ついに明治元年 〈其の四〉
西郷吉之助と勝海舟の間で行われた三月十四日の談判により、徳川慶喜は罪一等を減じ、死罪を免れて実家の水戸に謹慎処分となった。世間の評判では最初、官軍、特に長州が中心となって慶喜を死罪にしたがっていたが、勝が乗り込んで一命を賭して助命を嘆願し、これを西郷が意気に感じて聞き入れた、となっているそうな。しかし、事実は全く違う。薩摩の西郷大久保が慶喜処刑を主張していたのに対し、寧ろ長州の木戸孝允の方が関係各位に助命運動を繰り返していた位である。所が、蓋を開けてみれば西郷がその劇的な風貌をもって見せ場をかっさらい、長州はその引き立て役に回されたのである。明治の長州系要人が西郷の事を嫌い続けた理由が判ろうというものである。引き立て役といえば、西郷自身の相棒とも言うべき大久保も事有る毎にそのような扱いを受けていたが彼の場合、本人自身が誰よりも西郷の信奉者であった幼馴染で弟分、言わば西郷支持者の第一号とも言うべき立場だっただけに、当然その種の感情は無いであろう。
所で、何故頑として死刑を主張していた西郷がこの期に及んで態度を一変させたのであろうか?英雄は英雄を知る、勝の捨て身の嘆願に感動し、慶喜を許す気になったのだろうか?或いはそれに先立って西郷を訪れた、山岡鉄舟の器量を見切って心を動かされたのだろうか?多分、西郷自身の心中として、それは恐らく嘘ではないだろう。しかし、政治的な状況が不利となれば当然そのような感動に身を任せる事はすまい。否、感動そのものすら拒絶したかも知れないのである。周囲の意見が殆ど慶喜助命に傾く中、機敏に空気を察知した西郷が周りの目を意識して、同時に彼自身が最も納得の行く理由を自らに言い聞かせてこの条件を呑んだのだろう。事の成り行きが西郷好みの流れを生み出し、その中で劇的な時間に身を任せ、舞台を演出したのではなかろうか。何度も繰り返すが、革命家と言う人種は劇的な味わいが好きで西郷の場合それが際立っているが、周りの人間にとっては鼻につく事も有るのだろう。恐らく西郷が初めに強硬姿勢で臨んだ理由は、簡単に言えば慶喜がやったのと同じ、要するに最初に厳しい条件を提示しておいて、押して押して押し続けた挙句に緩和すれば効果が高いという、交渉の初歩的な戦術だったのではないだろうか。それを、勝との江戸城明け渡しという最高の舞台で厳かに受け入れたのだろう。周りの気分を察しつつ、状況に応じて自由自在に操る手腕こそが最高度の政治家、究極の人間通、西郷の実力なのである。
因みに慶喜に関しては助命を主張した木戸が、会津の松平容保の場合最後まで死罪を主張したが、結局は恩命となった。会津藩と新撰組によって数え切れないほどの犠牲者を出した長州人としては当然の感情だったが、かつて彼等と手を組んで状況が変ると裏切った薩摩としてはこれ以上酷烈な処置を取る事は忍びなかったのだろう。
その江戸城明け渡し以来、官軍が駐留している江戸では、当事とんでもないロクデナシが屯していた。天野八郎なる人物が、慶喜が謹慎するのを不服とした旗本のドラ息子どもを焚き付けて、その棟梁にのし上ったのである。
それが彰義隊だった。