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時に文久三年 〈其の七〉

この政変の前後に、長州と歩調を合わせた在野の倒幕家たちが続々と暴発__としか言えないような騒動を引き起こし、何れも無残な結末を迎えている。その代表が、大和の国各地で無計画なゲリラ戦__殆んど打ち壊しに近い粗暴な物だったが__を展開した挙句、散り散りに解体した天誅組であろう。

その面子の中に、我等が藤岡猛と佐々木隼人の姿も有った。

“何で俺までこんな事せにゃならんのじゃ”

猛は内心泣きたい思いだったが、この昂揚しきった集団の中で一人異論を吐いた所で無意味を通り越して危険だった。しかも隼人も彼等に混じって心行くまで討幕の素志を語り、皇国の将来に思いを馳せた。

「嬉しそうやのう」

苦り切った表情で猛は隼人に言った。

「貴様も喜ばんか、遂に倒幕の火の手は上がったのだ」

一座の誰もが明日にも徳川幕府を倒せるかのような白昼夢に酔い痴れている。この日八月十六日、恐らくは長州藩のブレーン的役割であった久留米浪人真木和泉辺りから提案されたのであろう、天皇自身による橿原神宮への、

「大和行幸」

が実現寸前までこぎつけており、倒幕派の気勢は最高潮に達しているといって良かろう。まさか彼等の知らぬ間に、宮廷内で政情激変の陰謀が着々と進行していようとは夢にも思わなかった。この集団を率いるのは土佐勤皇党の吉村寅太郎、その領袖として担ぎ上げられたのは若き過激派公卿中山大納言忠光十九歳。彼等はこれから具体的な倒幕活動の第一歩として現在の奈良県五条市にある幕府代官所を襲撃し、一気に幕府に宣戦布告を叩きつける計画を立てていた。現在でも五条市内の国道24号線沿道には、観光客を目当てにしたのか『天誅組発祥の地』とよく目立つ看板が掲げられてある。手引きするのは維新後正五位に叙任された乾十郎。彼はかつて五条の代官所に奉公していた為、内部の事情に詳しかった。

十七日午後四時には天誅組一行は五条陣屋を襲い、代官鈴木源内を始め五名の首を刎ねて梟したのであった。

“やってもうたあ!”

この無謀の挙に加わった、と言うより巻き込まれた猛は頭を抱える想いであった。隼人は天誅組の同志たちと共に喜びにむせび泣き、この壮挙の成功を祝し、快哉を上げたが、それも儚い真夏の夜の夢でしかなかった。その翌日に宮中に於いて長州系公卿が足場を失い、京から追放された事が程なく広まり、天誅組の無謀な騒ぎを止めに向った平野国臣までがこの政変に憤り、自らも生野で同様の騒ぎを起している。五条襲撃に勢いづいた天誅組はこの重大な政変にも挫けず、寧ろ自分達の手でこの劣勢を挽回すべく大和十津川村の所謂“十津川郷士”千人を糾合し、二十六日高取城を攻めたが見事に撃退された。この時天誅組を迎え撃ったのは高取藩が幕府から管理を任されたブリキトースと呼ばれる大砲で、去る事二世紀余の大阪の陣で大阪城の天守閣を狙い、淀君の茶箪笥を打ち砕いて講和に持ち込んだ、伝説の“権現砲”である。何せ二百四十八年前の、前世紀所か三世紀前の遺物である、六門の内の五門までが使用不能だったが辛うじて砲撃可能な一門の砲声に驚いて、高取城への一本道を進んできた天誅組の義勇兵たちは逆走を始め、後は蜘蛛の子散らすように逃げ出したのであった。

「逃げるな、進め!」

混乱の中、隼人は必死で味方を叱咤したが誰の耳にも届かず、いたずらに逃げ散るばかりであった。

「わしらも逃げるど」

隼人の袖を引っ張って猛が逃げ出した。

「こら、藤岡、待て、待たんか」

逃げる猛の後を、又しても隼人はあたふたと追いかける羽目に陥った。

この退却は悲惨だった。伝説のブリキトースは鉢鉄の上から砲弾が直撃した男に数日耳鳴りを与えるほどの威力で、天誅組たった一人の犠牲者の死因は味方に踏み殺された物であった。その後天誅組は吉野の山に篭ったが、幕軍の包囲を受けて約一月後に潰滅した。

一方、平野国臣だが彼は但馬の豪農中島太郎兵衛らと共に別働隊を組織して天誅組を側面から支援しようと図ったが、時既に遅く天誅組は潰滅した後だった。平野は義軍を解散しようと主張したがいきり立った一同は弔い合戦と称して十月十二日未明、天誅組同様兵庫県朝来郡生野村の幕府代官所襲撃に成功、農民二千人を動員したが、幕軍の出動を知るや首謀者が逃走した為これも失敗に終った。

その後暫らくは倒幕派も閉塞状態に追い込まれ、年内には目立った活動も起きる事無く残念ながら鳴りを潜めねばならなくなった。隼人は切歯扼腕して悔しがったが、猛にしてみれば漸く一息つけると安心した。

所が、隼人の大和魂というか尊皇攘夷の情熱はいっかな収まる事が無く、今度は横浜に行くと言い出したのである。

「俺は数多くの奸賊に天誅を加えたが、未だ異人を斬った事が無い」

猛は色を失って押し留めた。当然であろう、そんな事をすればえらい事になるし、第一成功するかどうかが怪しい物なのである。以前には居留地の外国人たちも東洋人を見下し切っていたから全くの無警戒だったが、安政六年のロシア人水夫殺傷事件を皮切りに同様の事態が続発し、今では警戒も厳重に為っているし、彼等自身が懐に拳銃を忍ばせて不測の事態に準備は万端怠り無い。因みにこれらの異人斬りの下手人はほんの数例を除いて殆んどが不明のままであった。中でも前年横浜の生麦村で起こったイギリス人無礼討ちは白昼堂々の処断であり、英国側も強硬に抗議はしたものの、事件を知ったアメリカ人の中には日本の習慣を無視した不敬によって起きた、当然の報いであるとの好意的な意見も述べられた。余談になるが、事件から八十年近く経った昭和十八年、件の生麦村に生を受けた赤ん坊が成長し、人々から”燃える闘魂”と呼ばれ“インドの狂虎”“大巨人”“不沈艦”と言った黒船軍団や、長州薩摩から出た(アニマル浜口は鹿児島出身である)“維新軍団”を迎え撃つ事になろうとはこの時代の誰一人思いもよらなかったに違いない。

結局隼人の横浜行きは沙汰止みになったが、九月二日には横浜でフランス人士官が斬られると言う事件が起こる。幾ら隼人でも、大和の変から十日ほどで横浜まで行ける訳も無いから下手人は別の誰かであろう。

この時期は勤皇派にとっては受難の時代と言ってよかろう。長州の失脚によって無所属の浪士達は活動拠点を失い“人斬り以蔵”と呼ばれた連続殺人犯岡田以蔵が捕らえられ、それを契機に前土佐藩主山内豊信の命により首領の武市瑞山を始めとした土佐勤皇党の面々が悉く投獄されたのであった。それから暫らくの間、倒幕派の活動は停滞する。



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