未だ慶応三年 〈其の一〉
いよいよ“幕末”も大詰めを迎えつつあるこの慶応三年正月、宮廷内における倒幕派の実力者、岩倉具視の元に奇妙な人物が身を寄せた。奇妙と言えばこの人も奇人変人の名に恥じぬ奇抜なキャラクター、というよりも何よりも、名前がまたふるっている。
玉松操。
これが鳥羽伏見の戦いにおいて錦の御旗を薩長軍に掲げさせた、倒幕運動の隠し味を醸した老人の名であった。
この玉松老人が表向きは岩倉具視の息子の漢学師範という名目で事実上の政策秘書(当然、御上からの秘書給与など下りる筈は無かった)となり、倒幕の檄文を、この歳御即位なされた明治天皇の密勅として草稿した。要するに勅旨を偽造したのである。
何度も繰り返すが、この明治維新という革命は飽くまで表向きは“勤皇”を旗印にせねばならなかった為、このような天皇陛下の御墨付はどうしても欠かせないのであった。
その岩倉と連係を取って倒幕の最後の大芝居を演出した実力者が、薩摩の大久保一蔵、後の大久保利通であった。この頃彼は多忙だった。親友であった西郷はカリスマ性と政治能力に優れた策謀家でもあったが、彼の強みはその人物の大きさ、懐の深さで、言わば容積のある巨視的な策略であったが実務レベルでの詰めを必要としたこの段階に在っては寧ろ芸の細かい先鋭的な政治手腕がものを言うが、その方面に関しては大久保の辣腕は背筋が凍るほどの芸であり、薩摩では彼の独壇場に近い形となったのである。この時期の西郷は要所要所で存在感を示したとは言え、全体的には第一線を大久保に譲った形になっていた。事実、鳥羽伏見の戦いから大政奉還に至るまでの間、西郷は表舞台から退いた形となり、勝海舟との間で執り行われた江戸開城と言う大芝居までは暫く舞台のソデに控えていたような感じがある。西郷ばかりではなく、長州もこの時期、本国に篭って次の出番を待っている観があった。その長州が再び表舞台で大暴れする為のお膳立てを整えるべく、大久保の役割は益々重要になってきていた。
その大久保は正月二日、新撰組の伊東甲子太郎と面談した。いよいよ伊東の新撰組脱退が現実のものになろうとしていた。