……僕にも、握れる手があるのかな」
「ありますよ。侯爵閣下も、そして……僕たちもいます」
僕は手を差し出した。
「友達になりませんか、殿下。……政治とか派閥とか関係なく、ただの友達として」
テオドール殿下は、しばらくその手を見つめていたが、やがて恐る恐る、その手を握り返した。
「……うん。なってくれるなら、嬉しい」
その瞬間。
アレンのような鋭い観察眼は持っていないけれど、僕には分かった。
絶望に塗りつぶされていた少年の心に、小さな灯がともったことを。
「……見つけましたよ、テオドール様」
その時、庭園の入り口から冷ややかな声が響いた。
武装した数名の兵士たち。その装備には、第二王子派(次男ジークフリート)の紋章が刻まれている。
「ジークフリート殿下がお呼びです。……『少し話がある』と」
話で済むはずがない。
その腰の剣は、明らかに「排除」の意思を孕んでいた。
エリスさんがサッと扇子を閉じ、ヴォルフガング殿が音もなく僕たちの前に立つ。
テオドール殿下の体が、小刻みに震えている。
兄への恐怖。逆らうことへの畏れ。
「……帰ってください」
僕は前に出ようとした。だが、その前に、僕の袖を掴んでいた小さな手が、強く握りしめられた。
「……テオドール殿下?」
「……僕が、言うよ」
テオドール殿下は震える足を叱咤し、ゆっくりと立ち上がった。
そして、僕たちを背に庇うように前へ出た。
「……兵士たちよ。下がれ」
その声はまだ細く、頼りなかった。
兵士たちが鼻で笑い、一歩踏み出してくる。
「テオドール様、これはジークフリート殿下の命令でして……」
「兄上が用があるなら、兄上がここへ来いと伝えよ!」
テオドール殿下が叫んだ。
それは悲鳴にも似ていたが、明確な拒絶の意思だった。
「僕は今、大切な客人と茶会を楽しんでいる最中だ。……たとえ兄上であろうと、王族の礼節を欠く振る舞いは許さない」
彼は僕の方を振り返らず、しかしその手で僕を指し示した。
「この方は僕の友人だ。……僕の友人を害そうとするなら、僕にも考えがある」
兵士たちが顔を見合わせ、たじろぐ。
今まで言いなりだった「弱虫王子」が、初めて牙を剥いたのだ。
王族である彼に、下級兵士が手を出せるはずもない。
「……チッ。分かりました。そうお伝えします」
兵士たちは舌打ちをし、忌々しげに撤収していった。
嵐のような緊張感が去り、静寂が戻る。
「……はぁ、はぁ……」
テオドール殿下はその場にへたり込みそうになり、慌てて僕が支えた。
「殿下、凄かったですよ! 立派でした!」
「……うん。……怖かった」
テオドール殿下は涙目で笑った。
でも、その瞳には、さっきまでの「諦め」の色はない。
「友達を……守りたかったから」
僕は彼を強く抱きしめた。
王都の嵐の中で、最も小さく、しかし最も強固な「第三の勢力」が、今ここに誕生した。




