31.生焼けパイ
強い風がガレオン邸を揺らした。思いに耽っていたセリオンは我に返る。
ガレオンがゲホゲホと苦しそうに咳をした。ベッドで上半身だけを起こしている。
「そういえば、君が焼いたウィンドリパイを食べなくてはね」
ガレオンは咳をしながら言った。セリオンが顔を顰める。
「人に出せる出来じゃないんだろう?」
「私は構わない。持ってきなさい」
セリオンは師の言葉に素直に従った。
皿に載せられたウィンドリパイ──否、ボロボロのオレンジと湿ったパイ生地がバラバラになった物体──がガレオンの手に渡される。
「何年経っても料理が下手だな、セリオン」
「文句言うなら食べなくていい」
皿を取り上げようとしたセリオンを、ガレオンは制止した。
「いいんだ」
「これがいいんだよ、私は」
ガレオンはパイ生地を口にする。生焼けだし、オレンジの水分を吸い過ぎてベチャベチャだ。
「美味しいよ」
ガレオンの言葉を、セリオンは信じ難そうに聞いた。セリオンも自分の皿のパイ生地を口にする。
「まずいじゃないか……」
セリオンのぼやきに、ガレオンは笑った。それにつられて、セリオンも少しだけ微笑んだ。
風が家を揺らす。二人は少し無言になった。
風の音だけが聞こえる部屋、ガレオンが口を開いた。
「私はね、時の魔法が……私の研究が“完成”する事を願っていた。理想郷なんて興味はないが、あの魔法の力には非常に興味がある。今もね」
セリオンは静かに聞いている。肯定も否定もしない。
「ただ、自身で直接見届ける事は難しそうだ」
ガレオンは弟子を見つめた。セリオンは真剣な眼差しである。
「頼みがある、セリオン。見届けてくれないか、時の魔法の行く末を……」
ゲホゲホと乾いた咳の音。
「それは、あの魔法を完成させるって意味だろう? そうなると……あの子は……」
ガレオンは首を横に振る。
「成否は任せる。あの魔法を完成させてもいいし、止めてもいい。それも含めて、見届けてくれないか」
「驚いたな。魔法研究狂いの師匠がそんな事を言い出すとは」
風が吹く。
「拒否権は?」
「ないよ」
ガレオンはセリオンはの左腕に触れた。
「すべて君に任せよう、セリオン」
◆◆◆
大きな石橋の上、ルリットが跳ねるように走る。シノブを待つ為に立ち止まった。
「ねえ、シノブお兄ちゃん! ママに早く会いたいね!」
「うむ、必ず会えるでござるよ」
その時、犬の吠える声が響いた。橋の下からだった。
「わんちゃん?」
橋の下を覗こうとしたルリットの背後に、赤髪の女が近づく。
赤髪の女はルリットに手を伸ばそうとした。シノブはそれに気づき、ルリットの手を素早く引いた。
「きゃっ!?」
赤髪の女が舌打ちした。女の胸元にはノウス教団のバッチが光っている。
「せっかくのチャンスだったのに……!」
シノブはルリットの手を引きつつ、後ずさる。
「ノウス教団でござるな……!」
ふと辺りを見渡すと、何人かに囲まれ始めていた。
赤髪の女は髪をかきあげた。不敵な笑みを浮かべる。
「捕まえなさい! そこの男は殺していい! とにかく紋章の子を捕まえるのよ!」
同時、人の波がルリットとシノブに押し寄せる。シノブはルリットを抱えて、ジャンプしながら躱す。そして、人混みをどうにか抜け出した。
「待ちなさい!」
瞬間、パシンッ、と何かが弾けるような音。シノブの視界の端に、黒くしなるものが見えた。鞭だ。
女の声がする。
「理想郷の為──!」
飛ぶようにしなる鞭の先端が忍の足を掠める。
教団の信者たちが殺到してくる。足を止めたら終わりだ。
「紋章の子を置いていきなさい!」
女のヒステリックな叫び声。
「お断りでござる!」
シノブは人々の間を縫って逃げ回る。
目の前に船の群れが見えた。港まで走ってきていたのだ。
このままでは追い詰められる。
ふと、シノブの目に入ったのは一隻の船。たった今、岸から離れたであろう大きな船。
「ルリット殿、捕まるでござる!」
「うん!」
シノブはルリットをしっかり抱きかかえて、思い切り地面を蹴り上げた。岸から船までの、十数メートルの距離を一気に跳んだ。
後ろで女の声がする。
「嘘でしょう!? ああもうッ……よりによって……!」
シノブは船に着地して、後ろを振り返った。女は爪を噛みながらシノブたちを睨んでいた。
船は港からぐんぐん離れていく。これで、ノウス教団がシノブ達に追いつく事は不可能となった。
美しい白い街並みが遠ざかる。ルリットとシノブは街を眺めていた。
「このお船、どこに行くのかなあ」
ルリットの問に、シノブは振り向いて船の様子を観察した。
「どこでござろうな……」




