第32話:不穏な隣人と、燻る残り火
「……というわけで、今期のカッファの出荷量は前月比120%増。王都での需要は依然として右肩上がりですわ」
エデルシュタイン領の執務室。
エリス・フォン・バルトハルトは、完璧な所作で報告書をテーブルに置いた。
純白のドレスに身を包み、知的な美貌を輝かせる彼女は、もはやかつての敵対者ではない。我々の頼れる「盟友」だ。
「ありがとう、エリスさん。バルトハルト領の職人さんたちが協力してくれたおかげだよ」
レオナルト様が心からの感謝を伝える。
王家の裁定により、バルトハルト家は男爵位へ降格し、領地の一部を割譲することになった。だが、家そのものは存続し、現在はエデルシュタイン家と対等な同盟関係にある。
表向きは。
「お礼を言うのはこちらですわ、レオナルト様。……おかげで、我が家の財政もようやく息を吹き返してきましたから」
エリスは優雅に微笑んだが、その目の奥には僅かな疲労の色が見えた。
彼女は当主代行として、没落しかけた家の立て直しに奔走している。特にここ数週間は、カッファ関連の物流ルート再構築や技術提携のため、頻繁に我が領地を訪れていた。
「……無理はするなよ、エリス嬢。顔色が悪いぞ」
私が声をかけると、彼女はふっと表情を緩め、皮肉っぽく笑った。
「あら、アレン様。女性に『顔色が悪い』なんて言うのはマナー違反ですわよ? ……まあ、私の留守を預かる古狸たちが、もう少し優秀なら楽ができるのですけれど」
彼女の言う「古狸」とは、バルトハルト家に古くから仕える家臣団のことだろう。
先代(隠居した父)の時代を知る彼らにとって、若い娘が当主代行を務め、あまつさえかつての宿敵と仲良く手を組む現状は、面白くないに決まっている。
「……火種にならなきゃいいがな」
私の胃が、予知能力のようにキリキリと痛んだ。
平和すぎる時間は、いつだって嵐の前触れだ。
同時刻。バルトハルト領、本城。
主のエリスが不在の城内は、重苦しい空気に包まれていた。
「……嘆かわしい」
執務室の窓から、エデルシュタイン領の方角を睨みつけている男がいた。
バルトハルト家の筆頭家老、ランドルフである。
白髪混じりの髭を蓄えた、厳格そうな初老の男。その瞳には、現状への強い不満と、ある種の狂信的な光が宿っていた。
ランドルフ
【統率:75 武勇:60 知略:70 政治:65】
【義理:85 野望:40】
能力は決して低くない。むしろ優秀な部類だ。
だが、彼の**【義理:85】**は、現在の当主代行であるエリスではなく、「かつての栄光あるバルトハルト家」に向けられている。
彼にとって、家を売るような真似をしたエリスは、主君ではなく「家を汚す裏切り者」でしかなかった。
「名門バルトハルト家が、あのような成り上がりの男爵風情に尻尾を振るとは……。先代様が築き上げた誇りはどこへ行ったのだ」
ランドルフは拳を震わせた。
エリスの改革は合理的だ。領民の生活も向上している。
だが、そんなことは彼には関係ない。彼が守りたいのは「実利」ではなく「面子」なのだ。
「……正さねばならん。誰かが、この狂った流れを」
ランドルフは決意を固め、部屋を出た。
向かった先は、城の離れにある古びた塔。
そこには、一人の男が幽閉(謹慎)されていた。
「……誰だ」
薄暗い部屋の中で、酒瓶を転がしていた男が顔を上げる。
無精髭を生やし、目は落ち窪んでいるが、その顔立ちは整っている。
廃嫡された前・嫡男、ゲオルグだ。
「お迎えに上がりました、ゲオルグ様」
ランドルフはその場に膝をつき、恭しく頭を下げた。
「……ランドルフか。何の用だ? 俺を笑いに来たのか?」
ゲオルグは自嘲気味に笑った。
王都での醜態、そして妹に切り捨てられた屈辱。彼のプライドはずたずたに引き裂かれ、今はただ酒に溺れる日々を送っていた。
「滅相もございません。……私は、貴方様こそが真の当主に相応しいと信じております」
「は……? 何を言って……」
「エリス様は道を誤りました。敵に媚び、家の誇りを泥に塗れさせた。……このままでは、バルトハルト家はエデルシュタイン家の属国に成り下がります」
ランドルフは顔を上げ、熱っぽい視線でゲオルグを見つめた。
「立ち上がってください、ゲオルグ様。今こそ、不当に奪われた当主の座を取り戻すのです。……私を含む古参の家臣団は、皆、貴方様の帰還を待っております」
「俺が……当主に……?」
ゲオルグの瞳に、消えかけていた光が戻る。
それは希望の光ではない。嫉妬と復讐心、そして歪んだ自己愛が混ざり合った、どす黒い炎だ。
ゲオルグ
【野望:50 → 85】
一度は折られた野望が、甘い言葉を養分にして再燃する。
彼は忘れてしまったのだ。自分がなぜ廃嫡されたのかを。自分がどれほど無能であったかを。
ただ、「俺は悪くない」「あいつらが俺を陥れたんだ」という都合の良い解釈だけが、脳内を支配していく。
「……そうだ。俺は、長男だ。俺が継ぐのが当然なんだ」
ゲオルグはふらりと立ち上がり、酒瓶を壁に叩きつけた。
ガシャアン! という破砕音が、反乱の狼煙のように響く。
「エリス……! よくも俺をコケにしてくれたな! 思い知らせてやる……俺こそが、バルトハルトの正統な主だと!」
「御意に」
ランドルフが深々と頭を下げる。
愚かな神輿と、時代錯誤の忠義者。
最悪のコンビが結成された瞬間だった。
「決行は今夜。……エリス様がエデルシュタイン領に滞在している今が好機です」
ランドルフの言葉に、ゲオルグは醜悪な笑みを浮かべて頷いた。
燻っていた残り火が、爆発的な勢いで燃え広がろうとしていた。
それが、自らの家を焼き尽くす業火になるとも知らずに。




