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いよいよ慶応二年 〈其の七〉


こうして幕軍が連戦連敗を繰り返す中で、七月二十日、とうとう将軍徳川家茂が大阪城に短い生涯の幕を閉じるのであった。享年二十一歳、十七歳で征夷大将軍に任ぜられて以来四年目の悲劇である。この将軍御逝去の九日後、小倉方面を指揮していた老中小笠原長行が長崎に撤退し、とうとう幕軍の全てが前線から退却した事になる。そして八月二十一日、幕府側から長州側に正式に停戦の申し入れが送られた。それでも降伏するとは言わず、止戦などと言う曖昧な表現で、要するに一時撤退であると言いたかったのだが、現実には三度長州に攻め入る余力は徳川家には残されていなかった。それ所か、今度は京都大阪、本拠地の江戸まで下がって薩長連合軍の進撃を迎え撃たなければならない立場に追い込まれるのである。江戸に於いては上野寛永寺の彰義隊討伐位で大掛かりな戦闘は無かったが、北陸から奥州、果ては蝦夷までが戊辰戦争の舞台となった。結果的に見れば、徳川方の言う通り、一時的な“止戦”になった訳である。

しかし、フランスは飽くまで徳川家に肩入れを続け、八月二十日には六百万ドルにも及ぶ借款契約を結ぶ。結局この借款は契約だけで施行される事無く終ったが、どうやらフランスとしては相手の弱みに付け込んで徳川幕府に恩を売りつづける事によって益々幕府を、行く行くは日本を思い通りに操ろうと言う魂胆らしい。その上、既に徳川家を相手に少なからぬ投資や契約を結んでおり、ここで幕府が崩壊すれば貸し倒れになってしまう為、支援する他なかったのである。負けが込めば込むほど金を突っ込むのは典型的なハマリのパターンである。この時交渉に立った六百万ドルの男は、フランス商相ベイクが社長を兼ねる帝国郵船会社の副支配人クーレであった。それでも引き下がれない徳川方の態度は健気と言うよりも愚かとしか言いようが無いのではなかろうか。寧ろ、倒幕側としては益々思う壺とさえ言えるのである。話はやや前後するが、幕府としては対長州戦で入用になる莫大な費用を捻出する為、江戸大阪の豪商に御用金上納を強要し、それが無理となるや今度は増税を実施したのだがそれが前述したような各地の暴動を誘発し、この物入りの最中、何を狂ったかとうとう江戸幕府は金貨(小判)に代わって何と金札を発行した。要するに紙幣である。どうやら欧米諸国の経済通貨を真似たらしいのだが、こう言った貨幣制度の大幅な改正は混乱を生じる為安定している時に導入する必要が有るにも拘わらず、何と遠征でてんやわんやのこの時期にこんな無茶な改正を強行したのだからどうにも救いが無いではないか。しかも、従来の紙幣を新紙幣に刷新するといった穏やかなものではなく、それまでの金銀に代わって紙切れを通貨として導入すると言うのである。本来なら余程慎重を期して実行せねばならない経済の一大改革だが、混乱の最中に強行するなどと言うのはどう考えても正気の沙汰ではない。どうした所で庶民から信用などされる筈は無いであろう。このアイディアの発起人が誰なのか、恐らく海外研修組の発案ではないかと思われる。金貨の代わりに紙幣が流通する欧米経済の実態は、通貨と言えば貴金属と言う概念しかなかった島国の人間の目にはさぞや新鮮に映ったに違いない。その感激から日本でもこれをやろうと提案したのだろうが、実際に見た訳ではない庶民たちにしてみれば冗談にもならない話である。世の中それだけで、海外留学の履歴を誇らしげに誇示するエリート官僚の新鮮な驚きで動くほど甘くはないのだ。

話が逸れたが、とりあえず幕府として解決せねばならない問題は急死した家茂の後継者である。この死は公式には発表されなかったが、周囲も幕府側の雰囲気からどうも何となく、否、恐らく明白に察しはついたと思われる。忌の際に家茂は御三卿の一人、田安亀之助を世継ぎに指名したが、彼は御歳三歳の幼児なのだ。成る程、泰平の世の中ならばこう言った幼君でも差し支えないだろうが、この差し迫った事態に在ってこういった人事が成り立つ筈が無い。徳川家の連枝の中で適齢期の人物と言えば予てより将軍候補として度々名前の挙げられた一橋慶喜だったが、彼は勤皇思想の本家、水戸家の出身で“烈公”と呼ばれた斉昭の息子だった為、幕府内部で抵抗勢力も少なくなかった。彼は頭脳も胆力も申し分無いほどの人物だったがそれが却って災いし、十三代、十四代将軍になり損なった経緯があり、未だに慶喜公が将軍になるのなら命懸けで切り込んで自分も相果てる、等と嘯く者も幕府内部に居るのである。慶喜が将軍などになれば只でさえまとまりの無い徳川陣営が収拾の付かない事態に陥る恐れがあったが、今となっては他に適当な人物は見当たらなかった。しかし、慶喜は将軍職を受けないと公言し、誰もが戸惑うばかりだった。とうとう断り切れずに家茂の後を継ぐ事を承知した時にも、自分の継承するのは徳川宗家であって征夷大将軍には就任しない、と明言した。この、当事の常識からすれば屁理屈とも言うべき慶喜の言動に周囲は混乱し、松平慶永などは勧めても杯を受けないその態度を称して『捩じ上げの酒飲み』と呼んだと言うが、征夷大将軍という公職と徳川家という私物を明確に区別したこの発言は実に的を得た、筋の通った正論である。恐らく慶喜は既に徳川幕府の滅亡はどうやっても避けられないと言う歴史の流れを見越して、何れ樹立される新政権に対して好印象を残しておこうと言う狙いが有ったのではないか。その後の行動から考えて、どうやら徳川幕府の次に君臨する新政権においても重要人物として参加しようと言う意図があったと見て間違いないであろう。慶喜の腹の内を察するに、どうやら彼自身も現在の徳川幕府に対し、余り思い入れなどは無い様である。彼は生まれながらの貴族であり、権力などに対する執着心は極めて薄かった。徳川十五代目にあたる“最後の将軍”に就いてからの慶喜の幕権強化政策を指して、明治になってから、自分の役割は徳川幕府に引導を渡す事だと思っていた、と語った彼の言葉を政府に対する擬態と取る歴史家も居るには居るが、どうであろうか。彼は明治になってから、長州は最初から公然と反幕の旗幟を鮮明に挑戦して来たから蟠りはないが、薩摩はこちらと手を組む振りをして後ろから切り付けるような卑劣な真似をした、これだけは許せない、と恐ろしく際どい発言も洩らしているのである。もし、時の政府の枢要を占めている薩長の目を憚っていたとすれば、このような事は言わない筈であろう。大政奉還というアイディアも幕府の重要なポストに就いた後ならば兎も角、恐らく公職に付く前には思いついて、時には信用のおける側近などにも打ち明けていたと見て間違いは無い。更に、個人的な感情と言う角度から推察してみても、自分をあれほど忌み嫌って散々罵り続けた幕臣に対する怨恨が無かったとは言い切れないだろう。長州で頻繁に使われた用語を使えば“因循姑息”な連中を切り捨てて新政権に参加するのは自分とその理解者だけであるというような復讐の打算も動いていたのではないか。単なる怨恨が動機ではなく、徳川の連枝を脅迫するような発言が公然と飛び出す幕府にあっては、これから事態が更に悪化すればいずれ慶喜ですらいつ命を狙われるか判らないと言う予測も、強ち飛躍した発想とは言えないのである。現に、慶喜が将軍に就任するまでの間に彼の側近が数人、殺されているのである。それこそ、元々他人の外様大名が幕府を私称する徳川家に反感を持っていても別に不思議は無いが、本来ならば自分を敬わねばならない立場であるにも拘わらず、事有る毎に罵倒し、徹底的に忌み嫌った幕臣の連中には言い知れぬ憎しみが有ったのではないだろうか。流石に御一新で既得権益を失った彼等に対し、ここまで痛罵する事は無かったが。この大政奉還という政策も、以前から無能無気力無責任の三無主義を絵に描いたような旗本に対して辛辣であった慶喜にしてみれば、寄生虫のような連中をリストラする為の口実になるとさえ思っていた節もある。名目だけの降伏宣言を表明しつつ石高四百万石といわれる徳川家直轄領の実力を温存させたまま、老朽化した江戸幕府を早めに閉鎖させて新政権発足の際には第一等の功労者として大手を振って参加しようとの計略があったと見ても不思議は無い。一般庶民から志願者を募って組織した直属の洋式歩兵部隊も、幕府軍ではなく新政権に参加する際の手駒として用意していたのではなかろうか。未練がましい権勢欲というよりも、既に廃物同然となった粗大ゴミに義理立てして殉死するよりも来るべき新時代の政権運営に積極的に乗り出すと言う方が、この頭脳明晰な精力家にとっては魅力的だったのではないかと想像するのである。何せこの時慶喜三十一歳、いよいよ政治家として活動すべき“適齢期”が間近に迫っているのである。新鮮で野心的な構想やら展望も少なからず抱いていたと見て間違いは無い。その為には、出来るだけ相手をてこずらせ、脅威を与えて慶喜自身が自らの手で幕府を解体してくれた御蔭で新政府が誕生した、と言う印象を与えておかねばならない。後から想像してみれば、慶喜の頭の中にはこんな感じの構想が有ったのではなかろうか。尤も、幕府の弾圧と命懸けで戦いながら革命運動に参加して夥しい同志を失った連中はそれ程御人好しではなく、慶喜の高度な策略も机上の政治シミュレーションに過ぎなかったと言う事が証明されるのは彼が予ねてよりの計画通り大政奉還を断行してからである。

こうして十二月五日、とうとう慶喜は将軍に宣下された。

最後の最後まで拒み続けた挙句、是非にと言う周囲からのたっての願いを断る事が出来ずとうとう受け入れた、と言う態度を不必要なまでに世間に対して強調した挙句の就任であった。

それに歩調を合わせるように、と言うより慶喜の方が合わせたのだろう、八日にはシャノワンヌ大尉以下十五名が軍事顧問としてフランスから到着した。慶喜は慶喜で、輝かしい未来に向けて着々と野望__結果から見れば残念ながら空想に終ったが__を実現すべくその全知全能を傾けている最中であった。


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