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◇◇雪◇◇
微かな音がして目が覚めます。何となく意識がはっきりしません。何が起きたのか。周りを見渡すとここは和室のようです。ですが、周りは洞窟のように石で囲まれています。ここはどこでしょうか。こんな場所は覚えがありません。
「あ、目が覚めましたか?乱暴な真似をしてしまい申し訳ありません。体調はどうでしょうか」
声を掛けてきた女性を見て私は思い出しました。この人はホテルのコンシェルジュで私は誘拐されたのだと。
「気分はどうでしょうか」
「問題ありません。私は誘拐されたという事でしょうか?」
「その通りです。初めに自己紹介をさせて頂きます。私は藍良朔と申します。改めて手荒な真似をしてしまい申し訳ありません。可能な限り危害を加える気はありません。と言っても安心できないでしょうけれど」
誘拐されるとは不覚でした。気が緩んでいました。しかしそれはそれとしてこの方はどうするつもりなのでしょうか。あのホテルが安全だとされている理由の一つは働いている人の身元が全てわかっている事です。ただわかっているだけではなく、家族構成まで公開されています。勿論、普通の人は見る事が出来ませんが、裏のネットワークを使う事で見る事が出来ます。その変わりに高額の給料と好待遇が約束されています。そして人事には父が関わっています。父が信頼できると判断した上で弱みとなる家族や恋人がいると人だけが働いています。父が関わっているホテルだからこそ私は安心しきっていました。甘かった。
私を誘拐したことが明らかになった時点で父は藍良の家族を人質にとるでしょうし、彼女自身を許すことは無いでしょう。誰かに人質でも取られているのでしょうか。
「こちらの自己紹介は必要ありませんよね。あと言葉遣いを改めて貰えませんか。誘拐犯に丁寧に話されるのは不快なので」
「確かにそうですね、では遠慮なく。自己紹介は必要ないですよ。神薙雪さん。名前で呼んでもいいかしら。この状態でもその態度は流石ね」
「お褒めに預かり光栄です。呼び方はお好きにどうぞ。私を縛るなりしなくてもいいのですか。それとここは何処でしょうか?お教えて頂けると有難いのですが」
「問題ないね。私はあなたより強いので。盈虚と同じ施設で実験台にされていたといえば何となく察しはつくでしょ。ここは世界と世界の間、狭魔ってわかるかしら」
盈虚と同じという事は、人外の存在を人と混ぜる実験をされていたという事でしょう。実験に使われた子供達は大半が死んでしまったとのことで、生き残ったのは片手で数えられるしかいないと盈虚は言っていました。そして生き残った子供は程度の差はあれど、「成功」しているとの事です。彼女が言っている事が正しいのであれば、人から外れた力を持っている事になります。そうであれば仮に私がマシンガンを持っていても勝ち目はありません。確かにそれなら縛る必要などないでしょう。
「そうですか。狭魔の事は知識としては知っています。ここは狭魔だったのですね。どおりで不思議な空間な訳です」
「たまたま見つけてね。ホテルの近くにあったので使わせて貰っているの」
「そうですか。私はどのくらい意識を失っていましたか?」
「十分くらいかな」
十分。彼女が本当の事を言っているとしたら盈虚が助けに来てもおかしくない時間が経っています。ただし、狭魔では時間の流れが違ったはず。それなら元の世界ではどの位経っているのかわかりません。
彼女の口ぶりからして私の家の事は知っているようです。それなら生き伸びる事が難しい事は知っているでしょう。であれば私が生き延びる事はまず無理でしょう。まあ、私はこれから裏社会で生きていくつもりでしたし、私が贅沢しているお金も犯罪によって得た物が大半でしょう。ならこうして殺されるのも仕方がないことかもしれない。ただ、盈虚は罪の意識を持ってしまうでしょう。それがとても心苦しい。本当に。
それはそれとして、どうせ死ぬなら煽りますか。何もせずにただ殺されるのは悔しいですしね。
「それにしても、中途半端ですね。私の事を知っているのに傷付けたくないですか。私が無事なら父が手を抜くとでも思いましたか?だとしたら考えが甘いですね。それとも私の無事を交渉材料にして自身の無事を確保するつもりでしたか?無理ですよ」
藍良は虚を突かれたような顔でこちらを見てきました。そして口元を抑えて笑い始めました。何が可笑しいのでしょうか。少し不快です。
「ごめん、ごめん。そう睨まないでよ。この状況でここまで堂々としているなんて流石ね」
「睨んでいるつもりはありませんでした。すみません」
「いや謝らないでよ。この状況どう考えても私の方が悪いし。まあ、雪さんの言っている事は間違ってないね。あなたの事を可能な限り傷つけたくないのは本心だけど、必要なら何でもするから。この後、どんな経緯をたどろうと私は死ぬだろうからね。でもいいの。生きてここを出るつもりはないから。そもそも私の目的はお金でもあなたでも神薙家でもないから」
「違うのですか?」
誘拐したのだから何か目的はあるはずです。一般的にはお金か復讐でしょう。神薙家の裏の顔を知らないのであればお金でしょう。でも彼女は知っていました。それならお金目的ではないでしょう。その為、神薙に恨みを持って復讐をしようと考えているのだと思っていました。復讐が目的なら、自分の命を懸けてでも成し遂げようとする人もいるでしょう。彼女もそうだと思っていました。復讐が目的ならどのみち私は殺すだろうと。でも違うのでしょうか。
「違うよ。私の目的は盈虚だから」
「は?」
「別に隠す事でもないから目的を話すね。少し長くなるけど聞いてもらえる?」
「是非。とても興味があります」
「雪さん。あなたは頭から離れない光景ってある?ふとした時に蘇る光景。どうやっても忘れないだろうなっていう光景」
「…難しいですが無いですね」
「私にはある。それに盈虚が関わっている。雪さん、あなたは私達がどうやって助けられたか知っている?」
「自力で逃げ出した盈虚を保護したのが父だと聞いています。盈虚の話を聞いた父が組織を潰し、貴女達を保護したと」
「概ねその通り。この職場も養親も神薙社長が探してくれたの。本当に感謝しているわ。ああ、話逸れたね。盈虚は逃げ出したというよりは正面から出て行ったって言う方が正しいかな」
「そうなんですか」
「うん。あの日、盈虚はね徐に立ち上がって鉄の檻を殴り破ったの。そして施設にいた大人達を全員ぶちのめして出て行った」
「それは知らなかったです」
「あの頃は地獄だった。劣悪な環境、最悪の衛生環境、非道な実験、癒えない痛み、増えていく傷、減っていく子ども達、私達を人として扱わない研究者達。実験によって異形の身体に変わって、目の前で処分される光景を見た事も何度もある。あいつらにとっては失敗作は邪魔なだけだからね。その度に吐いて殴られた。思考能力を奪われて何故生きているのか、そもそも私は本当に生きているのかそれすらわからなくなる。生きているとわかるのは実験された時に走る体への激痛だけ。死ねた子達の方が幸せなんじゃないかって思っていた。自ら命を絶った子もいる。私もそうしようとした。だけど、出来なかった。私はね、吸血鬼の細胞を入れられたの。それが適合していた。と言っても私に発現したのは再生能力とほんの少しの力だけだった。力って言っても常人の数倍程度。自分を傷付けても治ってしまう。それでも一度、クズ共の目を盗んで釘で首を掻ききった事もある。だけど、無理矢理人の血を飲まされた。そしたら治っちゃったの。それで悟った。私は此処で死ぬことは出来ないって。…ああごめん、こんな話聞いても不快になるだけだよね」
「いえ、聞けて嬉しいです。盈虚は昔の事を殆ど話してくれないので。本当は盈虚がどんな経験をしていたのか聞きたかったのです。でも、無理に聞いていい事ではないので諦めていました」
「そうなんだ。ともかく地獄だった。死んだように生きていた。それを盈虚がぶち壊したの。私がどうしようもないと諦めていた檻も、大人達もぶち破っていった。その光景を見た時、私は痛み以外で初めて生きているって実感したの。人を殴る音と、悲鳴、飛び散る血。あの光景も十分地獄だろうね。でも私にとっては救いの光景だった。輝いては無いけどね。私は盈虚が血に濡れた手で扉を壊し外に出て行った時、私にもまだ未来があるのかもしれないって、希望を持ったの。まあ、盈虚の真似して檻を殴ったら骨が折れたんだけどね。その後は二日くらい檻の中でクズ共のうめき声を聞きながら過ごしていた。やっぱり私に未来なんてないって諦めかけた時、助けが来たの。それがあなたのお父さん、神薙社長。正直最初は誰の事も信じられなかった。けれど、私を受け入れてくれた家族のおかげで少しずつ人としての生活を送れるようになったの。何年もかかったけど、『普通の人間』として生きられるようになった。趣味も出来たし、化粧もした。旅行も行った。それでも時々、昔の記憶が蘇る」
「それは非道な実験の事ですか?それとも」
「盈虚の方だね。不思議な事にあれ程トラウマになりそうな実験の事は全然思い出さない。盈虚の事は思い出すのにね」
「そうなんですか。それで貴女は盈虚に何をさせたいのですか」
「あの日の再現。私は普通に生きている。幸せを感じている。そのはずなのに時々私は本当に生きているのかわらなくなる。突発的に死にたくなる。未来に何もないんじゃないかと思ってしまう。考える事が嫌になる。そうやって思考の檻に囚われる時、決まって盈虚が全てを壊したあの時の事を思い出すの。そしてもう一度あの光景を見たくなる」
「それが私を誘拐した理由ですか」
「そう。私と盈虚の人生が交わることはもうないって思っていた。いや、神薙社長にお願いすれば会う事は出来るだろうけど、会うだけじゃ意味ないし。殺す気で暴れてって言っても変な顔されて終わりでしょ」
「それはそうでしょうね」
「だから諦めていた。死ぬまで見る事は出来ないだろうってね。でも、そこにあなたと盈虚が現れた。でも、現れただけじゃ意味がない。襲い掛かっても軽くボコられてお終い。あなたを傷つければ怒るだろうけど、そんなチャンスは無い。そう思っていた。常に二人で行動していたしね。でも今日、盈虚とあなたは別々に行動していた。そしてあなた一人だけが帰って来た。チャンスだと思った。最初で最後のチャンス。この機会を逃せば私は一生後悔する。だから行動に移した」
「成程。失礼ですが、希死念慮をお持ちですか?」
「無いね。見たい映画が来月公開するし、買ったばかりで使っていないコスメもある。近くのカフェで食べていないメニューもあるし、ラーソンの新作スイーツも食べてない。親孝行もまだしたい。死ねば親孝行どころか悲しませる事になるしね。旅行にも行きたいし、続きが気になる漫画もアニメも本もある。まだクリアしてゲームも残っているし、最近契約したばかりのサブスク全然使ってない。職場先にも迷惑を掛ける事になる。死ぬ前に処分したい物が家に沢山ある。死にたくないよ」
「では何故こんな事を?一生後悔すると言っても死ぬよりもましなのでは?」
「それは考え方の問題だね。私は一生に一度のチャンスを逃した後悔をしながら生きていたくはない。今でも自分が死んでいるのか生きているのかわからなくなる。そのまま生きていくくらいならこのチャンスを掴む。それで死ぬのは嫌だけどね。自分がする事なんだからリスクは受け入れる」
「そうですか」
「まあ理解出来なくて当然だよ。あなたを誘拐した事で盈虚が本気で怒ればそれでいい。もし駄目ならあなたを傷つける。最悪殺す。そうなったらごめんね」
「謝られても困ります」
「それはそうだよね。まあ、雪さんになにかあった時点で怒り心頭だから傷つける必要はないと思いたいけどね」
「そこまで怒るでしょうか」
「怒るわよ。盈虚の目を見ればわかる。あなたの事しか考えてない」
「そ、そうでしょうか」
「凄い照れてるね。まあ、そういう事だから盈虚を読んで欲しいの。スマホは持っているよね?」
「その必要はありませんよ。既に私の居場所を知らせるシグナルを送っていますから」
「いつの間に。流石ね。後、お願いが一つあるの。図々しいと思うだろうけど聞いて欲しい」
「何でしょうか」
「あなたが生きて帰ったら今回の事は私が独断で起こした事だって話して欲しい。私の歪んで歪な執念と執着が原因で、周りの人は何も関係ないってね。神薙社長は話の分からない方じゃない。あなたの証言と調査で事実をすれば本当の事だってわかるはず。そうすれば周りの人に罰を与える事はしないでしょう」
「成程。わかりました。私が生き残って、貴女が死んだ場合は必ず証言するとお約束します」
「お願いします。私のせいでホテルや家族に迷惑は掛けたくない。…こんな事した時点で迷惑かける事は間違いないけど、少しでも被害を抑えたいの」
「父の事は全力で説得すると約束します」
「よろしくお願いします」
そう言って彼女は深々と頭を下げました。私が頭をあげてと言わなければ土下座をしそう
でした。
それにしても面白い方ですね。
「間もなく着くと思いますよ。貴女とはもっとお話ししたいのに残念です」
「嬉しい言葉ね。それならまだ時間があるわ。この空間は時間の進みが速い。現実世界の十倍の速さで時間が経過する。まあおおよそだけど。とりあえず飲み物でも用意しようか?」
「是非。そうですね。まずは恋バナでもしましょうか」
タグにほのぼのを付けていましたが、消しました。書いていて全然ほのぼのしてないなと思ったので。