第15話 名付け親 ※ザカリア
子供を育てるのが、こんな大変だとは思わなかった――目の前を鶏がバサッとジャンプした。
鶏が城の廊下を歩いている……
「なるほど。鶏を城の中に入れるという発想が、子供にはあるんだな」
自分が予想外のことも起きる。
感想を述べた俺に対して、セレーネのほうは違っていた。
「ルチアノ! にっ、にわとりっ……」
セレーネは鶏の大群に、悲鳴を上げそうになったのを、なんとかこらえ、鶏を捕まえようとしていた。
だが、鶏を捕まえることができず、涙目だ。
貴族令嬢として、妃候補として育ったセレーネが、鶏を捕まえる方法を知っているわけがない。
一方、息子のルチアノは天使のような笑顔を浮かべている。
「お母様。どうかした?」
ルチアノに悪気がないのはわかっていた。
しかし、城の中が阿鼻叫喚に包まれるのは、時間の問題だった。
「ルチアノ様っ! 庭に魚を飼われては困りますっ!」
「ひっ! 鶏が城の中に!?」
「鶏につつかれたっ!」
「掃除したばかりなのに、鶏の足跡がああああ!」
コッコッコッ……
鶏が鳴きながら、俺の前を横切っていった。
セレーネは捕まえることを諦め、ルチアノに言い聞かせる。
「え、えーと、ルチアノ。魚は川へ帰して、鶏は小屋に戻しましょうね」
本人に困らせている自覚はないため、怒ってはいけない(乳母から借りた育児本参照)。
そんな一文を思いだし、なるほどとうなずいた。
育児については完全に素人である。
「お母様、雨が降って外は寒いよ。 外にいるのは可哀想だから……」
俺の背後で、優しい心をお持ちですねと言ったのは、ジュストだった。
「褒めて伸ばすタイプか」
俺がジュスト言うと、首を横に振った。
「なに言っているんですか。ルチアノ様はお優しい上に天才ですよ」
心からの言葉に、俺は無言になった。
侍女たちまで、それなら仕方ありませんなんて言い出す始末。
セレーネだけが、懸命にルチアノに言い聞かせている状況だった。
「みんな、帰る家があるのよ。魚は川に、鶏は小屋で住んでいるの。ルチアノが帰れなくなったら、どう思うかしら?」
「悲しい……」
「そうよね。じゃあ、お家に帰してあげましょうね」
「お母様。新しいお家にしてあげたらどうかな? 城は立派だし、住み心地は悪くないと思う!」
うっ……と、セレーネが言葉に詰まった。
ジュストや侍女たちが、歓声を上げた。
「ルチアノ様は賢くていらっしゃる」
「可愛らしい上に天才ですわね!」
魚の網を手にし、必死に鶏を追いかけながら、よくそこまで褒められるものだ。
「ルチアノ。池に魚がいたが、今日の昼は魚か?」
「えっ? お昼……?」
「鶏はローストチキンか? 厨房から逃げたようだな」
俺が鶏を捕まえようとした瞬間、ルチアノがダッシュで走ってきて、横から鶏をさらって抱き締めた。
「この鶏は違うよっ! メス! メスだから!」
「ああ、卵用か」
「た、たまご……」
ルチアノがショックを受けているが、城で飼っている鶏は食用である。
「では、昼は魚料理ということだな」
「待って! 食べられる前に戻してくる……。ザカリア様から守らなくちゃ……」
結局、全員で鶏を捕まえた。
雨の中、鶏を小屋へ戻し、魚は川へ放流した。
ルチアノはがっかりしていたが、セレーネはごめんなさいと謝っていた。
「元気すぎて、毎日、負けてしまいます」
「気にするな。元気な方がいい」
俺がそう言うと、ジュストが笑った。
「ルチアノ様のおかげで、城もザカリア様も明るくなって、楽しく過ごせていますよ」
「俺も?」
「お気づきでしょう?」
確かに変化はあった。
城の中は花が飾られ、庭が手入れされ、食事は茹でただけのジャガイモから、マッシュポテトやミートポテトパイなどが出るくらい変わった。
「せっかく友達から魚をもらったのにな……」
どうやら、池の中の魚は、仲良くなった子供たちからもらったものだったらしい。
からっぽになった池を眺めて、ルチアノががっかりしている。
「ルチアノ。雨が晴れたら、魚釣りへ行くか?」
「釣り!? ザカリア様が、魚釣りに連れていってくれるんですか?」
「ああ」
「行きたいですっ!」
ルチアノは目をキラキラ輝かせていた。
「お母様も一緒に!」
「私? 釣りは教わったことがありませんけど。できるかしら……」
「セレーネは見ているだけでいいだろう」
「そうですか? それなら、ご一緒します」
セレーネだけでなく、ルチアノにとっても、初めての魚釣りだ。
いい経験になるだろう――そう思っていると、ジュストが鶏の羽根をくるくるさせながら言った。
「まるで親子ですね」
「当たり前だ。俺が名付け親だからな」
そう――ルチアノの名は俺がつけた。
「ザカリア様! 雨が止みました!」
窓を眺めていたルチアノが振り返り、灰色の雲の途切れた空を指差した。
眩しい日差しが城を明るく染めた。
◇◇◇◇◇
ルチアノが生まれた日は、朝から雨が降っていた。
「まだか?」
「ザカリア様。今の『まだか』は五十六回目になります。落ち着いてください」
昨晩から、ずっと待っているが、難産らしく、なかなか産まれてこない。
城内は寝不足の人間が続出し、今日は食事も簡単なものでいいと、全員が口を揃えて言うくらい気が気ではなかった。
俺に落ち着けと言ったジュストだが、乳母だった母親に――
『母さん。子供はどれくらいで生まれてくるんだ?』
――と、聞いていたのを俺は見ていた。
乳母から、『あんたは早く結婚しなさい!』と、呆れられ、叱られているところを俺はしっかり目撃していた。
「雨が止みませんね」
ジュストは話すこともなくなったのか、天気の話を始めた。
その時だった。
子供の産声が聞こえたのは。
「産まれましたよ! 男の子です!」
産婆が部屋の扉を開けるまで、とてつもなく長く感じた。
「セレーネ様はお疲れです。今日はザカリア様だけにしてもらいますよ」
手伝っていたジュストの母親が、入ろうとした城の者たちを止めた。
駆けつけた者たち全員が、がっかりしていたが、ジュストの母親には敵わない。
「さあ、ザカリア様。どうぞ」
乳母にうながされ、部屋へ入ると、横になり休んでいたセレーネが、俺に気づき、微笑んだ。
「男の子でしたわ」
「ああ……」
なんと声をかけていいのか、わからずにいると、ジュストの母親が俺に言った。
「ザカリア様。もっと近くで子供を見たらどうですか?」
「だが……」
父親でもない俺が、生まれたての子供に近寄っていいのだろうか。
「ザカリア様。子を抱き上げてください」
「触れても、いいのか?」
「ええ。もちろんです」
セレーネは笑顔でうなずいた。
泣いている子をどう扱っていいか、まったくわからなかったが、そっと抱き上げた。
小さな赤ん坊が腕の中で、元気に泣いている。
大声で泣く赤ん坊に戸惑いながら、セレーネを見ると、彼女は優しげな笑みを浮かべ、俺と赤ん坊を眺めていた。
な俺の記憶の中の母は、いつも暗い顔をしていた――けれど、母もあんなふうに微笑んだことがあったのかもしれない。
「ザカリア様。子に名前をつけていただけませんか?」
「俺が名前をつけていいのか?」
「はい。名付け親になっていただきたいのです」
まさか、独身の俺が親になるとは思わなかった。
だが、腕の中の赤ん坊と俺は、すでに約束しているのだ。
セレーネも赤ん坊も守ると。
疲労していても、セレーネの目は強く――そして、美しかった。
「わかった」
――俺たちは王位を奪いに行く共闘者だ。
この先、子が俺たちを繋ぐ絆の証になるだろう。
雨が止み、オレンジ色の光が窓から射し込み、部屋を照らした。
「ルチアノ」
セレーネは眩しそうに我が子を眺めた。
雨が止み、燃えるような光の中で、ルチアノは誕生した――