続く元治元年 〈其の一〉
元治元年、とは言うものの年号が改まったのは二月二十日の事で、それまでは文久四年である。
この年は、前年の暮れに江戸を出発した徳川家茂の入京で幕を開ける。前年暮れまでに続々と入洛した公武合体派の大名たちによる参与会議は議事紛々としてまとまらず、一橋慶喜の癖である変節__頭が良すぎる為、状況に対して余りに鮮やかに意見を翻し過ぎるのだった__などに振り回され、とうとう空中分解して済し崩し的に解散した。
三月には、水戸で天狗党の変が起き、忽ち鎮圧されて勤王派の勢力はズルズルと後退を余儀なくされたと言って良い。この天狗党は十二月に越前福井で幕府に降伏し、翌年には三百五十人が斬罪に処されるという哀れとも無残とも言い難い結末を迎えた。 それを尻目に、猛と隼人は神戸に出かけていた。五月に発足したばかりの幕府の海軍操練所である。
「何故俺までこんな所に……」
「心配すな、お前が木像の首切ったなんて誰も思わんわい」
「そんな事ではない」
弱みを見せたくないのか胸を張って肩を怒らせているが、流石に隼人も声を潜めながら苛立たしげに言った。
「よお、あんたらは、確か」
猛と隼人に声をかけてきたのは、目の細い髪の毛のボサボサのいやに背の高い男であった。
「あ、坂本さん」
塾頭である。
「エエ、確か、本郷君と一文字君いうちょったかの」
「いえ、藤岡と佐々木です」
「いやあ、済まんキニ、何せ人が多いからのう、名を憶えるのも一苦労ぜよ」
軍艦奉行並勝安房守海舟の提案で創始されたこの操練所には、様々な国の出身者が居るが、その中で塾頭を務めているのが幕末にその人有りと後世褒めそやされた、土州浪人坂本竜馬である。浪人、と言うが彼は別に当世流行の脱藩浪士ではなく、土佐からの召還命令に従わなかった為自動的に浪人したのである。尤も、彼は以前にも脱藩しており、これで二度目という珍しい経歴の持ち主だった。坂本だけではなく、この海軍操練所の土州者は彼の言葉に従って皆命令を無視した。
「藤岡さんよ、あんたは有名な適塾の出だそうじゃのう」
「いえ、中途で辞めまして」
坂本の言葉に猛が決まり悪そうに言った。
「洪庵先生が江戸に下られたそうじゃきに、気の毒じゃな」
「いえいえ」
そう言われると猛も気が引ける。どうせ適塾では落ち零れだったのだ。
「坂本さんには全然敵いませんがな」
謙遜ではなく、猛の本音だった。この坂本竜馬と言う人物は、剣術では千葉周作の弟、千葉貞吉の経営する桶町千葉と言われる北辰一刀流道場の塾頭を務め、江戸の大試合では並み居る強豪を打ち負かして最後には神道無念流斎藤弥九郎道場練兵館の塾頭桂小五郎を破って見事優勝、そればかりではなく日本一の洋学者との評判の高い佐久間象山の門下では西洋砲術で免許皆伝を取ったほどの人物なのだ。
「坂本さんは何でも出来はるから凄いわ」
「しかし、坂本先生」
隼人も剣術使いの端くれだから坂本の評判も聞いている。
「先生は真剣で人を斬った事は御ありですか?」
隼人の言葉に、猛が苦い顔で振り返った。 「試合における先生のご高名はかねがね伺っておりますが、真剣でならどうでありましょう」
「阿呆、止めんかい」
猛が堪り兼ねて制止した。
「先生」
詰め寄るように言葉を重ねる隼人の目が据わっていた。同じ一刀流でも、隼人の甲源一刀流は木刀による古風な型稽古を重視する流儀で、竹刀を用いた当世風の流派とは一線を画する伝統派であった。実戦で使えるのかどうか、このような下らない“実戦格闘技”論争は江戸時代から続く今も変わらぬ話題であり、竹刀を用いた派手なフルコンタクト剣術に対し、古流の流派は実戦がどうの真剣なら強いとそんな事ばかりを言い立てるが、それにどんな意味があるのだろう。
「無いぜよ」
坂本は、にやりと笑って答えた。当然であろう、彼は芯からの実用主義者で、わざわざ刀などを振り回して人を切り刻むような面倒を好まなかったのである。短い刀、拳銃、最後に万国公法と、会う度に懐から出す物を取り替えた桧垣清次との有名な逸話もそうだし“人斬り以蔵”を説得して勝海舟の警備をさせた事も有る。ようするに時代遅れの日本刀でむやみやたらと人を斬殺するなどという行為に彼は意味を認めなかった。
「そうじゃのう、うらを殺そうと襲うてきよった馬鹿はおったがの」
何かを言いたげな、と言うより隼人に何がしかの謎を掛けているような悪戯っぽい笑いで坂本は答えた。
「それで__」
坂本の腹の内を掴めずに用心深そうに押し黙ったままの隼人に代わって猛が話を繋げた。
「そりゃ当然返り討ちにしてやったぜよ、そうでのうてはここにこうしては居られんわい」
「それは凄い、流石でんな」
隼人はまだ警戒の表情で沈黙している。この手合いの訳知り顔が、回りくどい言い方で隼人のような剣術屋を説き伏せたり、小馬鹿にするような事が度々ある為、彼も疑い深くなっている。要するに刀で人を斬る事等意味が無い、というのである。猛もその人種であった。しかし、坂本という人は大人と言うか、この種の実戦剣術信者とは度々顔を合わせており、隼人程度の考えている事くらいは既にお見通しと言った風情であったが、成る丈刺激しないような調子で言葉を続けた。
「何、向うはうらを斬ろうと目を血走らせて向って来よる、こっちは刀を思い切り叩き落してやればそれで充分じゃ」
刀という物は、確かに頚動脈でも切りつければ簡単に人も死ぬが、時代劇のように颯爽と胴を薙ぐのはそう簡単に出来る物ではない。昭和陸軍の暗殺事件では、隊の剣道師範が幾ら斬りつけてもどうしても殺す事が出来ず、銃剣の要領で刀身自体を握り締め、手に大怪我を負って漸く本懐を遂げたと言う。要するに生身の人間を斬るのは並大抵の事ではないのだ。対するに斬るつもりが無い方は力任せに相手の刀を叩き落せば良いのであるから、技量が同等ならこちらの方が断然やり易いのである。技量、と言うものの、この場合斬る方は心気を落ち着け一気に目標を切り裂かねばならぬ為寸分たがわず切断する技が必要であるが、受けて立つ方は棒振りさえ出切れば良いから、竹刀剣術で充分間に合うのである。しかし__
「坂本先生__」
隼人の顔は険しくなった。
「刀で人を斬る必要は無いとおっしゃるのですか?」
「おい、こら」
隼人の剣呑な物言いに、猛がオロオロし始めた。
「マッコト、うらにはそうじゃ」
坂本が惚けた感じで答えた。
「先生は」
問い詰めるような表情で隼人が言った。
「先生は、もし人を幣さねばならぬとすればどうなさいますか?」
「止めっちゅうとろうが」
猛が押し留めるように隼人をなだめた。
「わしがか?」
坂本は困ったようにニヤニヤしている。血の気の多い隼人など、相手によっては問答無用で抜刀しかねないのだが、この坂本と言う人は人間が出来ていると言うのか、嫌味がまるで感じられない。普段は無愛想と呼ばれるほどの男だが、いざとなると実に愛嬌が有るというか、人を引き込む不思議な吸引力と言うか、人間的魅力が有った。
「困ったのう」
坂本は苦笑いしながら、そのフケだらけの蓬髪を某名探偵よろしくボリボリ掻いた。
「うらは今の所わざわざ殺さねばならん相手も居らんきに、そう言う事を考えた事も無かったわい」
「坂本先生は剣客にあらせられる筈では?」
「そう言われると弱いぜよ」
「もうええ、そこまでにしとけ」
見かねて猛が再三制止した。
「佐々木君__」
坂本が言った。
「君は人を斬った事が有るのかね?」
坂本の問いに対して隼人は口を噤んだ。ここで下手に人斬りの履歴を喋ってしまえばそれを元に幕府の役人に通報される恐れがある。成る程、この坂本竜馬なる人物は、一見度量が広く人の心を掴むような魅力も有るが、所詮は幕府の手先となって海軍学校の塾頭をやるような男ではないか。信用して良い物かどうか妖しい所だ。
「昨今、天誅流行で人を斬る者もそこら中におるからの」
隼人の沈黙に、坂本は自分から言葉を続けた。
「そう言った無茶苦茶な連中の御蔭で、異人どもも恐れてこの日本では清国でやったような傍若無人な振る舞いは出来んからの」
アヘン戦争で大敗して以来清は事実上欧米列強の植民地同然であった。彼等はアジア人を見下し、顎でこき使い、恰も奴隷の如き扱いを平気で行う。この為、欧米人はアジア人に対してはひたすら高圧的な態度で臨む事が有利であると思い、益々居丈高になり日本でもやはり同じでんで事を進めようとした。成る程、徳川幕府はこの政策によって思い通りに屈服したが、彼等の予想に反し、日本には刃渡りのある鋭利な武器を常備携帯する貴族階級が存在し、その中の反体制に属する者達が外国と通商を結ぶ政府の国政公務員を襲い、そればかりか居留してきた外国人までも標的にするのである。当時、
“ローニン”
と言う言葉は欧米にまで紹介され、極東の島国に潜む都市型ゲリラとして怖れられた。日本にやって来る西洋人は、常に死の危険と隣り合わせの日常を覚悟せねばならないと警告を受けた位で、この小さな島国が清国やインドの如き侵略を受けなかった理由の一つは、確かに余り利益にならないと言う事も有ったが、このような攘夷志士の活動による所が大きかったのである。
「人にはそれぞれの天命が有るもんじゃ。本朝には人を斬りとうてウズウズしとる奴らがゴマンと居る。何もわざわざうらがその仲間に加わらんでも手は足りるわい」
もうこの辺にしとけ、と言う風に坂本は顎を撫でた。
「この竜馬が為すべき事は日本国に海軍を作り、夷荻どもを追い払う事じゃ。それ所か、わしはこの日本海軍を率い、逆に世界に乗り出すつもりでおる」
坂本の言葉に、隼人よりも猛の方が感心した。今の段階では夢幻のような法螺でしかないが、何とも気宇壮大というか、男の本能を刺激する野心的な言葉である。こういう辺り、一見のほほんとしてはいても矢張り猛も“志士”であったかも知れない。しかし、隼人には余り興味の無い事である。この坂本竜馬と言う人物に対し、有名な歴史小説の大家が言うには、
「高杉晋作は性格が型破りだったが、坂本竜馬は思想が型破りであった云々」
と評したが、彼は思想家という堅苦しい呼び方よりは構想家、ないし企画家と言う方が適当かも知れない。いずれにしても坂本の大風呂敷に、猛はかなり心を動かされたらしかった。