ついに明治元年 〈其の二〉
七日には慶喜追討の命が下され、九日には有栖川宮熾仁親王を総裁に、公家や諸藩の士が参与に任ぜられ、徐々に各藩の藩主が排除される気配が表面化してきた。
旧幕軍を破って余勢を駆る新政府に、思わぬ事態が勃発したのは十一日、神戸の日本人街__ここは日本ではないのか?開港場は完全に列強の植民地化していた事を端的に示す痛恨の一時である__で岡山藩兵の目の前を横切ろうとしたフランス人水兵に、当然の事ながら槍をもって排除しようとした所、この件に難癖をつけた英米仏国が兵隊を上陸させ、見境なしに日本側の汽船を拿捕、略奪するという暴挙に出た。イギリス公使パークスにすれば先年の長崎事件の意趣返しであったし、旧幕府に梃入れしていたフランスからすれば新政府軍は憎むべき商売敵でもあった為、この機会に痛めつけるつもりであったのだろう。折しも鳥羽伏見の戦いの直後、如何に景気の良い大勝利を収めたとは言え発足したばかりの新政府にしてみればこれから徳川軍を追い込んで行こうと言う時に外国から睨まれては具合が悪いと言う事で、岡山藩兵の責任者を一方的に切腹させて相手の言いなりに事を収めた。この態度に気をよくした列国は、それまで日本公式政権と認定していた徳川家を反政府軍と規定し、局外中立を宣言した。
「なんと言う事だ!」
この事件に隼人は憤激した。
「新政府は攘夷ではないのか!?」
「__難しい所やなあ」
猛も、この処置に対して感情的に割り切れ無いものがある。
「我々が幕府を討伐して天子様を奉戴し賜ったのも、ひとえに夷荻どもを打ち払う為ではなかったのか?」
「それはその通りやけどな」
ここが明治維新の複雑な所であった。一般に、鎖国を続けた徳川幕府に対し、開明的な志士が立ち上がって日本を長い迷妄から解き放った、等というイメージも無いではないが、実はその逆だったのである。確かに外国の文化を取り入れるのは正しい態度であろう。しかし、この当事の列強の意図は版図拡大にあり、その行動は侵略以外の何物でもなかった。また、第二時大戦後の中国もチベットを始め近隣諸国に対する非道極まりない占領併合を繰り返す、完全な侵略国家である。国際政治というものは常に侵略と併合の歴史であり、また利権がらみの争奪戦に他ならない。それ以外に外交の意図などは無いと言っても良い。当時の西洋列強も、インドや清国を植民地化することが最大の目的だったし、日本も抵抗らしい抵抗をせねばついでに占領されていたであろう。志士たちが立ち上がったのは、外国に対して屈辱的な態度を取り続ける幕府を倒し、日本を防衛する為であった。その幕府に付いて志士達と対立した新撰組ですら、最終目的は攘夷に有ったのだ。
しかし、目下の所、新政権の当面の敵は旧権力の徳川家であり、外国とは事を起こしたくないのも致し方なかった。しかし、尊皇攘夷の為に立ち上がった志士達は治まらない。
「これでは何の為に俺たちは幕府を倒したのか判らんではないか。非業に倒れた仲間たちも浮かばれぬわ!」
そして程なく同様の事件が二月十五日に起きた。開港場でもない堺に異人が上陸し、その際土佐の藩軍旗を盗んで逃走した為にこれを銃撃したのである。またしてもフランスであった。一つには、先に述べたように援助していた徳川幕府が倒されて、ライバルであったイギリスに後押しされた維新政府に対し好意的ではなかったという事であろうし、横柄なのはフランス人の気質にも寄るのかも知れない。インドシナ半島、現在のベトナムで原住民を相手に、まるで鳩にエサを撒くように食料か何かを投げ散らかしていたフランス人の醜い姿が白黒フィルムに収められている。今回も例によって外人サイドに非が有るにも拘わらず、当事者の切腹と言う一方的な処分が決まったが、更に悪趣味な事にフランス全権大使が一度“ハラキリ”を見てみたいと言い出したのである。幾ら何でもこれについては罷りならんと言う声が高かったが、結局は彼等の目前で二十人を切腹させることが決まった。場所は日蓮宗の妙国寺、日時は二月の二十三日である。しかし、十一人まで切腹した所で見物していたフランス公使の方が気分が悪くなり、残り九人は助けるように言い残して中止させた。世界に名だたるフランス革命においてはロイアルファミリーを広場に引きずり出して尽く公開処刑してのけた、ギロチンの本場にしては気の弱い事である。この一件で例の鍵屋の親分が犠牲になった義士を弔うと申し出て評判を上げ、賭場が大繁盛してまたまた一儲けしたそうである。




