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いよいよ慶応二年 〈其の八〉


それから僅か二十日後の二十五日、時の天皇であった孝明帝が崩御した。この、保守的で現状維持に執着する天子の、余りにタイミングの良い御崩御に当事から現在に至るまで、毒殺説が取り沙汰されているが、真相は今もって不明である。どうやら天皇陛下が天然痘を患った事は疑いの無い事実らしいが途中で持ち直した為、倒幕派の公卿岩倉具視が一服盛ったとの噂は今でも消えていない。

この“佐幕派”天皇の急死によって、いよいよ幕末維新の激動も佳境に突入した感があったが、京都では年内にはこれとは別に小さな騒動も起こっている。主に新撰組と薩摩藩の間の事件である。それも、九月に集中していた。

一方江戸ではそれに先立って九月三日、現在の銀座の当たりに在った新両替町の小料理屋で、桃井春蔵の高弟上田馬之助が酔っ払ってからんできた二人の武士を切り捨てて評判になったが、倒幕活動とは全く何の関係も無い事件である。二人を相手に馬之助は一人、タイガー・ジェット・シンとのタッグではなかった。この、上田馬之助という剣客は竹刀で五分板を突き抜いたり、竹胴を打ち破ったりといった芸を得意としており、後年、彼の名をリングネームに用いたプロレスラーが矢張り竹刀を手に入場したのがこの事に由来するのは明白である。

京都ではまず九月二六日、参謀伊東甲子太郎が同志数名を伴って新撰組からの脱退を申し出た。表向きは薩摩に潜入して秘密を探り、本隊の新撰組に報告すると言う名目だが、実際は完全な寝返りである事くらい近藤にも土方にも察しが付いた。その僅か二日後の二十八日には同じく薩摩と通謀したと言う理由で五番隊長武田観柳斎が粛清されたが、そのやり方もいつもの密殺や切腹ではなく、近藤の部屋に呼びつけておいてわざとらしく別れの宴席を用意した後に鴨川銭取橋の袂で斬り捨てたのである。その席には伊東と、彼と共に脱盟する事になる八番隊長藤堂平助の顔もあった。どうやら、薩摩に身を寄せる裏切り者に対するこの泥臭い最後の晩餐は、近藤土方にしてみれば伊東達に対する見せしめらしかったが、彼はそのような陰湿な脅しなど歯牙にもかけずその後仲間と共に堂々と新撰組から足抜けするのだが、それはこの後暫くしてからである。新撰組に於いて隊士の粛清などは結党以来、日常茶飯事の如き習慣だったが、この頃には多分に時事と呼応したような政治性(とは言え、結局は新撰組の組織に於ける内紛に過ぎないのだが、その理由が今までのような隊士の不始末や個人的な事情による脱走ではなくなってきていた)を帯びてきたあたりに時代の行く末が見て取れるようであった。

それからややあって、猛と隼人が長州から京都に潜入し、浄土宗浄福寺の薩摩藩士宿場に草鞋を脱いだのは対幕戦争が一段落した十一月頃であった。京都の様子を探ると同時に薩摩との連絡を取る為に派遣された密偵の中に、彼等の姿も有った。如何に本国の戦では景気良く勝っているとは言え、正規の長州藩士がウロウロするには、京は危険な状態にあったからである。否、対長州戦で負けが込んでいればこそ、余計に相手も神経過敏になっている筈である。様子を探るのならば余所者の方が都合が良い。安全だからではない。京都では壬生浪士が肩を怒らせて徘徊している最中であり、浪人と見れば誰彼構わず斬り捨てるという有様で、結局は捨て駒同然の活動だったが、その位は充分心得ている二人だった。

「そうか、おはんら、長州から来よったと」

仲間と共に薩摩淨福寺党を名乗る肝付又助は、芋焼酎で酒盛りをしながら猛と隼人を非常に歓迎してもてなしてくれた。流石に公然と長州藩やその協力者を援助する訳には行かないが、今や秘密同盟が成立してそれも半ば公然と知れ渡ったこの時期に在っては、長州からの間者は薩摩では優遇されていたが、この肝付又助は格別であった。何せこの男は母藩が会津と手を組んで長州を追い落とした事を憤り、新撰組や会津藩を挑発すべく仕切りと洛中で騒動を起こしている木強漢なのである。

「長州はようやっちょるのう、おい等薩摩も負けてられんと。いよいよ幕府に目に物見せてくれるでごわす」

言いながら仕切りと二人の杯に焼酎を注ぐ又助だった。薩摩っぽうは揃いも揃って豪酒家である。客人には酒を勧めるのが礼儀と信じてひたすら杯に注ぐのであった。

「肝付殿の御武勇、それがしも聞き及んでおり申す」

休む間もない酒盛りには閉口だが、憎き新撰組に戦いを挑む剛勇の薩摩隼人達を佐々木隼人は、名前が同じだからと言う訳でもなかろうが生真面目に、賛辞ではなく称えた。

「いや、誉められる程のこっつなか」

「そうじゃ、又助どんだけじゃなかと」

「わしは黒谷で立小便ばしよったとじゃ」

黒谷は会津の本陣がある。負けず嫌いの薩摩武士達が、会津や新撰組を相手に展開した武勇伝を口々にまくし立てた。

“なんちゅう無茶苦茶な連中やねん__”

隼人は一々感心しながら彼等の武勇を心から称えたが、猛は表向き相槌を打ちながらも呆れる他無かった。長州に居た時は、

「薩人は狡猾な連中ゆえ、努々油断は禁物じゃ」

等と言われていただけにこの、アクの強い田舎の荒武者どもの蛮勇には少々戸惑っていた。

“どう見ても狡猾とは思えんがな”

素朴でバンカラな田舎武者どもの歓待を受けながら、猛は彼等の裏表の無い豪勇を眺めていた。

“どっちか言うたら長人の方が賢らしいがのう”

その通り、薩摩は狡猾、と言うのは長州側の言い分であって、必ずしも当たっている訳ではない。しかし、これには少し説明が必要だろう。実は薩摩と言う国は、徳川三百年を通じて他国とは交流を制限した、言うなれば鎖国を布告した江戸幕府にあって更に二重鎖国を強いていたような異常な藩なのである。幕府が各地に派遣した隠密達も、薩摩からは殆ど無事に生還した例がない為、行って戻らぬ片道旅行を『薩摩飛脚』と呼んだ。そういった閉鎖性の為、薩摩者どもは尽く時代遅れの木強漢で皆呆れるほどに田舎者なのだが、その指導部は抜け目の無い食わせ者が揃っている。例えば十一代将軍家斉の頃に各地の商人から大枚五百万両の借金を、二百五十年賦と言う”事実上の踏み倒し“を強行した調所広郷や、この時期にならば西郷吉之助や大久保一蔵などと言った倒幕活動の立役者たちである。指導部がそのような煮ても焼いても食えないしたたか者である上に、その下で動く藩士たちは戦国の頃から他国者を驚愕させた所謂薩摩隼人どもで命令一下、どんな理不尽な場合でも平然と腹を切るような壮士どもだからその政治活動は壮絶の一言に尽きるのだ。こう言った薩摩の一糸乱れぬ行動は周囲から見れば不気味以外の何物でもなかっただろう。

その薩摩武士の面々が、会津や新撰組に仕切りと挑発しているのだが、これは相当な危険が伴う事は言うまでも無い。所謂“人斬り”と言われた岡田以蔵や河上彦斉なども、新撰組には手を出せなかったのだから。他にも十津川出身の郷士、浦啓輔という義経流の使い手が新撰組に戦いを挑んだことで知られているが、又助の場合は白昼堂々新撰組を挑発したのだから、相手の面目も丸潰れであった。只、彼等浄福寺党の面々は薩摩藩の後ろ盾の御蔭で大きい顔が出来たのだが、浦啓輔は殆ど単身で命懸けの挑戦を繰り返したのだからその豪勇の程が覗える。更に凄いのが、矢張り十津川の中井庄五郎と土佐の那須盛馬である。明治になってから田中光顕が語った所によれば、彼等は出会い頭にいざこざを起こし、その人数も二対三とそれほどの劣勢でもなかったが刃を交えた相手が斎藤一、沖田総司、そして永倉新八といった、新撰組を代表する面々だったから凄い。無論勝った訳ではないが、この三人を相手に一戦交えて無事逃げおおせたと言うのだから大したものである。尤も、新撰組でも名が知れた隊士は大体近藤土方に気に入られた者ばかりで、彼等以上の使い手も居ないではなかった。

焼酎を乾しながら、隼人が言った。

「肝付殿、これからも御武運の盛んなる事を祈っており申す」

「いや、お心はありがたかこつがの、薩摩モンはいつ如何なる時でも相手の刃に掛かって果てる覚悟は出来ておりもす」

常往死身は鍋島佐賀の、有名な『葉隠』の心得だが、古風で朴訥な薩摩っぽう達はそのような大げさな観念論を掲げなくとも、侍たる者それ位極当然であると幼少時より叩き込まれて育ってきているのだった。

その言葉通り、遂に又助が新撰組の手に掛かって落命したのがこの年の暮れ。先の武田や伊東の件が立て続けに起こった後だけに、この頃には薩長秘密同盟も殆ど公然と知れ渡っていた為、新撰組もそれまでのような遠慮はしなかった。相手は四人、又助はたった一人で最後まで奮戦した挙句の討ち死にだったらしい。この時指揮を取ったのは矢張り“人斬り鍬次郎“と呼ばれた大石鍬次郎で、又助は二人までは仕留めたらしいが、名うての殺人集団新撰組ですら人斬りなどと異名を取る残忍なサディスト、大石の前に惜しくも憤死した。どうやらこの時又助は死を覚悟したらしく、目の前の芸州藩邸に向かって自らの所属と姓名を名乗り、数人の芸州藩士の見守る中で闘死したそうである。

この又助の死もまた、新撰組の内情と密接に関りがあったと見て間違い有るまい。そしてそれは薩摩藩と言う苛烈な巨大組織の政治活動の一端が生み出した動きで、又助はその流れに飲み込まれて死んだような形になった。

殆ど意味の無い、無駄死にだった。

彼だけではない。この明治維新という時代の激動の中で、倒れた者の死に様は殆どが犬死であった。


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