第33話:反乱の使者
その夜、エデルシュタイン領主館では、ささやかな晩餐会が開かれていた。
エリスの滞在最終日を労うためのものだ。
「……ふふ。こちらのシェフの腕は、王都の一流店にも引けを取りませんわね」
エリスは上機嫌でワイングラスを傾けていた。
カッファ事業の進捗も順調、領地経営も軌道に乗り始め、張り詰めていた糸が少し緩んでいるように見えた。
「気に入っていただけて光栄だよ、エリスさん」
レオナルト様も嬉しそうだ。
平和だ。
私の胃痛も、今日ばかりは鳴りを潜めている。
だが、そんな穏やかな時間は、唐突に打ち砕かれた。
「申し上げます!」
慌ただしく食堂に入ってきたのは、警備兵だった。
その顔色は青ざめている。
「家老様、緊急事態です。……バルトハルト家より、早馬の使者が到着しました」
「使者? エリス嬢はここにいるぞ。行き違いか?」
「いえ、それが……使者は『バルトハルト家正統当主、ゲオルグ様の名代』と名乗っておりまして……」
「……は?」
私が聞き返すより早く、エリスが立ち上がった。
ワイングラスが倒れ、深紅の液体がテーブルクロスを染める。
「通しなさい」
エリスの低い声に、兵士がビクリと震え、すぐに使者を招き入れた。
現れたのは、見知らぬ武装した騎士だった。彼はエリスを一瞥もせず、レオナルト様に向かって尊大に口上を述べた。
「エデルシュタイン男爵に告ぐ! 我が主君ゲオルグ・フォン・バルトハルト様は、不当に奪われた当主の座を奪還された!」
騎士は高らかに宣言した。
「よって、売国奴エリスの当主代行権限は剥奪! 貴家との不平等な同盟も破棄とする! ……即刻、我が家への不当な干渉を停止し、搾取した賠償金を返還せよ。さもなくば、武力をもって排除する!」
静寂が支配した。
あまりにも一方的で、時代錯誤な宣戦布告。
「……ふざけたことを」
エリスが震える声で呟いた。
その瞳に宿るのは、絶望ではない。煮えたぎるような、どす黒い殺意だ。
「兄様を幽閉していた塔は、私兵団が見張っていたはず……。それが破られたというの?」
「失礼します」
その時、天井の梁から音もなく影が降り立った。
クロだ。
彼は私の指示で、バルトハルト領の様子を探りに行っていたのだ。
「……アレン様。使者の言葉、事実です」
クロは淡々と、しかし残酷な報告を行った。
「先ほど、バルトハルト本城が内部から制圧されました。私兵団の半数が寝返っています。……首謀者は、家老のランドルフ殿です」
「ランドルフ……! あの古狸が!」
エリスが唇を噛み締める。
「裏を取ってきました。現在、本城の門は固く閉ざされ、城壁にはゲオルグ殿の旗が掲げられています。……完全に、乗っ取られています」
最悪だ。
単なるお家騒動では済まない。
これは、エデルシュタイン家に対する明確な敵対行為だ。
「……私が、行きます」
エリスが顔を上げた。
その表情からは感情が消え失せ、冷徹な仮面が張り付いている。
「私の家の恥です。私が始末をつけます。……レオナルト様、兵をお貸しください。今すぐ城を包囲し、逆賊どもの首を刎ねてご覧に入れます」
エリス
【知略:92】
数値は高い。だが、今の彼女は冷静さを欠いている。
怒りに囚われ、本来の聡明さが曇っている状態だ。
彼女らしくない、力押しの提案がそれを証明している。
「待たれよ、お嬢ちゃん」
それを制したのは、ヴォルフガングだった。
老将軍は静かに杯を置き、諭すように言った。
「気持ちは分かるが、今は攻めるべきではない。……奴らは城に立て籠もっておるんじゃろう? 城攻めは攻め手が圧倒的に不利。落とすには守り手の三倍の兵と、多大な犠牲が必要になるぞ」
「犠牲など厭いません! 家の誇りを傷つけた罪、血で雪がなければ……」
「そうやって血を流せば、領民の心は離れるぞ。……それに、もっと楽な方法がある」
ヴォルフガングはニヤリと笑った。
「奴らの口上を思い出してみるがいい。『さもなくば、武力をもって排除する』……そう言ったな?」
「ええ。言いましたわ」
「ならば、待てばよいのじゃ。奴らがのこのこと、こちらを『排除』しに来るのをな」
「……待つ、ですって?」
「左様。向こうから城を出て、攻めてくるのを待つ。……野戦ならば城壁の有利はない。こちらの土俵で、徹底的に叩き潰せる」
ヴォルフガングは悪戯っぽく私を見た。
「それに、奴らは『同盟破棄』と『賠償金返還』を掲げておる。……ならば、エデルシュタイン領を攻め落とさねば目的は達せられん。放っておけば、焦れて出てくるのは向こうの方じゃよ」
奇策ではない。
戦術の基本にして、心理を突いた王道。
だが、怒りに囚われていたエリスには、その選択肢が見えていなかった。
「……っ」
エリスがハッとして息を飲む。
数秒の沈黙の後、彼女の瞳から殺気じみた熱が引き、代わりに氷のような冷たさが戻ってきた。
「……そうですね。おっしゃる通りですわ、ヴォルフガング殿」
エリスは優雅に髪をかき上げた。
「感情的になって、愚策を犯すところでした。……ランドルフの狙いは、私が焦って攻め込み、城壁の前で兵力を消耗すること。その隙を突くつもりだったのでしょう」
彼女の頭上の数値が安定する。
そして、恐ろしい速度で回転を始めたかのように、その輝きを増していく。
(……戻ったな)
激昂による乱れが消え、冷徹な策士としての思考がフル稼働しているのが手に取るように分かる。
今の彼女は、先ほどまでの「怒れる妹」ではない。「盤面を支配する軍師」だ。
「待つだけでは芸がありませんわね。……こちらからも『餌』を撒きましょう」
エリスは悪魔的に微笑んだ。
「『エリスは裏切りにショックを受け、寝込んでいる』……そんな噂を流すのはどうかしら? そして、国境の警備をわざと手薄に見せる。……そうすれば」
「……ゲオルグ殿は『今が好機』と見て、手柄を焦って飛び出してくる」
私が続けると、エリスは満足げに頷いた。
「ええ。兄様の性格なら間違いありません。……最高の舞台を用意して差し上げましょう。愚か者が、自らの足で処刑台に登るための花道を」
その笑顔は美しく、そして背筋が凍るほど怖かった。
「決まりだね」
レオナルト様が頷いた。
「僕たちはここで、彼らを待ち受けよう。……そして、しっかりと教えてあげるんだ。同盟を破ることが、どれだけ重いことかを」
方針は決まった。
攻めるのではない。誘い込み、狩る。
最強の知略と、最強の統率、そして最強の武力が待ち構える死地へ。
反乱の使者は、自らの墓穴を掘るスコップを置いていったに過ぎなかったのだ。




