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未だ慶応三年 〈其の六〉


革命運動は日毎に佳境に近付いている観がある。九月十九日には大久保一蔵が長州藩主、毛利敬親・元徳親子に拝謁、両藩の協力関係をより強固に確認した形になった。薩長に土佐を加えた革命軍は最早武力倒幕に向けて一直線と言った姿勢で、彼等は明確にそのつもりであった。

そんな彼等の意表を突いた、と言うより足元を掬ったのは、皮肉にも薩長同盟の為、奔走した坂本竜馬だった。

世に名高い大政奉還である。

彼はこれまで機を見るに敏な、時代の追い風に乗るように見事な采配を振るい、尽く奇跡的な成功を収めてきたが、それは全て“時期”を明確に見抜いたからこその成果である。例えば、薩長同盟にしても何ゆえ彼が犬猿の仲となった両藩に手を握らせたる事に成功したかと言えば、無理に相手を説き伏せて強引に復縁を迫ったりせず、両者の間に武器のブローカーとして入り込み、薩摩への憎悪に凝り固まった長州の感情を軟化させる事により、なし崩し的に手を握らせたのである。つまり、相手の感情を尊重した上でタイミングを見計らって話を持ち掛けた訳で、正論を押し付けて無理矢理言い負かしたのではない。今回もその読みが見事に的中したのだった。

坂本が発案したこの策を、後藤象二郎を通じて聞かされた山内豊信から進言された慶喜は、良くぞ自分の考えを察してくれた、と漏らしたと言うが、恐らく彼自身が以前からこれを考えていなければ受け容れ難かったであろう。慶喜は既にやれる限りの策を講じ、後はこの計略を実行する時期だけを狙っていたのではないだろうか。討幕佐幕両者の間に入って奔走していた豊信がこれを持ち掛けて来たと言う事は、遂にその時期が来たと慶喜は思ったのであろう。

かくて、十月三日、徳川慶喜は朝廷への政権返上を宣言し、十五日には正式に受理された。この離れ技によって、徳川幕府、否、源頼朝以来七百年近くも続いた武家政権の終息を成し遂げたのである。



「やった、やったぞ!」

大政奉還の報を聞いて、隼人は躍り上がって喜んだ。

「遂に幕府が天朝様に降伏したぞ!」

「ホンマにそうやろか?」

無邪気に喜ぶ隼人を尻目に猛は釈然としない顔だった。

「何を言っておる、将軍が政権を朝廷に返上したのだ。我々の目的は達せられた。遂に討幕は実現したのだ。流石は坂本さんだ」

「そう言うてもなあ、政権を返すて一方的に言うて来ただけでそれ以外なんも変ってないやんけ」

猛の言う通りである。この大政奉還の計画を聞かされた薩長首脳部は、坂本に対して不信を露にした。坂本は慶喜がこの案を蹴れば攻撃の名目となるから、言ってみれば討幕の挙兵の大義名分にする為の、形式的な降伏勧告に過ぎないと薩長要人に説いたのだが、彼の真意が無血討幕に有った事は間違いない。現に、慶喜が大政奉還を受け入れたと聞いた坂本は涙を流してこの君の為、一命をも捧げる、と洩らしたのである。

しかし、政権を返上した慶喜が欧州帰りの西周(あまね)に作らせた新政権構想は、結局天皇は今まで通りのお飾り、これは良いとして、実権を握るのは徳川将軍の西洋諸国での通称である『大君』であり、諸藩はその支配下に入ると言うえげつないものであった。これでは実質上何も変っていないではないか。恐らく、慶喜は自信が有ったのであろう。徳川軍は無能な旗本を整理して江戸の町人から洋式歩兵隊を徴募し、完全に旧来の制度を一新させた。慶喜は、この他に征夷大将軍の職を辞しても良いと申し出ている。これも、彼一流の合理的法律論から出た“正論”で、徳川宗家を継ぐ時にも再三繰り返した慶喜の主張であった。つまり、古い幕府を整理して生まれ変わった徳川家が、直轄領四百万石の実力を持って新政権を掌握し、新しい日本を従える、という事を言いたかったのであろう。出し抜けに、思わぬ逆さ押さえ込みを仕掛けられた薩長こそいい面の皮である。おちょくるのもいい加減にしろ、となるのは当然である。だが、慶喜は大真面目であった。寧ろ、薩長がここまで反発するのが意外だったのではなかろうか。何故なら、彼は全て“筋”を通して合法的に事を進め、一部の隙も無い過程を踏んで事に及んだ筈だった。それに、かつて十三代将軍指名の際には、現在薩摩の指導者として実権を握る西郷吉之助や大久保一蔵なども亡き島津斉彬の元で慶喜を強く推してくれたと言うではないか。しかし、あの時とは事情が違う。あれ以来倒幕派は幕府の弾圧によって夥しい犠牲を出し、何が何でもこれを抹殺する以外に納得できないのである。人間は感情の動物である。それは、自分が将軍になる前の話ではないか。第一、長州革命勢力が精神的指導者と仰ぐ吉田松陰が処刑された安政の大獄では慶喜も犠牲者だった。より明確に言えば、この事件__到底、正当な政策的処置とは言えぬであろう__は将軍継嗣問題における慶喜支持派の粛清が発端だったのである。その上、慶喜は征夷大将軍となってから、一度たりとも薩長と戦火を交えてはいないのである。尤も、それは先の対長州戦において全く勝ち目が無いと判断したからであって、一時は“大討ち込み”などと言う景気の良いキャッチフレーズまで口にした事も有ったのだが、将軍となってからは一度も直接的な敵対行動を起こした事は無い。その上、将軍になってからも慶喜は幕府内部の反対派と常に角逐が絶えず、この一大事業は彼自身、前時代の遺物と成った徳川幕府を克服して見事に達成したと内心自負していたのではないだろうか。勤皇思想の総本家として、言わば薩長とは同志、それ所か本家本元である水戸家の出身であった為、最後の最後まで将軍にはなれず、そのタブーを破ってとうとう征夷大将軍に就任、旧弊を破って旧徳川体制を見事に打ち破ったのである。言わば、彼は自らの手で“徳川革命”を成し遂げたと思っていたのであろう。自分は幕府と言う古い統治機構を整理して、生まれ変わった新徳川家の宗家として、心気一転して新政権に参加するのである。現に、徳川宗家を継ぐ時には征夷大将軍は継がない、公職と徳川家は別だと言う事を明確に表明したではないか。しかし、それらは全て慶喜側の一方的な言い分、独り善がりとさえ言える屁理屈に過ぎなかったのである。

より明確に言えば、政治という大衆へのアッピールは何よりも判り易い符号を必要としている。譬え彼自身がどのような論理的解釈を抱いていたとしても、一度幕府の首魁である征夷大将軍の地位についてしまえばそれは江戸幕府そのものなのである。かつて、高杉晋作が前将軍家茂の暗殺を計画した事がある。その際高杉は、年少可憐な家茂の命を奪うのは哀れであるがこれもやむを得ない、と洩らしたように、征夷大将軍という地位に一度就いてしまえばもう個人の思惑や立場と言うものはどうにもならないのである。如何に慶喜自身が徳川家と将軍職は別のものだ、とアピールを繰り返しても結局は無意味な自己完結でしかない。理屈ではなく、革命と言う巨大な宣伝工作のためには勝敗を明確にするための判り易い記号が必要なのである。前時代の主権者がその政治的実権を保持したまま新政権に参加するなどと言う事に成れば、結局権力は委譲しなかったと言う事に成るではないか。

それに、もう一つ言えば徳川家が単に将軍職を放棄しただけで直轄領を抱え込んだままでは、次に行われるべき廃藩置県にも影響が出る。と言うより、100%不可能であろう。この革命は単に徳川家から島津家、或いは毛利家に政権が移行するだけの権力闘争ではない。一皇万民という、全く新しい政治形態に変容する為の“革命”なのである。その為には、最低条件として旧政権の首謀者を粛清し、その首を曝す事によって時代の変化というものを内外に強烈に明示する必要が有った。マリー・アントワネットを始めとしたルイ王朝の一族尽くをギロチンにかけ、封建制の時代が終焉した事を明確にした、フランス革命のように。

更に言えば、薩摩の指導者西郷には独特の革命理論があった。彼は戊辰戦争の後、日本はまだ戦争をし足りません、と言って戦争好きと揶揄された事が有る。しかし、西郷の考えでは三百年近く泰平を貪ってきた平和ボケの日本人が苛烈な弱肉強食を勝ちぬて来た西洋列強と渡り合うには、生半な覚悟では到底太刀打ちできないと見たのである。このような連中を相手に生き残るには、日本人は余りに過保護である。この判断は、一概に結論は出せないにしても、間違いと言い切るのは絶対に避けるべきであろう。反戦は”平和“と同義語ではない。反戦とは、単に戦争の対義語に過ぎないのである。闇雲な反戦は闇雲な戦争と同じである。イギリスのマグナカルタ大憲章やアメリカの南北戦争を見れば判るように、自由と民主主義というものは夥しい流血の果てに築かれた大輪の華、平和とはあらゆる物を犠牲にして血塗れで掴み取らねば手にする事など不可能なのである。フランス革命の死者二百万人に対し、明治維新の犠牲者は二万人と言われている。フランスでは革命直後の最初の政権闘争の際にすら、ロペスピエールの手によって三万人が“民主主義”の名の元に粛清されているのだから、如何に日本人が惰弱であるかと言う事が窺えよう。否、本格的に対外戦略を練らねばならないとなれば、下手をすれば西洋列強どころか、清国や朝鮮にすら手玉に取られるであろう。事実そうなったではないか。複雑な駆け引きと徹底的に冷酷な決断を要求される異民族戦争を経験した事の無い日本が陥った、無様な醜態である。否、明治期の日清日露の両戦争では日本軍も充分慎重に、警戒しながら戦略を進めた。まだ、幕末維新の経験者が生き残っていたからであろう。

兎も角も、蹴たぐりをかまされた革命軍側は足止めを食った形となり、この一件で薩長首脳部は坂本竜馬と言う予測のつかない人物に極度の警戒心を抱くように成ったであろう。しかし、薩摩の西郷、大久保は飽くまで武力倒幕の準備を進め、その計略に手を砕いたのであった。


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