「足りない抑止力」についての私見垂れ流し
人は思うより簡単には死にませんが、願うよりは簡単に死にます。願うよりも人命は軽いのです。社会の奴隷として重い労役を課せられても人は滅多に死にませんが、強い武力の前では成す術なく散ります。暴力を行使出来る者が暴力の行使を選択すれば、僕たちは必ず、悲惨な結果を突きつけられます。
選択には結果が伴う、これは善悪を超えた所にある普遍的な定めです。選択者は、別の選択肢を取れば得られたであろう結果と、選択するという立場にいなければ得られたであろう安息を犠牲にして、自らの選択の先にあるだろう(少なくとも選択者にとっては望ましい)結果を求めます。選択し行動を起こした時、必ず何かを捨てているのです。暴力を行使した者は、暴力を行使しないことで得られる温かくて優しい結果を捨てています。たとえ暴力の行使が選択肢の中にある特別な者であっても、そして暴力の行使が生む結果の主観的価値が高くとも、暴力を嫌う風潮の下、膨大な辛苦と入念な準備を必要とするそれを選ぶには、相応の狂気・覚悟が必要です。現代社会で暴力を選べる人間の心は経済合理的でなく、選んでいる時点で理由の(勝手な)決着は見ていて、かつ今更折れたら舐められる、恥ずかしいという感性を持っていることが多いため、後から合理的な言葉で説得しよう、経済的制裁で対処しようとしても無駄なのです。
とはいえ、暴力は否定されなければなりません。尊い人命などの道徳的な理由に加えて、それによって失われた物的・人的資本ストックの回復には長い時間がかかるからです。復旧・復興が効率的に進まないリスクも生まれます。しかし、大きな狂気・覚悟を持った強い選択者がいて、彼または彼女がすでに暴力という選択を終えているならば、待ち受ける結果を捻じ曲げられる者は、これまた暴力という選択肢を持った選択者だけなのです。なるべく悲惨さを抑え、かつ、なるべく暴力の後継者を減らしてくれる役者が欲しい。暴力を振るって得られる結果の価値を下落させられる選択者、つまり暴力の抑止力は、世界にとって必要な存在です(抑止力自体が暴走する可能性は世界の天才たちが対処してくれたとして)。
リーマンショック以降、アメリカやEUは内政の舵取りで手一杯で、台頭する中国の体制も盤石とは到底言い難く、しかもCOVID-19が世界のありように劇的な変化をもたらし、各国政府に莫大な調節費用の支払いを押し付けました。有限の人間が有限の時間で生み出せる行政サービスにはどうしても限界があり、軍事的外交は疎かにならざるを得ません。また、イラク戦争によって培われた米国人の厭戦機運などを起点に、世界で暴力自体を忌避する傾向も強まりました。ゆえに抑止力の空白地帯は広がりつつあり、暴力行使を選べる異常な選択者にとって有利になってきているように感じられます。有利な人間は元気になる、これも世界の大原則です。
軍事方面に割くリソース不足は仕方のない現象です。しかし、過度に暴力を嫌がり、持ち得た抑止力まで封じ込めてしまうという選択は、僕たちにとって本当に良いものでしょうか。一度選択をすれば、善悪を越えた所で結果を突きつけられます。平和の賛美は良いことですが、維持可能性まで詰めて、初めて平和は保たれます。軍事的抑止力をどう生み出すのか、どう振り分けるのかについて考えるか否かが、逃げることの出来ない選択肢として国際社会の前に立ちはだかっていると思います。
ちなみに、最初の「人は思うより簡単には死なないが願うよりは簡単に死ぬ」というメッセージは、僕が小説を執筆する上で重要なテーマの一つで、常に頭の片隅に置いています。嘘です。煩悩に塗れております。