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ついに明治元年 〈其の七〉


江戸は片付いたと言っても、東日本一帯は反政府軍の勢力下に在り、特に北陸戦線は大苦戦の連続である。官軍の責任者であった世良修蔵や岩村高俊などの拙い交渉なども有って東北北陸の諸藩が新政府に対する敵対姿勢を明確に表明し、奥羽列藩同盟が結成されたからだった。中でも官軍にとって最大の難敵となったのが越後長岡藩。この、高々七万四千石の小藩相手に何故官軍がてこずったかと言えば、ここ長岡の軍備兵装が徹底的に近代化されていたからである。長岡藩の筆頭家老河井継之助と言う人物がまた異能の辣腕政治家で、例のエドワード・スネルなどと盛んに取引を交わし、様々な改革を断行してはこれを成功させ、藩の陸軍装備を一新させていたのである。

「世に無くてはならぬ人になるか、世に有ってはならぬ人になれ__」

こう言い放った河井と言う男はその言葉通りの生き様で波乱の生涯を北陸戦争に散らせた異常人だったが、その手腕は長州の大村益次郎と並んでも決して遜色ないであろう。残念ながらこの両者が直接戦火を交える事は無かったが、彼は実力だけではなくその際立った非常識ぶりでも大村に引けを取らず、この二人の番付は、西の変人大村益次郎に対し東の奇人河井継之助といった、幕末の一代奇観と言えよう。だが、結局蓋を開けてみれば僅か二月足らずで長岡は陥落したのである。

河井自身は外国商人と積極的に接触したり、備中松山藩の参政山田方谷という百姓上がりの実学者の元に自主的に研修に出掛けるなどして藩財政を立て直した実力者で、その財力を注ぎ込んで当事の世界最高水準の陸軍装備を充実させた。対するに官軍の方は各地に兵員を派遣しており、長岡のみに戦力を集中できず、装備もここだけを優遇できなかった。にも拘わらず、長岡は二カ月も持ち堪える事ができずに陥落した。何故これほど有利な条件を生かす事が出来なかったのか、理由は至極簡単である。それを扱う肝心の兵隊が旧態依然の武士階級だったのだ。これほど開明的な人物が何故これほど致命的な失態を犯したのか考えてみるに、一つには小なりとは言え譜代大名がそうそう身分制度を突き崩すような大改革を断行できないと言う事情が有ったし、もう一つには河井本人の限界であっただろう。大村がただ実用だけを追求した技能者、それ以上に彼自身が百姓出身で士農工商などと言った身分制度を敵視していたのに対し、河井は飽くまで武士道とも言うべき己の美学に拘ったのである。その河井流武士道と言うものは国学や日本刀などと言った装飾的形式武装ではなく、飽くまで実力主義、武士と言う階級はどのような場面においても他の階級を圧して有能でなければならないと言う誇り高き攻撃的保守性であった。第一、士農工商を否定するようならば新政府軍に敵対したりはしないだろう。しかしながら、如何にガトリング砲やカービン銃などを取り揃え、火力兵器で優越していたとは言え、結局は武士階級のみで構成された長岡軍の実力は推して知るべし、革命と言う使命感に燃える官軍の前に脆くも崩れ去り、反政府同盟は最重要拠点を失ったのである。

長岡の、ひいては奥羽諸藩の最大の敗因はこうした保守的な閉鎖性、要するに身分差別制度への執着であったと言える。否、元を正せば彼等が官軍に抵抗した最大の理由は、身分制度への拘りだったのではなかろうか。如何に表向きは会津への処置の緩和云々と名目を言い立てても、根底には封建制度への執着が有ったのは明白である。逆の言い方をすればこの明治維新は、如何に王政復古を高らかに謳い上げようとも矢張り階級闘争の側面を色濃く反映している事は間違いない。何故なら官軍が僅か半年あまりで奥羽諸藩の反革命連合を完全に鎮圧できた最大の理由は民衆の蜂起に有ったからである。こう言った農民の協力なくしてこれほど速やかな勝利は不可能だったに違いない。彼等にとって、官軍は解放軍であった。藩の武士階級、庶民の上に君臨してきた“支配者”達は下々が唯々諾々として主君に従うのが当然と思い込んでいた為に、彼らに対して横柄で無慈悲だった。“藩”の危機に際して、下民が非常事態宣言に対して従うのが当然で、彼等が官軍に“寝返る”等とは夢にも思わなかったのだろう。藩の敵は当然庶民にとっても敵であると最初から決め込んで、若しくはそう一言高飛車に言い放てば素直に従うと思っていたのだろうか。或いは、士民一体となって幕軍を迎え撃った長州の例を挙げてそのように錯覚していたのかも知れない。対するに官軍の方は勝利の為の手段であったとは言え地元の百姓町人たちに親切で、概ね好意的に受け入れられた。ここが日本人の悪い癖であろう。“一所懸命”と言う言葉があるようにこの国の為政者は、西洋に見られる__エディ・マーフィが主演映画でコミカルに風刺したような__極端な拝金主義や他のアジア諸国のような賄賂や汚職が蔓延らない代わりに、どうしても既得権益に対する執着心が強いという反面がある。従って当事の支配階層は幕末の経済苦境に在っても庶民に対する慈善的救済政策などは殆ど行われず、最後まで彼らに対する傲然たる姿勢を崩さなかった。要するに“御上”の意識である。対するに革命側は何とか市民の機嫌を取らねばならない為、譬え芝居でも低姿勢であった事は間違いない。無論全てがそうではない、中には横暴を働いて後々まで怨みを買った例もあるが、総体的に見れば庶民に対しては丁重であった。彼等の間には、薩長が天下を取れば三年間年貢米が免除されると言う噂まで立っていた。もしかしたら、官軍が間者を使って意識的に広めた攪乱工作だったのかもしれない。こう言う期待の元に庶民は官軍を歓迎し、旧領主に反旗を翻した訳だが明治新政府といえどそれほど思い切った善政を敷く訳にも行かず、結果的にはその過剰な期待は裏切られた形となるのである。

「アホどもが」

後でこういった奥羽諸藩の傲慢な態度を耳にした猛は心底彼等を軽蔑した。

「そんな事ばっかりしとるから負けるんや」

彼だけではなく、洋学者たちは概ね四民平等の支持者である。おまけに、猛は仙台伊達家の蔵役人の子として大阪で生まれ育った為に武士と言うものを全く有り難がらない。

「全く、呆れて物も言えぬ。武士たる者、下々には慈悲を持って臨むのが徳と言うものではないか。そのような愚か者どもに庶民を統べる資格など無いわ」

隼人は飽くまで武士道支持者である。そんな相棒に、複雑な苦笑いを向けた猛だった。そんな相棒の視線に、何やら決まりが悪くなった隼人は言い訳のように言った。

「武士と言うものは氏素性ではない。天朝様の元に忠誠を誓い、身を捨てて同胞の為に尽瘁してこそ武士と言うものだ__」

矢張り隼人には判らないらしい。猛は何やら気が抜けたように笑っただけであった。

庶民に見放された奥羽諸藩は足場を失って官軍を相手に孤軍奮闘せざるを得なかった。長岡で言えば、一時的に藩軍が長岡城を奪回した際、官軍に協力した庶民を処刑したと言う事もあって益々旧幕藩体制に対する人々の心は離反し、奥羽同盟は確実に加速度的に最後の時を迎えつつあった。

七月二十九日、頑強に抵抗を続けた最大の強敵長岡を落とした勢いで北陸東北を平らげた官軍は、旧権力の亡霊とも言うべき抵抗勢力を片っ端から下して遂に残るは(長州にとって)憎みても余りある怨敵、会津のみとなったのである。

奥羽戦役最後の激戦地となった会津若松城への攻撃は八月二十三日、それから矢張り領内の庶民に見捨てられた会津藩は無益な抗戦を繰り返し、遂に少年まで借り出して自決させると言う自虐的倒錯武士道の“滅びの美学”を満喫した挙句に漸く降伏したのが九月二十九日、丸一月にも及ぶ抵抗の末、藩主松平容保が投降してこの国内戦にも一応の区切りがついた。官軍奥羽方面総司令官板垣退助は、敵地遠征の連戦で疲れきった官軍僅か五千が、何故本拠地に篭る三千の会津兵をかくも容易く打ち破ったかと考えてみれば、民衆が主君を見限ったからである、と如何にも藩の上士出身らしい嘆きを洩らした。彼は軍人としては卓越した腕前を持っていたが、根が単純で考える事が真っ当すぎたため、状況の変化の中でその都度主義主張が変わり、それも政治的な擬態ではなく心底から思うのである。後に自由民権運動に参加した動機の中に、薩長閥に牛耳られた明治政府に対する抵抗が有った事は確かだが、この時に見せられた民衆の姿も幾分影を落としていたのかも知れない。

この奥羽制圧の達成は官軍首脳部を安堵させたであろう。何故なら、新政府と旧幕府の抗争に対し、局外中立を保って来た諸外国が漸く官軍を正式な日本政府として認定し、旧幕軍を反政府勢力として交戦団体に規定したからである。要するにやっと新政府は正式な日本の統治機構として国際的に認知され、会津落城に先立つ九月八日には、年号が明治と改められ、九月二十日には天皇陛下が京を出発、江戸に動座して東京と改名、事実上の遷都が実現した。

「おお__」

十月十三日、京より下向して来た天皇陛下の神輿を江戸の庶民と共に沿道で伏し拝んだ隼人は、感激のあまり涙を流した。何せ文久三年の大和行幸では、例の木造事件で御尋ね者になっていた隼人が、流石に幕府関係者の犇めく真っただ中に紛れ込む訳にも行かず、泣く泣く諦めて見損ねただけに、生まれて初めて目の当りにした天子様である。無論玉体は御簾の内にあって直接目にする事など出来る筈は無かったが、それでも隼人は満足であった。

「良かったのう」

男泣きに泣いて感動する隼人を宥めるように、猛が声をかけた。

「俺はこれまで生きて来た中で、これほどの感激はまたと無いわ」

国学思想に心酔した純情熱血の壮士としては、嘘偽りの無い真実の告白であろう。

「良かった、ホンマにめでたいわ」

隼人ほど極端ではないが、猛も生まれて初めて拝謁する天皇陛下の御姿に、何やら説明不能の感動が満ちてくるのを覚えた。どうやら相棒の国粋思想が感染してきたらしい。

様々な紆余曲折を経た挙句、ここに目出度く明治新政府は発足し、やっとの思いで産声を上げた訳である。

しかし__

「まだこれからやで」

猛の一言に、隼人も表情を引き締めて頷いた。何せ本州以西は鎮圧したとは言え、旧幕府海軍を率いた榎本武揚が蝦夷地に逃亡、独立政権を唱えて列強各国も一応それを承認したのだ。年が明ければ津軽海峡冬景色を押してかの地に渡り、春になれば五稜郭にこの最後の敵を追い詰め、国内統一の決勝戦を勝ち抜かねばならないのである。更にこれが終れば廃藩置県、佐賀の乱に始まる不平士族の叛乱を迎え撃ち、明治十年の西南の役まで国内戦の火種は尽きない。恐らく藤岡猛と佐々木隼人の二人はこれからも無意味な奔走を続けるであろう。

しかし、年号が明治に改まった時点で“御一新”は達成され“幕末“にも一応の区切りが付いた訳であり、明治維新の流れを追って進行してきたこの物語も、これにて終幕としたい。


この話も、今回をもって一応の終了とさせていただきます。

ここまでお付き合いくださいました皆様、誠にありがとうございました。

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