29.出生
翌日、シノブとルリットはガレオンを訪ねた。
「すまないね、呼び出すようなかたちになってしまった」
ガレオンは申し訳なさそうに眉を下げた。
ほとんど家具もなく、妙にこざっぱりとしている。あまりにも物がない。
「まあ、そこにかけなさい」
上質な革のソファーにシノブとルリットは腰掛けた。対面のソファーに、ガレオンはゆっくりと座る。
「フカフカだね!」
ルリットはニコニコだ。シノブは緊張していた。今からどんな重大な事が話されるか、気が気でない。
「昨日はありがとう。買ってきてくれたオレンジは、ウィンドリパイにしたよ。オレンジをそのままいれた大雑把なパイだが、街の名物料理なんだ」
ルリットが座ったままぴょんぴょん跳ねる。
「パイ!? 食べたーい!」
キラキラしたルリットの瞳。ガレオンは悲しそうに首を振った。
「人様に出せるような出来ではない。残念ながらね」
海風が庭の木を揺らす。そよぐ木の葉が窓を引っ掻く音が小さく聞こえている。
「ルリット君はね、ガラスのヒビの様な物なんだ」
突然始まった例え話に、シノブは首を傾げた。
「ヒビ……?」
「時の流れをガラスとしよう。ルリット君はそのガラスにある小さなヒビなんだ。そのヒビに刺激を与えれば、ガラスは崩壊する」
ガレオンは続ける。
「ヒビを刺激すればガラスは崩壊する。──ルリット君を刺激すれば時間は崩壊する、という意味だよ」
シノブは信じがたいものを見る目で、ガレオンを見た。
「時間の崩壊……!?」
シノブの声に、ガレオンは目を瞑った。
「時間の崩壊。それは、すべての時間──過去・現在・未来が渾然一体となる世界。既に死んだ人間とも再会できる場所。それが教団の理想郷なのだ。レイア君がそう言っていた」
母の名前を聞き、ルリットが目を輝かせる。シノブは絶句した。何故、レイアがそんな事を知っているのだろうか。
「ママの事、聞かせて!」
ガレオンは頷いた。
「レイア君は、ルリット君に紋章を刻んで欲しいと言ってやってきた。まだ、ルリット君がお腹にいた頃の話だ」
「お腹に?」
ルリットが不思議そうな顔をする。ガレオンは優しく微笑み、
「君が生まれる少し前の話だよ」
と付け加えた。シノブは真剣に聞いている。
「当時の私は若かった。研究の実験台として、喜んでレイア君を迎え入れたんだ。そして、ルリット君に紋章を刻んだ。ガラスにヒビを作ったのだ」
ガレオンが少し黙る。シノブが口を開いた。
「レイア殿は……ノウス教団の──」
「信者だったよ。熱心な。だから、子供を理想郷計画に捧げた」
「ささげ?」
ルリットが尋ねる。ガレオンはあえて答えなかった。シノブは優しくルリットを撫でた。
ガレオンはルリットをじっと見つめる。
「しかし、ルリット君がここに居るということは……レイア君は教団を抜けて逃げたのだろうね」
「ママが?」
「ああ、君を守るために」
シノブは顎に手を当てる。レイアはルリットを守るために逃げた。つまり、逃げなければルリットは危険に晒されるという事ではないか。
「ガレオン殿。ガラスのヒビに“刺激”を与えると言ったでござるな」
「ああ」
「刺激──とは。教団はルリット殿に何をするつもりでござるか?」
ガレオンは少し考えて、首を横に振った。
「すまないね。それは分からない。ただ、あまり好ましくはない事だろう」
その表情に嘘はなさそうだった。
風が強くなる。木の枝がコンコンと窓にぶつかった。
「レイア君はルリット君を産み、すぐにここを去った」
ルリットは足をバタバタとさせた。
「ねえ! ルリットが生まれたとき、ママはどんなだった?」
期待のこもった眼差しに、ガレオンは優しく微笑んだ。
「──笑っていたよ。幸せそうにね」
「ママ……!」
ルリットは満面の笑みを浮かべた。シノブも顔を綻ばせる。
その時、ガタンと隣部屋から物音がした。シノブが立ち上がりかけるが、ガレオンがそれを制止した。
「猫だよ。飼っているんだ」
「左様でござるか」
ルリットが立ち上がり、ぴょんぴょん跳ねる。
「猫! 猫ちゃん! ルリット触りたい!」
「ふふ、駄目だよ。怖がりなんだ」
「え〜」
ガレオンが寂しそうに微笑む。
「さて、私から話せる事はもうなさそうだ。先を急ぐ旅だろう。これ以上引き留めるわけにもいかないね」
「ルリット、おじさまとお別れしたくないなー。いっしょに来たらいいのに!」
ルリットの無邪気な言葉。ガレオンは愉快そうに笑った。
「それはいい! だが、なかなかままならないものでね。私はここを離れられない。仕事が山積みなんだ」
◆◆◆
シノブとルリットを見送ったガレオンは、ガチャン、とドアを閉じた。
「ゲホッ……ゲホ……!」
酷い咳をしながら、よろよろと歩く。
「もういいぞ」
その言葉を合図に、隣部屋からひとりの男が出てきた。
男の黒真珠のような目は、心配そうにガレオンを見ていた。
「セリオン。音をたてるなんて、迂闊だな」
セリオンは真剣な眼差しである。強い風が家を軋ませる。窓ガラスに木の葉と枝が激しくぶつかっている。
「師匠があんな嘘を言うからだよ」
その言葉に、ガレオンは押し黙った。セリオンは責めるように続ける。
「レイアはあの子を──ルリットを産んだとき……」
「泣いていたじゃないか」




