時に文久三年 〈其の四〉
さて、京都に赴いた猛と隼人__隼人に取っては三条河原に木像の首を梟して以来である。お尋ね者の隼人が今や厳戒態勢の京に上るのは猛としては賛成出来かねるが、仮に引き止めた所で聞く耳持たぬ隼人を一人で行かせる訳にもいかず、気は進まぬ乍彼も着いて来たのである。
「気にするな。役人など怖るるに足らぬ」
隼人は胸を張って答えた。確かに幕府の捕り方等は何が起きても対処する度胸も無く、浪士達は与力同心など全く意に介さず、彼らの目の前をこれ見よがしに踏ん反り返って往来するのだ。因みに隼人たちが引き起こした例の事件だが、会津からの情報提供により二日後には奉行所が犯人逮捕に向ったが、たった数人の志士たちを奉行所は虎狼のように恐れ、折角逮捕した後も他家預かりと言う殆んど無罪放免に近い扱いであった。尤も、切ったのが木像の首三つなのだから現代の感覚からすればこれでも重過ぎると言えば言えるが。
そんなこんなで京洛の往来を恐れ気も無く肩で風を切ってのし歩く隼人とトボトボその後を着いて行く猛の二人連れに、何やら目付きの良くない連中が声を掛けた。
「失礼だが貴公等は何れの御家中の方か」
言葉遣いは慇懃だが妙に威圧的である。それにこの尋ね方から察するに暦とした藩士で無くば遠慮は無用と言う感じである。見れば二人とも役人風ではない。かと言って何処かの家臣でも旗本でも無さそうだし、彼らも浪人らしい事はすぐに判った。
「主家などは無い」
隼人は相手を脅すような、更に威圧的な口調で答えた。
「我等は天下の国事に身を呈する志士為れば、主と申せるは天子様のみである」
“我等?”
いつの間にか自分まで勤皇の志士に引き込まれた事に、猛は内心閉口した。
「ほう」
相手の二人組も負けじと凄むようにして声を顰めた。
「されば貴様等、浮浪の者じゃな」
この一言に隼人は頭に来た。
「浮浪とは何事か!」
眉を吊り上げて睨み付けると、大声で怒鳴り散らした。
「外夷の侵略と言う未曾有の国難に際し、主家も捨て国許から飛び出し、身を捧げゆる我等に対し浮浪とは何事か」
すぐに逆上した隼人を、猛が飽きれた思いで見返した。
「見ればその方らもどうやら浪人と見受ける。されば互いに然したる違いは無い筈じゃ。人に対して浮浪とは、無礼にも程があるわ」
「我等は浮浪ではない」
浪人体の二人は胸を張って答えた。
「卑しくも会津中将様御支配、新撰組であるぞ」
「新撰組?」
猛も隼人も彼らの名を知らなかった。無理も無い、彼らが会津松平家の認可を受けて臨時雇いの治安組織となったのは一月余り前の三月十三日の事である。後世良く知られた、白地にトレードマークの例の“誠”の一字を背中に染め抜いたユニフォームも届いてはいなかったのだから。
新撰組__
小説や映画等で人気の高いこの幕末の浪人結社を現代風に解釈するとすればどう捉えれば良いのだろうか。例えば車などを使った凶悪犯罪が激化し、官製の交通機動隊では対処し切れなくなったとする。政府が民間から特別取り締まりチームを公募し、それに応募したメンバーが作った非常警備隊、と言う感じかも知れないだろう。天然理心流の道場などは差し詰め多摩の自動車修理工場で、そこに屯していた若造達が不景気に音を上げてこの募集に応募したと言った所であろう。近藤勇が跡取の居ないこの工場の次期社長、土方歳三、沖田総司あたりが高校にも行かずにぶらぶらしている内に済し崩し的に社員になった暴走族もどきと言った感じかもしれない。
尤も、このころの第一局長は水戸浪人、天狗党の生き残り芹沢鴨で、近藤は第二局長であった。
「その新撰組が一体何の用だ」
隼人は喧嘩腰である。この二人組に、と言うより彼らの名乗った肩書きに対して激しい対抗意識を抱いているようだった。会津中将松平容保と言えば身の程知らずにも京都守護職などと名乗り、悪戯に勤皇の志士たちを弾圧する憎むべき賊徒ではないか。おまけに共に木像の首を斬って“天誅”を加えた仲間を捕縛した仇である。その会津支配下と言えば、隼人に取っては公然たる敵と言っても良い。
「我等は会津中将様よりのお達しにより京洛の鎮護を仰せ付かっておる故、本陣まで同行してもらおう。京を騒擾する浮浪の者は捕らえるか、逆らえば斬り捨てても構わぬとの命である」
権高な物言いである。隼人は怒りに顔を引き攣らせた。辺りに張り詰めた空気が漂っている。最早一触即発の四文字を絵に描いたような場面であった。猛は肝を冷やして立ち尽していた。
隼人も、新撰組の二人組もすでに柄に手を掛けて、臨戦体制である。後は鯉口を寛げればいつでも刀が抜ける。
「待った、待った」
猛が両手を広げて隼人の前に立った。
「貴様、抵抗するか」
「まあまあ、シンセンかションベンか知らんけど、ここはどうか穏便に__」
猛は両手で抑えてと言うジェスチャーを示した。
「ションベンではない、新撰組だ!」
浪士が声を荒げた。
「不信のかどが有る故、取り調べると申して居るのだ、大人しく同行しろ」
「不浄の幕賊の手先如きが何を血迷うたか、身の程を弁えろ!」
隼人が猛の背中から怒鳴りつけた。新撰組隊士は度を失って鯉口を切った。最早刃傷沙汰は避け難い、その瞬間__
「ぐお__」
猛が目の前の浪士の懐に飛び込み、強烈な当身を食らわせた。それを見たもう一人が刀を抜こうとしたが、猛は今当て落とした男を放り投げ、戦闘態勢を許さない。相方の体を持て余し、怯んだ浪士が刀を抜く前に猛は愛刀竹光を引き抜き、目を突いた。
「ぎゃあー!」
男は顔を押さえて転げ回った。
「今の内や、逃げるど」
猛が隼人を促がして脚を飛ばした。見せ場を猛に奪われて躊躇していた隼人だったが、置いて行かれては適わぬとばかりにあたふたと後を追った。
暫らく走ってから猛は辺りを見渡し、後から追い付いた隼人を待って立ち止まった。
「あいつ等一体何なんや」
一息ついた猛が、隼人に尋ねるような独り言のような感じで言った。
「判らん」
隼人は汗をかき、息を乱して上の空と言った口調で生返事を返した。竹光をぶら下げた猛と違い、彼の腰に差しているのは本物の真剣である。伊達のアクセサリーで二本差しを身につけている猛とは違うのだった。
「えらいむさ苦しい連中やったのう」
自分の事を差し置いて猛はしゃあしゃあと感想を述べた。
「藤岡、貴様」
隼人が恨みがましい目付きで猛に詰め寄った。
「何故手を出したのだ」
「何言うてんねん」
猛は腕を組み、わざとらしい横目で隼人を睨んだ。
「折角あ奴等を斬り捨てて、軍神の血祭りに捧げようと言う所であったものを」
「アホ」
飽きれた猛が顔を顰めた。
「己はからまれる度に相手を一々梟し首にせにゃ収まらんのかい」
「不浄の賊徒に対してだけだ」
「もうええ」
猛はもう言い返す気力もなくなって、大儀そうにそこに座り込んだ。
「それにしても、わざわざ浪人を雇って我々の相手をさせようとは、臆病な会津中将めの考えそうな事よ」
会津藩主松平容保__
彼は元々荒事などには不向きな上品な貴族で、京都守護職も最初は断り続けたほどだった。その職に就いても容保は浪士達との対話路線による解決を模索していたし、何よりも彼自身の容貌が夫人のように柔和で、とても凶刃の乱舞する修羅の巷と化した京都の鎮護などに堪え得るとは思えなかった。この新撰組と言う浪人集団も彼自身が組織したわけではなく、江戸に戻った清川八郎と袂を別った浪人、近藤、土方一派と芹沢一派計二十四人が自分から売り込んだ物であった。寄る辺も無い浪人達としてはここで活躍して食い扶持に有り付かねばならないと言うので手に唾して奮戦した訳で、攘夷攘夷で沸き立つこの御時世を文字通り斬りまくったのである。その活躍の御蔭で、宮廷でも女官たちの話題の的であった容保の世間におけるイメージが血に飢えた魔物の如き凶悪な姿となり、尊攘派の憎悪を一身に集める羽目になった。
因みにこの数日後の五月十日に隼人の気分を大いに鼓舞する事件がおきた。山陽道の向うの関門海峡に砲声が轟き、メリケン蒸気船、ペンブローク号が大破した。この日は朝廷が命を下した攘夷決行の期日であり、長州藩の軍船が尋問から逃げる外国船を攻撃したのである。日本全国どの大名も、いや、毛利候も本気で攘夷などを実行するつもりなど無かったが、藩内の急進派による勇み足であった。
「やったぞ!」
数日後、この快挙を知った隼人は声を張り上げてその武勇を賞賛した。猛はまんじりともしない顔でそんな隼人を眺めていた。
「もっと喜ばんか。これぞ貴様の言う“大攘夷“ではないか」
因みに、隼人達のように短兵急に事を急いで矢鱈と居留地の異人や開国派を刃にかけ、天誅を加えて事足れりとする行為を“小攘夷”と言い、もっと積極的に相手の事を知り、その発達した兵器によって外国の侵略に対抗する考えを“大攘夷”と言った。尤も、これは猛のような開明派が言っている事だが。更に、この砲撃の翌日の十一日には、伊藤俊輔、志道聞多等長州藩士が横浜港からえげれすに秘密留学に出かけたのだから、この藩が攘夷攘夷の一方で単純な国粋主義ではない開明性を蔵している事を端的に顕している。
“これのどこが大攘夷か”
猛はもう何も言うべき事が無かった。日本の旧式砲などで欧米の最新兵器群に対抗するなど、無謀に過ぎる。流石に刀で外国に挑戦するよりはマシだが、それでも相手の事を知らなさ過ぎるではないか。この異常精神の行き着く所が、第二次大戦における“竹槍”思想であると言えよう。猛の予想通り、六月一日米国艦隊の報復攻撃を受けた長州藩はいとも簡単に打ち破られ、五日には仏国艦隊にも手痛い目に合わされた。この砲撃事件は国内外に様々な波紋を投げかけ特に隼人のような攘夷家たちは狂喜し、同じ攘夷倒幕勢力である薩摩藩は刺激され、折りしも前年の生麦事件の談判の為英国が差向けた艦隊とこちらも砲撃戦を行い、後に有名になる新型砲アームストロングの洗礼を受けその脅威を思い知らされ、戦後交渉に訪れた英国行使と意気投合し、潜在的な開国方針に転ずるきっかけとなった。余談ながら、高杉晋作がこれに先立って幕府役人の随行員として上海に渡った際、書き記した日記に『あるむすとろんぐ』なる文字が残っている所から見ても、この新兵器は巷でもかなり話題となっていたのであろう。更に余談になるが、当時内戦状態となった日本に対し、外国商人はかなりの稼ぎが期待できると踏んだのであろう、他にも続々新兵器が輸入されている。インドでもやった手口で、欧米の商人がアジアの未開国に武器を矢鱈と売り付け、その兵器で双方が殺し合い、疲弊した所を容易く占領するのである。英国製最新式小銃スナイダーライフルことエンフィールドM1866や明治七年に日本でも正式採用された米国製スペンサーカービンと言ったライフル一般の他、60年代初めにアメリカの医師ジョージ・ガトリングの手で開発されたばかりの最新兵器、ガトリングガンまでが三門ばかり日本に齎された。そのうち二門は北陸越後の長岡藩が購入し、残りは薩摩が買い入れた。
その後、六月十日、今度は猛に縁の有る人物が矢張り江戸で急逝した。江戸時代における蘭学の巨人、緒方洪庵である。数日後にこの話を聞かされた猛には少なからずショックであった。洪庵は文久元年に奥医師として江戸に召喚された為、猛が滴塾で学んだのは一年ほどで、洪庵とも特に親しいと言うほどでもなかったが、それでもこの蘭学の大家の功績と実績、それに人柄には敬意を表しており、彼が尊敬する数少ない人物であった。洪庵が江戸に去った後、猛が別の蘭学塾に通うとかしなかったのは、矢張りこの師の事を慕っての事でもあったが、基本的に彼は勉強が嫌いだったからでもある。中でも単語等の暗記が身震いするほど苦手で、正直競争の激しい滴塾では落ち零れの劣等生だった。彼は単純作業が嫌いで、暗算とか暗記など、記号的な物を全く受け付けない体質だったのである。それでも西洋の科学文明にはすこぶる興味が有り、後に横浜の開港場に出かけた事もあった。そこで初めて目にした異人の姿に、猛は身の毛もよだつ恐怖を感じたのであった。恐怖と言うより不快感と言うべきか、兎も角も生理的な拒否反応を体が起した。無理も無い、現代の我々と違い、この時代の日本人は外国人などというものを目にする機会などは一切無い為、実物を目の当たりした時の衝撃は言語に絶する激しさであったろう。写真や映像が普及した現代とは違い、あらかじめその姿を知る機会も無いのだ。猛とて一度は蘭学を志したのだから、異人に対して先入観を持っては居ない、所か蒸気船や大砲を作り上げた西洋人に対し、ワクワクするような期待感を抱いていたが、実物を目にした途端肝を潰さんばかりに驚いた。ギロギロと剥きだした両目、異様に大きな鼻に顔面神経痛のようなくどい表情、肌の汚い赤ら顔、どれをとっても怪物としか思えない、異常な生物であった。裏切られたと言うか、騙されたような気持ちだったし、その衝撃は凄まじい物があった。
“こんな奴等に__”
こんな訳だから、異人を見た事も無い癖に矢鱈と攘夷攘夷と喚き散らす隼人と違い、寧ろ猛の方が西夷の侵略に対し余程深刻な危機感を抱いていた為、単純攘夷家のような現実離れしたお祭り騒ぎに同調する気分には到底なれなかったのである。猛の方が余程頑固で真剣な“攘夷家”であったとも言えるだろう。横浜で買い入れた例のコルトドラグーンも、購入した当初は直に触る気にはなれず、何度も洗って時に火に炙って消毒し、漸く手にする事になったほどであった。このドラグーン同様敵の兵器を研究し、何が何でもあの“醜夷”どもを追い払ってやるとの決意を固めたのであった。