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時に文久三年 〈其の六〉


八・一八クーデター__

後世このように呼ばれている宮中権力の形勢変動は、長州と並ぶ革命勢力である筈の薩摩によって画策された。

この政変までの長州系過激志士は、その機敏な行動力と大胆な政見でもって朝廷にまでその影響力を広げ、倒幕勢力の頂点として天下に鳴り響いてきた。それに対してもう一方の革命組織である薩摩は当然の事ながら強烈な対抗意識を抱き、時に協力し、時に対立したし、長州も負けじと一層倒幕に熱を入れた。譬え、そうだとしてもこの薩摩の行動は、客観的に判断しても少々異常とさえ思える。何故なら、薩摩藩が手を組んだ相手は佐幕派勢力の筆頭とも言える会津藩なのである。幾らなんでもやり過ぎでは無かろうか。要するに権力闘争の権謀術策である。この為、明治維新という近代日本を作り上げたこの革命に対して、その位置付けは歴史家により大分見方が異なっている。まず、一般的なイメージとしては徳川封建制度を打破した人民開放の為の階級闘争、所謂“日本の夜明け”である。或いは維新後、政府から発せられた王政復古の大号令、つまり旧秩序の復権の為の政変、つまり“勤皇運動”。更に今ひとつは、薩長勢力による権力闘争という見方である。長州藩に関して言えば、階級打破の目的が第一であったと考えるのは自然である。何故なら長州倒幕グループの主力は吉田松陰の弟子である所謂松下村塾系の志士達で、そのメンバーには本人は上士出身とは言え無階級軍隊である奇兵隊を創設した高杉晋作や水呑み百姓出身の伊藤俊輔などもおり、彼等の目的は徳川封建制を覆し、虐げられた最下層から脱出すると言う悲痛な願望であった。だが、薩摩は違う。革命運動に参加したのは下士とは言え全て武士階級であり、庶民は全て世の中の動きからは隔離され、ひたすらに士族にぬかずく事を強制されていた。薩摩士族は日本でも最強との評判が高く、それだけに庶民階層への差別もまた日本で一番酷い藩の一つでもあった。人格者などと言われた西郷隆盛なども、個人的な人格は兎も角、その実質的行動は結局の所、支配者として慈悲深いだけのことであり、同階級の士族の情を慮ってその誇りを殊更に大事にした。維新後、士族の特権を廃止しようとしたのは不人情家の大久保利通であった。西郷は最初からこの政治運動を政権奪取のための権力闘争と規定しており、当然長州に対してもそのような角度から判断し、その行動の動機を読もうとした。彼等は、もし幕末における最も傑出した人物の一人であった前薩摩藩主島津斉彬が生きておれば島津幕府さえ作ろうというような気構えであり、同じように長州の活動も毛利幕府を作る陰謀ではないかと、新時代の“志士”とは思えぬような発想を抱いたのであった。とまれ敵であった筈の会津と手を組み、“同志”であった筈の長州を蹴落とす事によって薩摩の宮中クーデターは達成された。この一件で長州における薩摩への憎悪が極に達し、

「異人の靴を頭上に頂くとも薩摩とだけは手を組まぬ」

とまで怨み抜いたのである。

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