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未だ慶応三年 〈其の二〉


ここは錦小路の薩摩藩邸。

「いや、藤岡殿に佐々木殿__」

薩摩の事実上の総帥とも言うべき西郷吉之助が長州の、しかも正式な藩士でもない雇われ者の二人に対して肥満した巨体を丁寧に折り曲げて律儀に挨拶を述べた。革命運動も最終局面を迎えようと言うこの時期、薩摩も長州とは連携を密にしておかなければ成らない為、その系列に属する相手への態度は丁重である。こう言った長州側の連絡員の機嫌を損ねればどのような告げ口をされるか判ったものではないという配慮でもあるのだが、元々西郷と言う人物は礼儀正しく目下の相手に対しても滅多に粗野な口を聞く事は無かった。

「いよいよ、倒幕の挙兵ですか__」

隼人が興奮を抑えるような口ぶりで言った。

「いやいや__」

西郷は小さな吊り上がった目を不器用に和ませながら分厚い愛想笑いを見せた。現在西郷の肖像として一版に流布している目のギョロリとしたキヨーネの絵画は実在の彼の姿とは似ても似つかない物であると言われている。西郷さんの銅像が建った折にも、西郷未亡人がこれは亭主の顔ではない、と言ったと伝えられている。

「佐々木殿の血気は頼もしかものでごわすが、今はその時では御座りもさんと」

隼人のような小物でさえも西郷は良く憶えており、一々丁寧に答えるのであった。余談になるが、営業において欠かせない能力の一つは記憶力であると言われているが、こういった政治活動も似たようなものであると言って差し支えなかった。一度見た相手の顔と名前を絶対に忘れないと言う事は、相手を信頼させ、他人を心服させる条件の一つでもあるのだ。故田中角栄と言ういわくの多い人物について、直接会った事の無い我々は兎角、彼の悪評のみが印象に残るものだが、この善悪取り混ぜて戦後日本を代表する政治家に一度、否、二度会った人物が語った所によれば、彼は一度顔を合わせた相手の顔と名前を正確に憶えているらしいのである。大体の人間はこれだけでも相当な感激で、その一事だけで彼は感激し、譬え汚職事件で逮捕されても自分は角栄を支持し続ける、と言ったそうである。西郷と言う人物も、彼自身は清廉潔白であったかも知れないが取り巻きの連中は後に“薩摩の芋蔓”と言われる野放図な利権体質を剥き出しにするのだが、それを鷹揚に見過ごすあたりも彼の懐の深さと言えそうだ。政治の利権体質と言えば、明治政府においては農民から商人に至るまで参加した長州の汚職も、井上馨の銅山事件に代表されるえげつないものがあった。今日の利権政治の原点と言うべきかも知れない。それに対して薩摩閥は如何にも“士族”らしい横柄な傍若無人さが特徴であった。生身の人間を扱う政治という仕事は複雑なものがあり、それこそ“綺麗事”では済まない部分が多かった。明治維新後は武家社会的な利権体質を嫌い、様々な近代化政策を断行した大久保が情知らずと言われ、最後は不平士族に刺されて非業の最期を遂げた事からも、人間の醜さ浅ましさと言うものが窺い知れると言うものであった。

「おい達薩摩モンも、隼人と呼ばれておりもす故、どうやら佐々木殿もおい等と気が合いもそ」

余り気が利いているとも思えない諧謔も、見るからに誠実そうな西郷の重い口から出ると聞く者に響くものが有る様だった。

「それでは、挙兵の折には佐々木殿に先駆けをお頼みしもそかの。幣藩にも血気に逸った荒くれどもは多いでごわすが」

「身に余るお言葉で御座る、西郷殿」

西郷は肥満した巨体を揺すりながら去って行った。

「いやあ、流石は西郷殿だ」

隼人は薩摩びいき、と言うかいわゆる西郷ファンである。

「俺は今まで数多くの志士と会うてきたが、あれほどの御仁は居らん。あれこそ人物と言うものだ」

「そうか?」

猛には隼人の言う事が理解できない。否、隼人の性格を知っているだけに、気持ちは判らないでもないのだが、矢張りこの相棒は自分とは大分性格が違うと言う事を痛感せざると得ないのである。この西郷隆盛、この当事は吉之助と呼ばれていた人物の魅力と言うのは如何にも親分肌の雰囲気とその度量の広さに他ならない。坂本竜馬などは、西郷は馬鹿だがどこまで馬鹿なのか見当も付かない、と感想を述べたように正に大人物の見本のような男で、荒っぽい行動派にとっては堪らない魅力が有る様だった。単細胞な壮士である隼人などは既に篭絡されたようである。しかし、猛はどうもこの西郷と言う人物を好きにはなれない。否、好きになれないという言い方は的確ではあるまい。猛もそれなりに西郷の人格的魅力を感じてはいるが要するに程度の差と言うもので、それだけで隼人のように身も世も無く尊敬すると言うほどにはなれないのである。

長州人が薩摩人を狡猾、と評したが具体的にはこの西郷の事を指していたのであろう。維新後、長州系の政府要人たちは西郷の事に関しては尽く口を閉ざしたからである。伊藤博文も往時の出来事や人物、当然薩摩の志士などの事も人に聞かれれば饒舌に語った男だが、西郷の事となると途端に歯切れが悪くなった。彼等が西郷をどのように見ていたか、想像するのは容易であろう。

しかし、西郷は悪人ではない。何故なら彼は天性の陰謀家とでも言うべき頭脳の持ち主で、見事などと言うような生易しいものではないような恐るべき策略を次々と発案しては尽く的中させているのだが、それらは全て悪意からではなく熱意から出たものだからである。性格の悪い人間が陰険な悪知恵を捻り出したとしても誰も信用しないから大した事は出来ないだろう。誠実な人間がやるからこそ周りの誰もが信用し、途方も無い大悪事となるのである。高潔な人格と卑劣な謀略。相反する二つが同居する巨人、それが西郷と言う“大物”なのである。

「俺は、薩摩では大久保さんの方が凄いと思うけどな」

猛が率直な感想を口にした。

「大久保殿は只の才子ではないか」

隼人が反射的に言い返した。

「才子、ちゅう事もないやろ」

「それはそうかも知れんが」

確かにその特技は怜悧な頭脳であったが、大久保利通と言う人物も才子というには些か躊躇われる、沈毅で重厚な風貌の持ち主である。

「貴様はどうも人間と言うものを上辺だけで判断しすぎるのう」

「おいおい__」

隼人の言い草に、猛も苦笑いで返した。

「確かに大久保殿の才覚は目を見張るものが有る事は俺も認める。だがな、人間と言うものは最後には内に秘めたる至誠なのだ。西郷殿にはそれが有る」

「大久保さんかて相当な至誠が有る思うけどな」

猛の言う至誠と言う言葉は信念、隼人の言う所のそれは実直と言い換えても良いかも知れない。猛に言わせれば、西郷と言う男は如何にも正直を売り物にし過ぎているような気がするのである。売り物、とは表現が悪いが、要するに大久保はその情念を内に秘め目的を達成する為に粘り強く辛抱するのに対し、猛の目から見て西郷は人格的な魅力は有るとは言えその場限りの誠実さだけで定見が無い様で、目先の事ばかりを小器用にこなしているだけのように思われるのだ。西郷と言う男は亡き島津斉彬に見出され、藩の小役人として様々な実務をこなして来ただけに、薩摩藩士たちが何か行動を起こそうと言う時には気軽に面倒な事務処理を引き受けるのである。彼が無鉄砲な壮士から頭目格として慕われるのはこう言った雑務を手早く処理してくれる所にも理由が有った。言わば親分が面倒な手続きを片付けてくれるから、子分たちは安心して暴れ回れる訳である。その為、西郷の取り巻きたちは思いついたらすぐ行動、と言うような肉体派が多い。落ち零れたとは言え、蘭学を志した猛には大久保の方が頼もしく感じるのである。何せ彼は自分から西洋の文明を取り入れて列強の侵略に対抗しようと言う“大攘夷家”である。行動が先に立つ“小攘夷家”の隼人とは人物の好みも違うのであろう。

「長州では、久坂殿が西郷殿と並ぶ人物だっただけに惜しい事をした」

隼人が在りし日の久坂玄端をしのんでしみじみと呟いたが、彼と会った事の無い猛はどう答えて良いか判らず全く関係の無い相槌を打った。

「長州て言うたら、高杉さんは大丈夫やろか」

猛は高杉晋作の事が何となく好きである。高杉は持病の気管支喘息が相当に悪化し、彼等が長州を出る時にはかなり伏せっていた様子で、猛はかなり心配している。

「まあな__」

あまり高杉を好きではないとは言え、病人に対して悪し様に言う事の出来ない隼人は曖昧に生返事を返しただけであった。

「長州は只でさえ幾人もの人材を失って人が足りぬ。この大事な時にまた一人倒れたのでは、な」

一応高杉の事を心配している事に変りはないが、遠回しに批判も忘れない隼人だった。要するに、長州では久坂を始めとした重要人物が相次いで倒れたから晋作にお鉢が回ってきたのだと言いたいのだろう。ここでも二人の好みははっきり分かれている。各地の志士達と頻繁に付き合い、国論を声高に叫んでは天誅を繰り返してきた隼人は他人との交流に積極的な、言葉は悪いかも知れないがノリの良い久坂や人当たりの良い西郷のような人物が好みだが、猛はどちらかと言えば我が道を行く高杉や大久保のような男に共感を覚えるのだった。

身に付けた武術も当て身中心の無手勝流と実戦を想定して古式ゆかしい刃引きの刀で稽古をする剣術、学問は緒方洪庵門下の蘭学と片や神州思想の平田国学、愛用の得物も懐のコルトドラグーンに対し腰に帯たる業物は無銘清麿。まるで対照的な二人の、人物の好みも矢張り正反対なのである。


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