時に文久三年 〈其の五〉
その間、新撰組の活躍(?)は益々猛威を振るい、特にその勇名を知らしめたのは七月十五日の大阪北陽における乱闘事件であった。前日の十四日に二人の長屋の有る天満に宿を取った新撰組に対し、少しでも目を離すとすぐにでも斬り込んで行きそうな剣幕の隼人を抑えるのに猛は一苦労した。その新撰組の筆頭局長芹沢鴨が狭い路地でおどけて両手を広げ、道をふさいだ相撲取りを一刀の元に斬殺したのである。当の芹沢は何と言うことも無しに新地の住吉屋で遊興していたが、仲間の敵を討つべく手に手に角材を掴んだ巨大な相撲取りたちが押し寄せて来た。予想していた事らしくやおら刀を取って立ち上がった芹沢以下十五名はこの巨人達を迎え撃ち、血祭りに上げて天下を戦慄させたのであった。その恐怖は倒幕派のみならず、佐幕派にまでも及んだ。この事件について新撰組を取り調べた大阪西町奉行所与力内山彦次郎が、約一年後の元治元年五月二十日に殺されたのである。犯人は無論新撰組、指令を下したのは芹沢ではなく近藤であった。何故なら芹沢は文久三年九月に近藤一派の手によって粛清されたのだから。近藤とすれば、徳川家の一大事の今日、身を呈して倒幕派と戦う新撰組を、高が相撲取りの五人や十人無礼討ちにした位で執こく追求するとは、許し難いと言う訳である。京都でも、将軍の猟場で鴨を撃った隊士を注意した伏見奉行所与力が同じように殺されたが、何れの事件でも奉行所は新撰組に対し抗議すらできず、泣き寝入りしたのであった。
「えらいのが出て来よったのう」
猛はこの事件の後、深々と嘆息した。