未だ慶応三年 〈其の四〉
「そうか、あの鉄砲の音は、藤岡どんの短筒でごわしたか」
弁当箱のような四角い顔に分厚い笑顔を浮べて、薩摩の“人斬り半次郎”こと中村半次郎が豪快に言った。
「さぞや新撰賊めも面食らうたじゃろう。肝ば潰して震えちょる姿が目に浮かぶようじゃ、こや痛快じゃ」
本来陰険な暗殺者である筈の、所謂“人斬り”のイメージとは幾分ずれが有るこの豪快な薩摩っぽうは、新撰組と一戦交えた猛と隼人に野放図な賞賛を惜しまなかった。
「せやけど、これで密偵はでけんようになってしもたわ」
「何、心配しもさんでよか。お二人はおい達薩摩が面倒ば見もそ」
由来薩摩にはそういう風がある。新撰組に目を付けられていると判れば余計に庇いだてして彼等を挑発する。無論会津と手を組んで長州を追い落とした時にはそんな事も表立っては出来ないが、今は状況が違う。もうそんな段階にまで両者の関係は達していたが、まだ表立って武力戦に突入する程ではない。しかし、薩摩はその機会を虎視眈々と狙っており、江戸でも浪士達を招集していざと言う時__要するに徳川方を挑発する時__の為にそれとなく飼いならしているのだった。
「それに、お二人は坂本さあの御弟子だったこつじゃ、おい等にとっても何かと都合良かお方でごわす」
実は猛と隼人はこの先、坂本竜馬を頼ろうかとも考えていたのだが、薩摩で思わぬ歓待を受けた為暫く彼等と行動を共にする事にしたのである。薩摩藩と言うのはいざと言う時には身内だけで行動する徹底的に統率された集団だが、この時期にはややこしいのを抱え込んでおいた方が何かと役に立つと踏んだのであろう。油断のならない戦略である。
その坂本だが、四月には亀山社中がその名も海援隊と改め、土佐藩との提携に乗り出した。大殿様、隠居して容堂と号していた山内豊信の思想的佐幕主義により革命運動からは遠ざかっていた土佐藩だが、時局がここまで来た以上は容堂公の詩情的感傷だけで一藩の政策を弄ぶ訳にも行かず、とうとう薩長との合流を模索し始めたのだが、この時も坂本が間に入って巧く事を運び、六月には薩土盟約も結ばれた。
しかし、七月には予想もしない出来事が突発して、坂本は益々忙しくなっていた。それが六日に長崎で起きた英国水夫殺傷事件、その筋では慶応長崎事件と呼ばれる、久方ぶりの天誅事件であった。外国人に対する殺傷事件は珍しくも無いが、時期と相手が悪かった。この倒幕もいよいよ大詰めを迎えようと言う押し詰まった時期に、事も有ろうに薩長に手を貸していたイギリスの水夫が斬られたのである。しかも、目撃者の話ではこの当事現場には海援隊の制服を来た者が歩いていたと言うのだから、いよいよまずい事になった。
忙しい最中の坂本から猛と共にこの話を聞いた隼人は目の色を変えて、
「なれば、幕府と結びついておる仏国の者を斬って捨つれば__」
「オンドレは黙っとれ!」
この降ってわいたような事態の収拾に坂本も忙殺されたが、何とか当面の始末を付けて漸く英国との関係修復に成功した。
紆余曲折は有ったものの、いよいよ討幕派が再び盛り返し、実力でもって徳川家に攻勢を掛け様という態勢に入っている。
勿論、それに対して薩長だけではなく、受けて立つ幕府側も巻き返しの為の工作に余念が無かった。特に新将軍慶喜は家茂のような傀儡ではなく、彼自身が幕臣の誰よりも国際感覚に富んだ識者であった為、フランス公使ロッシュとも直接面談して様々な対策を練っていた。この時期、幕府側には慶喜、小栗上野介、そして勝海舟と国際的な視野の広い切れ者が犇いていたのだが、これほどの人材をもってしても時代の流れには抗しようがなかったようで、この年には大政奉還を受け入れ、二百六十四年続いた江戸幕府も幕を閉じるのである。それにこの三人が三人とも仲が悪く、協力すると言う事も出来なかった。仮に彼等が手を携えたとしても、矢張り徳川幕府の崩壊は免れ得なかっただろう。それでも徳川家は最後の悪足掻きの如く、フランスとの癒着を益々深めて行くのである。一つには、慶喜の計略であったかも知れない。様々な取引を次々と進め、既成事実化する事によって大政奉還した後もフランスにあれこれ口を出させれば新政権も狼狽し、自分が話をつけなければ国際的な信用を失うとか何とか言って慶喜は重要な位置を占める事が出来るだろう。こう言う計算が有ったとしても強ち的外れではないと思う。慶喜の精力的な活動を見るに、どうやらこの辺りから名目だけの政権返上工作を既に画策していたのではないかと推察できるのである。現に幕府がフランスとの契約で着工し始めた海軍工廠や軍艦ドックなどは明治政府が引き続き建造し、利用しているのだが、残念ながら慶喜の出番は無かった。
ロッシュは四月には蝦夷をフランスに租借するように建言しているし、六月には対仏貿易株式会社の株主を募集するなどその蜜月振りには呆れるばかりであった。イギリスは日本の主権を尊重して、親英国家としての革命樹立を後押ししているのだが、フランスの狙いは完全な植民地化である。
折しもパリでは万博が開かれており、その会場では日本国の出展物として、徳川幕府とは別に薩摩藩が作品を陳列していた。つまり、徳川国とは別の薩摩国が日本には有ると言う訳である。こう言う工作も徳川家の支配力の低下を各国に印象付ける為の工作である。
五月には島津久光、山内豊信、松平慶永、伊達宗城を交えた四候会議を招集し、その恐るべき能弁をもって先年外国に要求された兵庫開港を実現させ、何もかもが慶喜の構想通りに進んでいる観があった。
その政治手腕は倒幕派を益々警戒させ、長州の桂小五郎などは慶喜を称して、家康の再来を見るようである、と極端な表現で当面の政敵を評した。
どうやら、大政奉還までの間に出来るだけ自分の実力を見せ付けるという慶喜の当面の目的は達成されつつあったが、それは結果的には完全な逆効果になった事はご承知の通り、人間とは一筋縄では行かないものなのである。恐らく慶喜としては、押せるだけ押して薩長に威圧感を与えておいて肩透かしのように政権返上、と言う相手を食ったような計略だったのであろうが。それにしてもやる事為す事、全てがスマート過ぎる様にも思えるが、察してみるに彼のこういった数々の策略は、権力に執着する一念から出た物ではなく、英明と称された頭脳と“剛情公”なる仇名を頂戴した気負いから出たものであろう。それだけに薩長との駆け引きも、他の、ある意味では愚かな幕臣のように深刻ではなく、多分にゲームのような感覚ではなかろうか。生まれながらの貴族である慶喜には、譬え泥まみれになってでも、最後の最後まで権力にしがみ付くような執念は無かったのであろう。前将軍家茂が死んだ時にも、田安亀之助を将軍にすれば自分はその補佐役に回る、と公言した位だし、その手の肩書きよりも自らの頭脳と辣腕を振るう事の方に興を覚えるのであろう。
やや酷な言い方をすれば、利かん気で世間知らずのボンボンらしい気負いとも言えるかも知れない。