30.慟哭
数年前。それはとある春の午後だった。
ガレオン邸に突如やってきた女。桃色の長いストレートヘア。青い瞳。
「レイアと申します。どうぞよろしく」
部屋に入ってきたレイアは、どこか虚空をみるような目をしていた。
ガレオンはセリオンを呼びつける。
「彼女は研究に協力してくれる、貴重な協力者だ。身篭っていてね。世話を頼む。できるね、セリオン?」
セリオンは頷きかけて一瞬止まった。
「俺は妊婦の世話の仕方なんて──」
分からない。そう言いかけた時、レイアが遮った。
「心配はありません。自分の事は自分でできますわ」
レイアの真顔には、なんの感情もなかった。セリオンは不思議に思った。レイアの纏う雰囲気は独特で、まるで人形のようにも思われた。
宣言通り、レイアは自分の事は自分でした。むしろセリオン達の方が世話になっている有様である。
レイアは魔法道具でゴチャゴチャの部屋を片付けたし、様々な料理を作ってくれた。
「君は本当に器用だよ。俺ときたら……はあ……」
オレンジの皮を包丁で剥きながら、セリオンは呟く。
「ありがとう。あなたは随分……いえ、少し下手ね」
レイアはセリオンの手元をチラッと見た。危なっかしい手つきと、ボロボロのオレンジ。
「前にウィンドリパイを焼いた時は、皮だらけのオレンジとベチョベチョのパイ生地ができたよ」
「焼いたの? あなたがひとりで?」
正気か、というレイアの表情にセリオンは苦く笑う。
「正確には、焼けなかった、かな。アレはパイではなかった」
「……ふふふ」
レイアが口元を抑えて笑った。初めて聞いたレイアの笑い声は、鈴のように響いた。
レイアはセリオンの手からオレンジを取って、スルスルと剥き始める。
「今日はちゃんとしたパイが焼けるわ。私がいるもの」
セリオンは、レイアの手元を静かに見つめていた。素晴らしい手際だった。
その日は見事なウィンドリパイが焼けた。
季節は移り変わっていく。
夏の日、白い街と青い空を見つめながらレイアは風に吹かれていた。お腹がだいぶ出てきている。
「子供を時の魔法の依代にするらしいね」
それでいいのか、という意味合いを含めて、セリオンは尋ねた。レイアは何でもないように肯定した。
「ええ、それで皆が理想郷にいけます。この子は尊い使命を背負っているのです」
腹を撫でたレイアの白い手。セリオンは水平線を見つめる。
「名前はどうするんだい?」
レイアは何も言わなかった。セリオンが続ける。
「ほら、あるだろ。色々と……そうだな、例えば……リリー、ララ、ルリット、メアリー……」
レイアは目を見開いてセリオンを見つめる。
「あなたが一生懸命考えるのね」
それを言われて、セリオンはきょとんとした表情になった。
「それもそうだな」
レイアは微笑んだ。腹に置かれたその手が微かに震えた事に、セリオンは気づかなかった。
秋の夕暮れ。白い壁が夕日に赤く染まる。重そうなお腹を抱えてレイアは歩く。その隣には、荷物持ちをするセリオン。
大きな石橋。その真ん中でレイアは立ち止まった。青い目が夕日をじっと見つめている。
「そんなに見つめると目に悪い」
セリオンが言う。レイアは夕日から目をそらし、海鳥を見上げた。
「最近、少し怖いの」
怖い、と言う割にはどこか平坦な声だった。
「怖い? 何が?」
セリオンの問に、レイアはおずおず答える。
「自分と……」
レイアは腹を擦る。
「この子……あとは、分からない。何が怖いか分からない」
セリオンは何を言えばいいか分からず、レイアが見つめるのと同じ海鳥を目で追った。
夕日が沈むまで、二人は橋にいた。
そして、その日はやって来た。少し寒い日だった。
ガレオン邸に赤子の鳴き声が響く。
セリオンはレイアのいる部屋に入った。
静かな陽の光が窓から部屋に落ちている。
レイアは赤子を抱いていた。生まれたばかりのその子の声だけが、部屋を満たしていた。
ポタ、ポタ……と雨のような粒が赤子のおくるみを濡らす。
「どうしよう……私……どうすれば……」
それはレイアの涙だった。セリオンは何か声をかけたかったが、どんな言葉も喉の途中で止まってしまう。
「私は……この子を……」
レイアが震えている。歯を食いしばって涙をこらえている。
「ごめんなさい……!」
それはセリオンへの言葉ではなかった。赤子への言葉だった。
──慟哭。涙にくれるひとりの母を、セリオンは見つめることしかできなかった。




